第4話:父の手取り
その週末、裕樹は沙奈を連れて、電車を乗り継ぎ、実家に顔を出した。
都心から一時間ほどの私鉄沿線。休日の下り電車は、家族連れでそれなりに混んでいた。
「あ、パパ、おそと!」
窓の外を流れる景色に、沙奈がはしゃいだ声を上げる。
美咲は「少しデザインの仕事を片付けたいから」と、東京のマンションに残った。本当は、ここ数日の重い空気から逃れたかったのかもしれない。
「おお、来たか。沙奈、大きくなったな!」
駅まで迎えに来ていた父・昭夫が、二人を見つけて手を振った。六十八歳。
三年前、中堅メーカーの営業部長として定年退職し、今は週に三日、関連会社で「営業アドバイザー」という名の嘱託社員として働いている。
「親父、元気そうだな」
実家までの道を歩きながら、裕樹は言った。
「おう。おかげさんでな」
居間のテーブルに着くと、昭夫は上機嫌で、ノンアルコールビールを裕樹の前に置いた。自分は缶ビールを美味そうに呷っている。
「そういえば裕樹、知ってるか? 在職老齢年金、また見直しになるらしいぞ」
「在職老齢年金?」
裕樹の耳が、そのシステム名に反応した。
「ああ。今までは、俺みたいに働きながら年金を貰うと、給料と年金の合計が『基準額』を超えると、超えた分、年金がカットされたんだ」
昭夫は誇らしげに続けた。
「その基準額が、どうやら、もっと上に引き上げられる。つまり、カットされにくくなる。俺の『手取り』が、また増えるってわけだ」
手取り。
その言葉が、裕樹の鼓膜を鈍く打った。
「政府も、ようやく分かってきたじゃないか。俺たち高齢者の『就労意欲』をな。まだまだ働けるんだから、働いた分だけ貰う。当然だろう」
昭夫は、自分の「労働」が正当に評価され、社会に「貢献」していると信じて疑っていない。
裕樹は、無言で父の顔を見た。
数日前、自分がシミュレーションした「数字」が、脳裏で明滅する。
裕樹(34歳):
『子ども・子育て支援金』により、生涯収支マイナス419万円(=永久債の購入)。
『高額療費』のセーフティネットが、2.1倍(9万3千円)に値上げされている。
昭夫(68歳):
『在職老齢年金』の緩和により、「現在の手取り」がプラスになると喜んでいる。
裕樹は、昭夫に問いかけたくなった。
「親父、その『緩和』の財源は、どこから出るか知ってるか?」
「親父、その増える『手取り』から、俺たちが来年から払わされる『子育て支援金』を、親父も医療保険料として年金から天引きされるって知ってるか?」
だが、裕樹は口をつぐんだ。
言っても無駄だ。父には、父の「正義」がある。そして、父の世代は、政治的な「数」を持っている。
「どうした、暗い顔して。沙奈、じいちゃんと遊ぶか!」
昭夫の屈託のない声が、裕樹の絶望を、さらに深い場所へと押しやった。
世代が違うだけで、なぜこうも「手取り」の意味が違うのか。
そして、その時。
システムエンジニアとしての冷徹な思考が、父の言葉の「穴」に気づいた。
(……待てよ。基準額? 週三日の嘱託勤務で、そんなに稼げるのか?)
裕樹は、以前、昭夫が酒の席で話していた給与額を思い出していた。元部長とはいえ、嘱託の給与は現役時代の三分の一程度だと。確か、月15万かそこらだ。そして、年金は元部長だったから、それなりに多くて月18万くらいか。
裕樹は、無意識にスマートフォンの電卓アプリを起動していた。
(親父の給与:月15万 + 年金:月18万 = 合計月収:33万)
指が、止まった。
昭夫の合計月収は「33万円」だ。
在職老齢年金の現在の基準額「48万円」にも、緩和後の新基準「50万円超」にも、まったく達していない。
父が今、熱っぽく語っている「手取りが増える」というニュースは、昭夫自身には、1円も関係のない話だった。
裕樹の背筋を、冷たいものが走った。
これは「若者 vs 高齢者」という単純な世代間対立ですらない。
これは、「資産も所得も持たない96%の現役世代(俺たち)」が負担した財源を使って、「政治力を持つ高齢者層の、さらにその中の、ごく一部の『高所得な勝ち組』(元役員クラス)」を、ピンポイントで優遇するシステムだ。
そして、父・昭夫は。
その「ごく一部の勝ち組」に、自分は入っていない。
彼もまた、システムからは「中間層」として扱われ、搾取されている側の人間だ。
それなのに。
彼は、システムの構造を理解しないまま、自分には1円の得にもならない「エリート高齢者優遇策」を、なぜか「俺たちの勝利だ」と思い込んで、喜んでいる。
裕樹は、父が「受益者」であること以上に、「システムの構造を理解できないまま、喜んで搾取の片棒を担いでいる」という、このどうしようもない事実に、本当の絶望を感じた。
これこそが「シルバー民主主義」の本当の恐ろしさだ。
多数派が、必ずしも自分の利益のためではなく、エリート層に都合の良い「空気」や「ニュースの見出し」によって、自分たちですら損をする非合理的な選択を、熱狂的に支持してしまう。
(……だとしたら、その「ごく一部の勝ち組高齢者」を優遇するための財源は、いったいどこから来ているんだ?)
裕樹の疑念は、振り出しに戻った。
いや、より最悪の仮説へと収斂していく。




