エピローグ:観測者
西暦2046年、11月。
マレーシア、クアラルンプール。モンスーンが運ぶ湿った熱気が、高層コンドミニアムの窓ガラスを曇らせている。
「……92.1パーセント、か」
裕樹、五十五歳。
彼は、あの日(第1話)の古い賃貸マンションとは別世界の、広すぎるリビングで、冷えたコーヒーを口に運んだ。
彼の視線の先にあるのは、自作の『世帯資産ダッシュボード』ではない。国際ニュースフィードが映し出す、日本の「国民投票」の最終結果だった。
『国民基盤役務制度の継続、賛成92.1%で可決。白洲新政権、体制の信任を得る』
9年前、2037年5月10日。
あの「カタストロフィー」が、裕樹のシミュレーションの「全て」を覆したあの日。
裕樹の「合理的自衛」は、彼が積み上げた「2.5億円(ドル資産)」を「老後の資産」から「脱出のための軍資金」へと変貌させた。
「日本」という名の、物理的に崩壊し、デフォルトした「投資先」から、家族(美咲と沙奈)を連れて脱出する。
第12話で誠が示した「海外脱出」という、かつては非現実的だったあの選択肢を、彼は実行した。
彼ら家族は、「不良債権システム」から物理的に逃げ切り、この国で、彼が守り抜いた「システム外資産」によって、安定した生活を築いていた。
彼は、彼自身の「合理的自衛」の戦いに、完全に「勝利」したのだ。
だが、今、彼が見ている「92.1%」という数字は、その「勝利」が、いかに孤独なものであったかを物語っていた。
「……パパ、何見てるの?」
リビングに入ってきたのは、沙奈(24歳)だった。こちらインターナショナルスクールを卒業後、シンガポールの大学を卒業し、今は地元の国際企業で働いている。
「日本のニュースだよ」
「ああ、あの『全部決めてくれるシステム』の投票?」
沙奈は、もはや「他人事」として、その画面を一瞥した。
裕樹は、娘のその反応に、静かに頷いた。
第31話で彼が決意した「真の相続」――『システムから資産を引き離す方法』という「教育」は、完璧に完了していた。
裕樹は、再び画面に目を戻した。
92.1%。
なぜ、日本国民は、有馬征四郎(そして今は白洲二郎)が敷いた「強制的」で「灰色の」体制を、自らの手で「追認」したのか。
裕樹には、その「論理」が、痛いほどわかっていた。
彼は、かつて自分が組み上げた、あの悪夢のシミュレーションを思い出していた。
第20話:『親・介護シミュレーション』
――親の預金(1,000万)が、介護費用で5年で枯渇する。
第25話:『沙奈・依存(8050)』
――子の「失敗」が、親の老後資産(4,000万)を食い潰し、『共倒れ』を招く。
第26話:健太の『チャイルドフリー』
――子供を持つこと自体が、資産形成を不可能にする「子育て罰」であり、究極の「不良債権リスク」である。
「……そうか」
裕樹は、乾いた笑いを漏らした。
俺が『リスク』として『回避』しようとした、その全てを……
このゲームは、チートなしのモブには余りに難しすぎる……強制参加のクソゲー……
でも……
『国民基盤役務制度(有馬・白洲体制)』は、その全てを「解決」したのだ。
「介護」は、国家が「シニア期役務」として管理する。
「8050問題」は、発生しない。なぜなら、AIが最適配置した「役務」に就くことが「義務」であり、子供が親の資産に「依存」する状態を、システムが許さないからだ。
「失業」も「老後不安」もない。
あの日、第1話で裕樹を苛んでいた「手取り」と「控除」の絶望。
あの『不良債権世代』の「クソゲー」と、有馬が提示した「灰色の豊穣」。
二つを天秤にかけた時、国民は「合理的」な選択をしたのだ。
健太のような、ごく一部の「合理的自衛」の勝者が享受する「自由」よりも、
92.1%の国民は、「システム」による「絶対的な安定」と「破綻の回避」を選んだ。
健太(第26話)は、個人として「子ガチャは引かない」という「合理的自衛」を選んだ。
有馬は、国家として「国民基盤役務制度」という「合理的自衛」を選んだ。
そして、裕樹は。
裕樹は、ただ一人、「家族」という「非合理的」なもの(=沙奈)を抱えたまま、この「合理的」すぎる二つのシステム(『完全自由』と『役務制度』)の両方から、逃げ出した「観測者」だった。
「どう思う、パパ?」
「……いや」
裕樹は、ニュースフィードを閉じた。
彼が守り抜いた「2.5億円」の資産は、この「92.1%」の選択の前では、何の意味も持たない。
彼は、第11話で健太が喝破した「牧場」から、確かに逃げ出した。
だが、牧場に残った家畜たちは、自らの意思で、より強固な「柵」と、より確実な「飼料」を、選んだのだ。
「沙奈。週末、父さんの『最終戦略』の続き、教えるぞ」
裕樹は、娘に言った。
「ここの銀行も、いつ『CRS(共通報告基準)』の網にかかるか分からない。本当の『聖域』の作り方を」
彼の「合理的自衛」の戦いは、彼が「ゲームに勝利」したこの場所で、まだ終わっていなかった。
日本という「戦場」が消滅した今、世界という、より広大な「システム」を相手に、彼は、ただ淡々と、シミュレーションと「実行」を続けるだけだった。
『不良債権世代 このまま異世界行けないと、いったい私達どうなりますか?』にお付き合い頂きありがとうございました。もしよろしければ、表裏一体の『国民基盤役務制度』もご覧いただければと思います。




