第30話:沙奈の「才能」
『シミュレーション結果: 破綻アラート 回避』
『85歳時点 残存資産: +1,200,000円』
第29話で確定した「合理的戦略」。
その、ギリギリの「解」が、ノートパソコンの画面に表示されたまま、数日が過ぎた。
裕樹は、もう新しいシミュレーションを組むことはなかった。
美咲は、宣言通り「法人化」(第16話)の手続きを開始し、裕樹は、機械的に海外口座(第18話)への「ドル」送金を続けていた。
二人の間から「二人目」という単語が消え、同時に、沙奈の「教育」についての会話も消えていた。
「一人っ子」と決めた。リソースを集中すると決めた。
だが、どの「教育(投資)」が「不良債権(第22話)」化し、「8050(第25話)」のリスクに繋がるのか。その恐怖が、二人を次の「行動」に移させなくしていた。
日曜の午後。
裕樹が、自作ソフトの『最終戦略:リソース集中(子:1)』のシートを、呪縛のように見つめていると、美咲が隣に静かに座った。
「……裕樹」
「……なんだ」
「その『+1,200,000円』って数字。どう思う?」
「どう、とは?」
裕樹は、画面から目を離さずに答えた。
「ギリギリだ。綱渡りだ。沙奈がもし、シミュレーション以上の『負債』になったら、即、共倒れだ」
第25話の『共倒れアラート』の恐怖が、裕樹のロジックを支配していた。
「リスク管理」とは、彼にとって「失敗の回避」とイコールだった。
「違うわ」
美咲は、裕樹の目をまっすぐに見た。
「逆よ」
「逆?」
「この『+1,200,000円』は、『ギリギリ』なんじゃない。
これは、私たち(親)が、自分たちの『合理的自衛』(法人化+副業)で、
『沙奈が、失敗しても、大丈夫』
っていう『セーフティネット』を、自力で築き上げた、っていう『証拠』よ」
裕樹は、息を呑んだ。
彼は、思考の角度を殴られたような衝撃を受けた。
「失敗……?」
「そう」
美咲は、第23話で裕樹が突きつけた、あの問いを、そのまま返した。
「第23話で、あなたは言ったわね。
『投資が失敗したら、損失は誰が引き受ける?』
『俺たちだ。俺たちの、老後だ』って」
「……ああ、言った」
「その答えが、出たのよ」
美咲は、画面の『+1,200,000円』を指差した。
「答えは、『引き受けられる』よ。
沙奈が、AI(第7話)に負けても、
B棟の息子さん(第24話)みたいに、社会に『適応』できなくても、
私たちは、破綻(共倒れ)しない。
このシミュレーションが、それを証明した」
裕樹の全身から、この数週間、彼を縛り付けていた「呪い」が解けていくのが分かった。
リスク管理とは、「失敗させない」ことではなかった。
「失敗しても、破綻しない体制」を作ること。
そして、自分たちの「合理的自衛」は、まさにそれを達成したのだ。
「だから、もうやめましょう」
美咲は、そう言うと、プレイマットで遊ぶ沙奈のそばへ行った。
沙奈は、裕樹のシミュレーションなど知る由もなく、タブレットで夢中になって「絵」を描いていた。
それは、裕樹のロジックとはかけ離れた、カラフルで、自由な「デザイン」だった。
「沙奈を『国内エリート』とか『脱出スキル』とか、そういう『投資効率』で縛るのは、もう、やめ」
美咲は、娘の頭を撫でた。
「この子が『好き』で描いてる、この絵。
これが、将来『カネ』になるかならないかなんて、どうでもいい。
AIに代替される『不良債権』かもしれない。
でも、私たちは、この子の『好き』を、そのまま伸ばしてやればいい。
だって、私たちは、もう『共倒れ』しないんだから」
裕樹は、美咲と沙奈の姿を、黙って見ていた。
そして、彼は、自作の家計簿ソフトに向き直った。
彼の指が、第22話で作成した『沙奈:国内エリート投資』というタブの名前を、書き換えていく。
『沙奈:教育費』
リターン(投資対効果)を期待する、冷たい『投資』の文字が消えた。
そこには、ただ、家族の営みとして必要な、『コスト(支出)』の文字だけが、静かに残っていた。




