第5話:毀損する資産
日曜の夜。 日付が変わろうとする時刻。 沙奈と美咲が寝静まったリビングで、裕樹のノートパソコンのディスプレイだけが、深海の底のような青白い光を放っていた。
日中、実家で聞いた父・昭夫の屈託のない声が、裕樹の脳内でノイズのようにリフレインしていた。
『俺の手取りが、また増えるってわけだ』
父の場合は制度の複雑さ故の勘違いだろう。だが、確かに増える人は居るはずだ。
1%程度のエリート層がこれに該当する。
彼らの年金は増える。なぜ、増える? システムエンジニアとしての裕樹の思考回路は、その「出力(受益)」に対する「入力(財源)」の所在を、バグを探すときのような執拗さで求め続けていた。
この国に、魔法の杖はない。 誰かの「手取り」が増えるなら、必ずどこかで、誰かの「財布」が痛んでいる。 それが、ゼロサム・ゲームと化したこの国の社会保障システムの鉄則だ。
(財源は、どこだ?)
財務省の様に財源を探してみる。
裕樹はまず、マイナポータルからダウンロードした自分自身の「ねんきん定期便」のPDFデータを開いた。 そこに印字された『これまでの加入実績に応じた年金額』。 老後に受け取れる予定の、あまりにも心許ない数字。
(そもそも、この数字すら信じられるのか?)
彼はブラウザの新しいタブを開き、検索窓にキーワードを打ち込んだ。
『年金 カット 仕組み』 『マクロ経済スライド 分かりやすく』
検索結果に並ぶのは、難解な官僚用語で埋め尽くされた解説サイトばかりだった。 だが、裕樹はそのロジックの「アルゴリズム」だけを抽出して読み解いた。
少子高齢化で「支え手」が減り、「受け取り手」が増える。
本来なら制度が破綻するが、「マクロ経済スライド」という自動調整機能を組み込む。
物価や賃金が上がっても、年金の支給額の伸びを「スライド調整率」分だけ強制的に抑制する。
「……なるほど」
裕樹は、乾いた笑いを漏らした。 要するに、インフレになっても年金はそれと同じだけは増えない。実質的な価値(購買力)は、目減りし続けるようにプログラムされている。
「ステルス・デフォルトじゃないか」
国は「年金を払わない」とは言わない。 ただ、「価値のない紙幣」として払うことを、システムとしてあらかじめ決定しているだけだ。
だが、これは「自動的」な毀損だ。全世代が被る、静かなる沈没だ。 彼が今、突き止めたいのは、父が言っていた「在職老齢年金の緩和」という、特定の層への「意図的」な利益供与の財源だった。
昭夫は勘違いで喜んでいた。 「働いても年金がカットされなくなる」と。 では、エリート層にカットされずに支払われることになったその追加の年金原資は、どこから湧いて出た?
裕樹は、検索キーワードを変えた。 指先が、怒りでわずかに震える。
『在職老齢年金 見直し 財源』 『年金財政検証 2024 影響』
いくつかのニュース記事を飛ばし、彼は一つのリンクにたどり着いた。 厚生労働省のウェブサイト。 『社会保障審議会 年金部会 配布資料』。
無味乾燥なPDFファイルが開く。 膨大な数字とグラフの羅列。官僚たちが「不都合な真実」を隠すために使う、典型的な迷彩柄の文書だ。 裕樹は、Ctrl+Fキーを押し、『就労意欲』と入力した。
ヒットした。 『高齢者のごく一部の、高所得な層の就労意欲の阻害要因の除去』。 父・昭夫が勘違いの末に誇らしげに語っていた美辞麗句の、正確な表現がそこにあった。
「……あった」
裕樹は、その項目の下にある、極めて小さな注釈のような試算表を見つけた。 そこには、在職老齢年金を緩和・廃止した場合の、年金財政への影響がシミュレーションされていた。
ごく一部の高所得高齢者に、「今すぐ」年金を満額払う。 それはつまり、年金積立金(俺たちの未来の資産)からの「流出」が加速することを意味する。 積立金が早く減れば、制度の持続可能性を守るために、「マクロ経済スライド」による調整期間(=年金の実質削減期間)を、より長く、より強く発動させざるを得なくなる。
その結果、どうなるか。
裕樹は、その一行を、何度も、何度も読み返した。
『……上記見直し(基準額緩和)による、将来の年金受給者全体の所得代替率への影響: ▲(マイナス)』
具体的な数字こそ、いくつもの前提条件の中に埋もれていたが、結論は明白だった。 「現在」の(ごく一部の)受給者への支出を増やせば、「将来」の(全ての)受給者――裕樹たち――の給付水準(所得代替率)は低下する。
全身から、急速に血の気が引いていくのが分かった。 理解するのに数秒かかった。
当事者は、「俺が働いた分だ」と言うだろう。 だが、事実は違う。
「今」の高齢者の一部(エリート層)の、目先の「手取り」を増やすために。 そのコストは、「将来の」自分たち(現役世代)が受け取るはずの年金資産を、「マクロ経済スライド」という装置を使って、先食いし、毀損させることで賄われる。
親父の「プラス」(と彼が信じているもの)は、俺の「マイナス」で作られていたんだ。
(……いや、待て)
裕樹の思考が、凍りついた。 その「マイルール」は、現役世代だけに適用されるのか?
(「マクロ経済スライド」は、将来の年金受給者「全員」の給付を抑制する装置だ……)
(だとしたら……)
裕樹は、このシステムの最も恐ろしい皮肉にたどり着いた。
この「在職老齢年金」の緩和で、今、手取りが増えると勘違いで喜んでいる「68歳」の昭夫や、本当に増えるエリート層も、10年後、20年後は「78歳」「88歳」になっている。 彼ら自身も、その「将来」においては、自分たちが招いた「マクロ経済スライド」の強化によって、自分自身の年金(の実質価値)を、自動的に引き下げられることになる。
「……世代内での、共食いだ」
受益者たちは、次世代の未来を食い物にしているだけではなかった。 彼らは、このような政策を支持し、その結果、「将来、他の高齢者」の年金さえも食い潰そうとしていたのだ。
「……詐欺だ」
怒りが、冷たい絶望に変わっていく。 第一話から第四話まで、彼が感じてきた違和感が、一つの巨大な絵図として完成した。
第一話:【インフレと控除】 現在のキャッシュフロー(手取り)を枯渇させる。
第二話:【子育て支援金】 「永久債」として、将来の負債を確定させる。(受益者は全世帯の4%)
第三話:【高額療養費】 「金融資産」を持たない現役世代から、セーフティネットを剥奪する。
第四話:【在職老齢年金】 「勘違い」した父たち(96%の高齢者)を熱狂させ、「1%のエリート高齢者」を優遇するために、俺たちの未来の年金原資を溶かす。
第五話:【マクロ経済スライド】 そして、そのツケは、俺たちだけでなく、熱狂した父たち自身の「未来」にさえ、平等に(あるいは、より残酷に)突き刺さる。
裕樹は、ディスプレイに映る自分の顔を見た。 青白い光に照らされたその顔は、死人のように生気がなかった。
「俺たちが今、強制的に購入させられている『年金』という商品は……」
裕樹は呟いた。
「『劣後債』だ」
企業が破綻した時、他の債権者(今の高齢者)への支払いが全て終わった後でなければ、一円も戻ってこない債券。 リスクだけを背負わされ、リターンは「先輩たち」が食い尽くした後。 元本割れなど、とうの昔に確定している。
裕樹は、ノートパソコンを強く閉じた。 パタン、という乾いた音が、静まり返ったリビングに響いた。
暗闇の中、裕樹は目を閉じた。 瞼の裏に浮かぶのは、実家で見た、父・昭夫のあの屈託のない笑顔だった。 「手取りが増えるんだ」と喜んでいた、無邪気な父の顔。
普通の人を、制度の複雑さで勘違いさせ、エリートだけはしっかり持っていく。結局、我々が貰えるのは残りカスだ。裕樹の中で何かがプツリと切れた。
明日も、月曜日が来る。 システムエンジニアとして、バグのないシステムを作るために、会社へ行かなければならない。 だが、この国という巨大なシステムに組み込まれた、取り除けないバグ(構造的欠陥)を抱えたまま、彼は生きていかなければならない。
裕樹は、寝室へと足を向けた。 そこには、まだ何も知らない沙奈と、疲れ切った美咲が眠っている。 彼は、二人の寝息を聞きながら、ただ無力感に包まれていた。
この小説はハイファンタジー小説です。登場する人物・団体・名称等は全て異世界のものであり、現実に実在するのものとは、何の関係もありません。
「不良債権世代」は、続「国民基盤役務制度」です。
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