第32話:僕たちの戦場
土曜日の午前九時。
東京のマンションのリビング。薄いカーテン越しに差し込む光が、床に埃の軌跡を浮かび上がらせていた。
あの日(第1話)と、何も変わらない、平和な日本の朝だった。
「……送金、完了」
乾いた声が、ノートパソコンの冷却ファンの音にかき消されそうになった。
裕樹、三十代後半。
彼の視線は、あの日(第1話)に見ていた「手取り」のグラフでも、「控除」の数字でもなかった。
彼が見ているのは、彼が「最終戦略(第29話)」に基づき、この数年間でゼロから組み上げた、自作の「世帯資産ダッシュボード」だった。
> 【HIROKI Family - Asset Allocation (Real-Time)】
>
> 1. システム内・円資産(NISA/牧場A): 15%
> (※将来の課税リスク許容)
>
> 2. システム外・ドル資産(海外口座/牧場B): 40%
> (※CRS 捕捉済み。円安・インフレ ヘッジ)
>
> 3. システム外・現物: 10%
> (※究極の聖域。自家保有のものは盗難リスクあり)
>
> 4. システム外・事業資産(美咲LLC): 35%
> (※「経費」による最適化。最大のキャッシュフロー源)
裕樹は、今月の副業(第17話)で稼いだ「ドル」を、米国の証券口座(第18話)へと送金するタスクを、今、完了させたところだった。
それは、彼にとって、この数年間、毎月欠かさず実行してきた、神聖な「儀式」だった。
「……裕樹」
キッチンからではなく、リビングのもう一つのデスクから、美咲の声がした。
彼女もまた、自分のノートパソコンと向き合っていた。
「今月の『経費』、入力終わったわ。沙奈の『教材費(※タブレット代)』、半分、こっちで落とせる」
「了解」
裕樹は、家計簿ソフト(個人)と、美咲の法人会計ソフトを同期させ、世帯全体のキャッシュフローが「最適化」されていることを確認した。
二人の間に、「二人目」(第27話・第28話)についての会話は、もうない。
「一人っ子(第29話)」は、彼らにとって「諦めた」過去ではなく、今、この「ダッシュボード」の数字を維持・向上させるための、最も「合理的」な「前提条件」だった。
沙奈が、自分の部屋から「できたー!」と、タブレットを抱えて走ってきた。
画面には、彼女が「趣味(第30話)」で描いた、カラフルなキャラクターの絵が表示されている。
「ママ、パパ、見て!」
「すごいじゃない、沙奈」
美咲が、その絵を褒める。
裕樹も、その絵を見た。
彼の脳裏には、一瞬だけ、第25話の『共倒れアラート』がよぎった。
(この子が『8050』のリスク源)
(この子が『究極の不良債権』)
だが、裕樹は、その思考をすぐに打ち消した。
ダッシュボードが、緑色(正常)に点灯している。
『85歳時点 残存資産: +1,200,000円』(第29話)
シミュレーションは、「回避」されている。
俺たちは、この子の「失敗」を、引き受けられる。
「いいじゃないか、沙奈」
裕樹は、娘の頭を撫でた。
「その絵、父さんの『海外口座』(第31話)の、パスワードのヒントにするか」
「えー! やだー!」
窓の外は、いつもと変わらない、平和な日本の朝だった。
だが、裕樹の目には、この国全体が、80年前に花澤武夫(第9話)が仕掛けた「賦課方式」という名の時限爆弾の、最後の「敗戦処理(第9話)」を続ける、巨大な「不良債権」そのものに見えていた。
彼はもう、その債権の処理に、自分の人生のすべてを捧げるつもりはなかった。
裕樹は、美咲と目を合わせた。
言葉はない。
だが、二人の間には、この「不良債権」という名の戦場で、共に背中を預け合う「同志」のような、静かな連帯感があった。
二人目はいない。
だが、家族三人の「合理的自衛」は、この瞬間も、淡々と、冷徹に、実行され続けていた。
彼らの戦場での、戦いは、まだ始まったばかりだった。
「国民基盤役務制度」が国家レベルから見た少子高齢化対策だったのに対し、「不良債権世代 このまま異世界行けないと、いったい私達どうなりますか?」は個人レベルの少子高齢化対策となっています。
ただし、南海トラフ地震のリスクを反映できていませんし、完全な解決策とも言えません。
なお、この話はこの世界とは全く関係がない異世界の話です。人物や組織、制度などは全て異世界にある架空のものです。完璧にハイファンタジーです。




