番外:2037年5月10日の結末
西暦2037年5月10日。
東京のタワーマンション、28階。 あの日(第1話)の古い賃貸マンションとは、比べ物にならない広さのリビング。裕樹(46歳)は、この「勝利の城」を手に入れていた。
リビングの壁一面に設置された大型ディスプレイ。 そこに映し出されているのは、テレビ番組ではない。 12年前に裕樹がゼロから組み上げた、「合理的自衛」のための『世帯資産ダッシュボード』(第32話)の、最終進化形だった。
【HIROKI Family - Asset Allocation (2037.05.10)】
システム外・ドル資産(海外口座): 60%
システム外・現物: 10%
システム外・事業資産(美咲LLC): 20%
システム内・円資産(NISA/生活防衛): 10%
【世帯生涯収支シミュレーション】 (※ワーストケース:8050問題発生・親介護費用(第20話)全額負担) 『85歳時点 残存資産: +250,000,000円』
あの日(第29話)、『+120万円』という「破綻回避」でしかなかった綱渡りのシミュレーション。 それが、この12年間の夫婦の「共闘」によって、圧倒的な「勝利」の領域へと変わっていた。
美咲の「法人化(第16話)」は軌道に乗り、裕樹の「ドル建て副業(第17話)」は、AIの波(第7話)を乗りこなし、もはや本業の「日本円」収入を凌駕する「ドル」の柱となっていた。 彼らは、この「不良債権システム」の中で、「経済的」には、完全に勝利したのだ。 このタワーマンションの家賃(月40万)も、彼らの「事業経費」と「ドル資産」の前では、合理的な「コスト」に過ぎなかった。
「ただいまー」 玄関のドアが開く。 沙奈(15歳)が、都内の名門私立中学の制服姿で帰ってきた。 第22話で「1,550万」と試算された『国内エリート投資』は、成功裏に実行されていた。
「ママ、お腹すいた。パパ、週末の……」
沙奈が言いかけた、その、午後4時16分。
ミシッ、ミシッ……ゴゴゴゴゴゴッ!!!!
地鳴り、ではなかった。 タワーマンションの28階が、まるで巨大な手に掴まれ、水平に揺さぶられるような、強烈な「横G」が、裕樹の体を襲った。
「裕樹っ!!」 「沙奈っ!!」
裕樹は、デスクにしがみつくのが精一杯だった。 ダッシュボード(ディスプレイ)が壁から剥がれ落ち、凄まじい音を立てて床に叩きつけられる。
免震構造のタワーマンションが、ゆっくりと、しかし確実に、大きく「しなって」いるのが分かる。 本棚が倒れ、食器が割れ、12年かけて築き上げた「合理的自衛」の城が、物理的に破壊されていく。
揺れは、数分間、断続的に続いた。
「……二人とも、無事か」 「……なんとか」 「……こわい、パパ、こわい……」
裕樹は、埃と恐怖で泣き叫ぶ沙奈を抱きしめながら、立ち上がった。 リビングは、無惨な残骸で足の踏み場もなかった。 だが、建物自体は、倒壊していない。これが、想定されていた「東京(震度5強)」の揺れだ。
ピシャン。 電気が、切れた。 水道も、止まった。 スマートフォンの電波塔も、死んだ。 日本の「グリッド」が、沈黙した。
「……裕樹、どうしよう」 美咲が、震える声で夫にすがる。
「……落ち着け」 裕樹の声は、冷徹だった。 「想定通りだ。健太(第19話)の言った通り、『グリッド』が落ちただけだ」
裕樹は、妻と娘をその場に残し、寝室のクローゼットの奥へと走った。 彼が取り出したのは、「金」ではなかった。
美咲の法人(第16話)で「経費(=防災備品)」として落とした、大容量のポータブル電源。 そして、ベランダに設置してあった、衛星通信サービス「スターリンク」のアンテナとルーター。 さらに、衛星電話端末だった。
「……大丈夫だ」 裕樹は、ポータブル電源にルーターを接続し、自らのノートパソコンを起動させた。 「俺たちの『自衛』は、グリッドが落ちた後のことも、シミュレーションしてある」
数分後。 日本の通信網(牧場)が沈黙する中、裕樹のパソコンだけが、衛星経由で、静かに「システム外」のインターネットに接続した。 日本のニュースサイトは、どれも応答がない。 裕樹は、ブラウザに、ロイターとCNNのURLを直接打ち込んだ。
そして、彼は、絶句した。
画面に映し出されていたのは、「震度5強で揺れた東京」の被害ではなかった。 海外の衛星がリアルタイムで捉えた、「日本の終わり」だった。
『TSUNAMI, COMPLETE DESTRUCTION AT NAGOYA, OSAKA』 『JAPAN'S INDUSTRIAL HEARTLAND, WIPED OUT』
名古屋港も、関西国際空港も、茶色い水の中に沈んでいた。 太平洋ベルト地帯が、物理的に、消滅していた。
「……ああ……」
裕樹は、この12年間、彼がシミュレーションしてきた「全て」が、根本的に間違っていたことに、今、気づいた。
彼は、「経済的崩壊(インフレ、増税、円安)」とは戦ってきた。 彼は、「物理的崩壊(インフラの死)」にも備えた(=スターリンク、電源)。
だが、彼がシミュレーションから「除外」していた、たった一つの、最悪の変数。 それは、「自分(東京)は生き残るが、日本(国家)が終わる」というシナリオだった。
彼の脳が、冷徹なシミュレーションを再開する。
前提: 日本のGDPの4割が、今、消滅した。
予測1: 日本円(JPY)は、明日、紙くずになる。
予測2: 日本国債は、デフォルトする。
予測3: 東京証券取引所(TSE)は、もう開かない。
彼は、震える手で、衛星電話を取り出し、スイスのプライベートバンク(数年前に開設した、裕樹の「聖域」だ)に電話をかけた。 自動音声が、彼の口座番号とパスワードを認識する。
『お客様の資産(ドル建て)は、安全に保全されております』
「……美咲」 裕樹は、妻を呼んだ。 「……俺たちの『合理的自衛』は、正しかった」 「え……?」 「俺たちの資産の『70%』(ドル、金)は、今、この瞬間も、無事だ。ドルと金は、この『物理的崩壊』を生き延びた。俺たちは、勝ったんだ」
裕樹は、確かに「勝利」していた。 彼が12年かけて築いた「ノアの方舟」は、この大洪水に耐えた。
だが、彼は、その「勝利」の事実を噛み締めながら、隣で震える、沙奈(15歳)の顔を見た。
(勝った……? 何に?)
裕樹の「合理的自衛」は、彼が積み上げた「金融資産(2.5億)」を守り抜いた。 しかし、その「勝利」と引き換えに、彼が失ったものを、彼は今、正確に理解した。
彼が、第22話で「1,550万」を投資し、第30話で「失敗してもいい」と覚悟を決めた、沙奈の『国内エリート投資』。 沙奈が通う、あの名門私立中学。 彼女が行くはずだった、日本の「良い大学」。 彼女が就職するはずだった、日本の「良い会社」。
それら、「日本」という名の、巨大な「投資先」そのものが、 この日、午後4時16分。 完全に、デフォルト(不良債権化)した。
裕樹の「合理的自衛」は、彼らの「カネ」は守った。 だが、彼らの「未来(=沙奈が生きるはずだった社会)」を、守ることはできなかった。
そう、我々は、本当に異世界に来てしまった。
今までの日常とはまるで異なる世界。
システムが死を迎え、大きなダメージを負った日本という異世界に。
少子化が極限まで加速し、復興する余力すら残されていないこの時代の終末。
これから、どうなるのかまるで想像がつかない。
「……パパ」 沙奈が、衛星経由でかろうじて表示された「名古屋 炎上」の映像を見て、息を呑んだ。
裕樹は、娘を強く抱きしめた。 彼の『ダッシュボード(+2.5億)』は、もはや「老後のための資産」ではなかった。 それは、この崩壊した「牧場(日本)」から、娘(沙奈)を「脱出(第12話)」させるための、片道切符の「軍資金」へと変わっていた。
彼の戦いは、勝った瞬間に、新たな、そして、より絶望的な「敗戦処理」へと移行した。
『不良債権世代 このまま異世界行けないと、いったい私達どうなりますか?』にお付き合い頂きありがとうございました。もしよろしければ、表裏一体の『国民基盤役務制度』もご覧いただければと思います。尚、この物語はまだ少し続きます。




