第6話:シニアという名の調整弁
月曜日の午前十時。 裕樹の勤めるIT企業の大会議室には、数百人の社員が詰めかけ、重苦しい空気がただよっていた。 スクリーンに映し出されたのは、「持続可能な成長のための人員戦略」というタイトルの、当たり障りのないスライドだった。
「ご存知の通り、我が社の労働力不足は深刻だ」
人事担当役員が、マイクを通して響く硬い声で語り始めた。
「しかし、昨今の賃上げ圧力、および社会保険料の会社負担増により、人件費の高騰は経営を圧迫している。新卒採用も中途採用も、従来の計画通りには進まない。そこで、政府が推進する『高齢者就労促進』の枠組みを最大限に活用する」
スライドが切り替わる。 『シニア人材の積極的活用(プロフェッショナル・パートナー契約)』という文字が、希望に満ちた明るいフォントで踊っていた。
「経験豊富なシニア層を、適切なコストで雇用し、現役世代のサポートに充てる。これにより、現役世代の皆さんは、より高付加価値な業務に集中できる。企業の成長、シニアの生きがい、現役の負担軽減。まさに『全世代型』のウィンウィンな戦略だ」
役員は胸を張ってそう締めくくったが、裕樹の耳には、その言葉の裏にある乾いた響きだけが残った。 「適切なコスト」。 その曖昧な言葉が、妙に引っかかった。
数日後、裕樹のプロジェクトチームに、その「シニア人材」第一号が配属されてきた。
「初めまして。斉藤と申します。六十六歳ですが、現場が好きでしてね。老骨に鞭打って働かせていただきますよ」
斉藤と名乗るその男性は、柔和な笑顔の裏に、確かな知性を宿していた。聞けば、元・大手SIerのプロジェクトマネージャーを歴任し、定年後は悠々自適……かと思いきや、「社会との接点を持ちたい」と再就職を希望したという。
その実力は、本物だった。 「ここの要件定義、少し詰めが甘いですね。このままだと実装フェーズで手戻りが発生しますよ」 配属初日、斉藤は複雑な仕様書のボトルネックを、裕樹たちとは違う俯瞰的な視点から即座に見抜き、的確な修正案を出した。
「すごいな、あの人……」 チームの若手はもちろん、リーダーである裕樹も、当初は素直に感心し、敬意を抱いていた。 父・昭夫のような「勘違い」タイプとは違う。斉藤は、本物のプロフェッショナルだ。
その認識が、戦慄へと変わったのは、月末のことだった。 プロジェクトの予算管理を任されている裕樹のもとに、斉藤の勤怠データと、業務委託契約に基づく請求データが回ってきた時だ。
そこに記載された「時給単価」。
裕樹は、自分のデスクで、誰にも気づかれないよう自作の家計簿ソフトを起動した。 彼自身の「総支給額」を、月の所定労働時間で割る。 裕樹(34歳)、脂の乗り切った中堅システムエンジニアとしての、現在の「時給」を弾き出す。
そして、二つの数字を並べた。
「……嘘だろ」
声が漏れそうになるのを、必死で飲み込んだ。
斉藤の時給単価は、裕樹のそれと、ほぼ同額だった。
安すぎるわけではない。プロパーの若手社員よりは高い。 だが、あれだけの経験とスキルを持ち、プロジェクトの危機を救うだけの実力がある斉藤の単価が、まだマネジメント経験の浅い裕樹の単価と「同じ」なのだ。
裕樹の背筋に、冷たい汗が流れた。 これは「低コストな高齢者が若手の仕事を奪う」という単純な話ではない。もっと恐ろしい、構造的なメッセージだ。
会社は、裕樹たち現役世代に対して、こう宣告しているのだ。
『君たちがこれから10年、20年かけてスキルを磨き、経験を積んでも、その市場価値(単価)は今の水準から上がらない』
なぜなら、君たちが目指す「ベテランの完成形」である斉藤さんのような人材が、今の君たちと同じ価格で、市場にはいくらでも供給されているからだ。 昇給も、賞与も、退職金の積み立ても不要な「完成品」が、この価格で買えるのだ。 だとしたら、なぜ会社が、未完成な君たちの給料を、これ以上上げる必要がある?
裕樹は、あの人事役員の言葉を反芻した。 『現役世代はより高付加価値な業務に集中できる』
嘘だ。 「高付加価値」になったとしても、その対価は支払われない。 上限は、すでに決定されている。 斉藤さんのような優秀な高齢者が、年金受給を前提とした「適切なコスト(=現役世代の賃金抑制額)」で働いてくれる限り、裕樹たちの賃金カーブは、ここで頭打ちになる。
「……ふざけるな」
裕樹は、オフィスの喧騒の中で、誰にも聞こえない声で呟いた。
脳裏に、実家の父・昭夫の顔が浮かぶ。 「手取りが増えるんだ」と無邪気に喜んでいた父。彼は、自分が損をしていることにも気づかず、システムを盲目的に支持していた。
そして目の前には、斉藤さんがいる。 彼は極めて優秀で、善意の人だ。だが、彼が優秀であればあるほど、その「安さ」は、裕樹たち現役世代の未来を押し潰す重石となる。
父・昭夫は「勘違い」によって。 斉藤さんは「実力」によって。 どちらも、結果として、裕樹たち現役世代を追い詰めるシステムの駒となっている。
裕樹は、デスクの上の計算機を叩いた。
俺たちは、「社会保険料」や「支援金」という直接の負担で、稼いだ後の可処分所得を奪われるだけじゃない。 「安価な高齢者労働力」という間接的な圧力によって、稼ぐ力そのもの(総所得)まで圧縮されている。
「入口」も「出口」も、完全に塞がれている。
これは、国の不良債権処理コストが、俺たちの「人的資本」という名の資産価値そのものを、物理的に毀損させているのと同じだ。
「裕樹さん、ここのデータ、確認してもらえますか?」
斉藤さんが、人好きのする笑顔で話しかけてきた。 裕樹は、引きつった笑顔を返すのが精一杯だった。 その笑顔の向こうに、これから32年――彼が斉藤さんの年齢になるまで――延々と続く、昇給なき労働の荒野が見えた気がしたからだ。
この小説はハイファンタジー小説です。登場する人物・団体・名称等は全て異世界のものであり、現実に実在するのものとは、何の関係もありません。
「不良債権世代」は、続「国民基盤役務制度」です。
https://ncode.syosetu.com/n0696lb/




