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第31話:沙奈の「海外口座」

『85歳時点 残存資産: +1,200,000円』


第30話で、あの「破綻回避」のシミュレーションを確定させてから、数年の月日が流れていた。 裕樹は三十代の後半に差し掛かり、沙奈は地元の公立小学校に入学していた。 リビングの風景は変わらない。 だが、そこで行われている「合理的自衛」の風景は、あの日(第29話)に決定した戦略に基づき、完全に変貌していた。


日曜の午後。 美咲は、もうリビングにはいなかった。 「法人化」(第16話)した彼女は、「社長」として、クライアントとの打ち合わせで都心に出ていた。彼女の「可処分所得」は、時短勤務時代とは比較にならないほど最適化されていた。


沙奈は、自分の部屋で、オンラインの英会話レッスンを受けている。 第21話で「3,150万(破綻)」と弾き出された「インターナショナルスクール」ではない。 月額8,000円の、フィリピン人講師とのオンラインセッションだ。 「脱出」のための「エリート教育」ではなく、「趣味」としての「英会話」。第30話で裕樹と美咲が「破綻回避」したことで手に入れた、精神的な「余裕」が、それを可能にしていた。


そして、裕樹。 彼はリビングのデスクで、自作の家計簿ソフトを開いていた。 だが、彼はもう「シミュレーション」はしていなかった。 彼は、淡々と「実行」していた。


【MISAKI_LLC】(妻の法人)からの「役員報酬」と「経費」の最適配分を確認。


【HIROKI_SIDE_HUSTLE】(夫の副業)で稼いだ「USD」を、日本の「牧場(NISA)」(第11話)ではなく、米国の証券口座(第18話)に送金。


ポートフォリオの一定比率(10%)を、毎月、現物ゴールド(第19話)に積み立てるため、サービスに発注。


「……よし」 今月の「自衛」タスクが完了した。


裕樹は、もう一つのブラウザタブを開いた。 それは、彼がこの一年、沙奈の「教育」として、最も心血を注いできたプロジェクトだった。


彼は、パスポートと、沙奈のマイナンバーカードの画像データをアップロードする。 煩雑な英語のフォームに、沙奈の名前と、彼女の生年月日を打ち込んでいく。 それは、第18話で裕樹自身が「CRS(共通報告基準)」の恐怖(第19話)を知る前に開設した、あの米国の証券口座ではなかった。 CRSの網(捕捉)から逃れられる可能性のある、別の国の、別のサービスだった。


「……沙奈」 裕樹は、画面の向こうで「My hobby is drawing」と拙い英語で話す、娘の声を聞きながら、静かに呟いた。


「これが、父さんがお前に残せる、たった一つの『教育』だ」


第21話で、美咲は「インター(3,150万)」を夢想した。 第22話で、裕樹は「国内エリート(1,550万)」をシミュレーションした。


どちらも、違った。


裕樹が今、沙奈のために開設しているもの。 それは「沙奈名義の海外口座」だった。


「お前に、『土地』や『日本円の預金』を残しても」 裕樹は、第20話で目にした、父(昭夫)の「預金(1,000万)」が「介護費用」に消え、実家が「負動産」として残る、あの理不尽な「捕捉」のシミュレーションを思い出していた。 「……システム(国)に、全部、召し上げられるだけだ」


俺の父さん(昭夫)は、俺に「資産(土地・預金)」を残そうとした。だが、その「資産」は、システムの「負債」だった。 俺の父さんは、俺に「システムの不信」を教えなかった。だから、俺は「自衛」の開始(第10話)が、34歳まで遅れた。


「だが、お前は違う」 裕樹は、口座開設の「Submit」ボタンを、力強くクリックした。


「お前には、『日本円』は残さない。 お前には、『日本国内の資産』は残さない」


「インター(3,150万)」の代わりに、裕樹が娘に教え込むと決めた「脱出スキル」。 それは、「英語」でも「プログラミング」でもない。


「システムから資産を引き離す方法」


それこそが、この「不良債権世代」の親が、その子供に引き継がせるべき、唯一にして最強の「人的資本」だと、裕樹は確信していた。

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