第7話:陳腐化するスキル
「稼ぐ力」さえあればいい。
それが、裕樹の最後の砦だった。
社会保険料(直接負担)が上がろうと、低コストのシニア人材(間接負担)に賃金を抑制されようと、自分自身の「人的資本」の価値、すなわち稼ぐ力さえ高め続ければ、このシステムから逃げ切れなくとも、溺れ死ぬことはない。
彼はそう信じ、この数ヶ月、沙奈と美咲が寝静まった深夜、睡眠時間を削って最新のAI関連技術を学習していた。
システムエンジニアとして、ジェネレーティブAIの波を乗りこなし、自らの単価を上げる。それこそが、唯一の積極的な「自衛」のはずだった。
その翌日。オフィスの休憩室で、裕樹は自販機の缶コーヒーを握りしめたまま、寝不足の頭痛に耐えていた。
「裕樹さん、顔色悪いっすよ」
声をかけてきたのは、同じチームの後輩、健太だった。
「……ああ。昨日の夜も、AIの勉強しててな」
「うわ、マジすか。熱心っすね」
「笑い事じゃないだろ。食われないようにするには、こっちが使いこなす側に回るしかない」
裕樹が真剣な顔で言うと、健太は、いつもの冷めた笑いを浮かべた。
「ああ、それ。もう手遅れっていうか、焼け石に水っていうか」
「……なんだよ」
「ちょっと、こっち来てください」
健太は裕樹を自席に呼び、ノートPCの画面を向けた。
「昨日、俺ら一日中、あのクライアントから来たクソ仕様書(50ページ)の解読と、アーキテクチャ設計で会議、潰したじゃないですか」
「……ああ。斉藤さん(第六話のベテラン)と俺とで、やっと方針決めた、あれか」
「俺、昨日の夜、会社がテスト導入した最新のGenAIツールに、あの仕様書、丸ごと食わせてみたんすよ」
裕樹の心臓が、嫌な音を立てた。
健太がEnterキーを押す。
数秒の処理の後、AIが吐き出した「回答」を、裕樹は凝視した。
それは、新卒が書くような凡庸なコードではなかった。
そこには、
1. 『原文(仕様書)の曖昧な点:5項目(例:XXの定義が不明瞭)』
2. 『推奨アーキテクチャA案(マイクロサービス化)、B案(既存システム改修)』
3. 『A案のメリット・デメリット(将来性・コスト)、B案のメリット・デメリット(DB接続性・短期納品)』
4. 『A案採用時の推奨API設計(サンプルコード付き)』
……昨日、裕樹と、あのベテランの斉藤さんが、互いの経験と知識を総動員し、8時間かけて議論した結論と、ほぼ同じ(あるいは、それ以上に洗練された)分析結果が、完璧な日本語で出力されていた。
裕樹は、声が出なかった。
AIは、もう「単純なコーダー」の仕事など奪っていない。
それは、「高付加価値業務」と信じていた、俺たち(中堅エンジニア)の「設計・分析・提案」という仕事を、既に代替し始めていた。
健太が、冷ややかに言った。
「ここまで、30秒っすよ」
健太は、自席のディスプレイに映るAIの回答と、青ざめる裕樹の顔を、面白そうに見比べた。
そして、おもむろに自分のスマートフォンを取り出す。待受画面は、NISAの積立設定画面だった。
「裕樹さん。俺たちが今さら必死でスキルアップ(笑)しても、こいつの進化速度に勝てます?」
その言葉が、裕樹の最後の砦を粉々にした。
「スキルアップで時給(=労働単価)を上げること自体が、もうオワコンなんすよ」
「オワコン……?」
「終わったコンテンツ、ですよ」
健太は、NISAの画面をタップしながら、この国のシステムに対する諦観と、冷徹な合理性だけで満たされた目で、裕樹をまっすぐに見た。
「俺はもう、自分の『人的資本』とかいう不確実なモンに、時間を割くの、やめたんです。どうせAIに陳腐化させられる『不良債権』じゃないすか」
「それより、NISAで金融資本に働いてもらう方が、よっぽど合理的でしょう」
健太の「合理性」が、残酷なまでに正しいことを、裕樹は認めざるを得なかった。
システム(国)と、市場(AI)。
その両方から、自分たちの価値が毀損されていく。
稼ぐ力さえあれば、と信じていた最後の道が、目の前で音を立てて崩れ落ちていくのを、裕樹はただ呆然と見ていることしかできなかった。
この小説はハイファンタジー小説です。登場する人物・団体・名称等は全て異世界のものであり、現実に実在するのものとは、何の関係もありません。
「不良債権世代」は、続「国民基盤役務制度」です。
https://ncode.syosetu.com/n0696lb/




