第3話:広がり続ける穴
日曜日の午後。
前日に裕樹が弾き出した「マイナス419万」という生涯収支シミュレーションの衝撃は、リビングの空気そのものを重くし、換気されずに澱んでいた。
暖房をつけるか迷うほどの、中途半端な初冬の寒さ。空気清浄機が、床に積もった埃を感知して、静かに運転音を強めた。
「……けほっ、けほっ」
プレイマットで遊ぶ沙奈が、乾いた咳を二、三度した。
「あ、沙奈、お茶飲もうね」
美咲がすぐに駆け寄り、娘の背中をさする。
「大丈夫、大丈夫……。よかった、東京は子どもの医療費がタダで。これがなかったら、ちょっと咳が続くだけで不安になるわよね」
美咲は、安堵のため息混じりに言った。だが、その言葉は、裕樹の思考を別の、より暗い方向へと起動させた。
「……ああ。沙奈は、な」
裕樹は、自らのノートパソコンの画面を見つめたまま、呟いた。
「どうしたの?」
「いや……」
裕樹は、数日前に届いていた一通のメールを開いた。彼が加入している健康保険組合からの、定期健康診断の結果通知だった。
「A……A……B……C」
彼のマウスカーソルが、一つの項目で止まる。『胃部X線:C(要精密検査)』。
34歳。システムエンジニア。不規則な生活と慢性的なストレス。C判定など、これまでにも何度かあった。
だが、この三日間で「システム」の冷徹な構造を解体し続けた彼にとって、その一文字は、単なる健康上の警告以上の意味を持っていた。
それは、彼という「リソース」の脆弱性を示す、危険なアラートだった。
「裕樹……?」
美咲が、彼の硬直した表情に気づき、PCを覗き込む。
「C判定? ……大丈夫なの? すぐ病院行かないと」
「ああ、そのうちな」
「でも、もし、これが何か……慢性的なものだったら……」
美咲の不安げな声が、奇しくも先ほど沙奈に向けられたものと同じだった。だが、裕樹が即座に起動したのは、病院の予約サイトではなかった。
自作の『医療費・高額療養費 試算シート』だった。
「美咲。沙奈が病気になっても、東京の制度で守られる。だが、俺が倒れたら?」
「え……?」
「俺が、もし慢性疾患になって、毎月高額な治療が必要になったとする。その場合、俺たちを『守ってくれる』はずの、この健康保険は、いくらまで負担してくれる?」
裕樹は、自らの給与データ(標準報酬月額)をシートに参照させた。
「俺の年収(約860万)だと、高額療養費の所得区分は『イ』だ」
「イ?」
「年収約770万から1160万の層。この国で『中間層』と呼ばれながら、あらゆる公的扶助の対象から外され、かといって富裕層でもない、一番中途半端な層のことだ。そして、この区分こそが……」
裕樹は、そのシートに組み込まれた過去の制度データを呼び出した。
「もし、俺が慢性疾患で『多数回該当』になったとする」
「たすうかい……?」
「ああ。過去12ヶ月に3回以上、上限額に達した場合、4回目から自己負担限度額がさらに引き下げられる。これが、慢性病患者にとっての最後のセーフティネットだ」
裕樹は、その「多数回該当」の自己負担限度額の変遷を、画面に並べて表示した。
それは、彼が属する「区分イ」の、残酷な軌跡だった。
【高額療養費(区分イ):『多数回該当』の自己負担限度額】
1. (2014年12月まで): 44,400円 / 月
2. (2018年8月 改正後): 93,000円 / 月
「……これだ」
美咲が、その数字を見て息を呑んだ。
「9万3千円? 昔は4万4千円だったのに? どうして」
「ああ」
裕樹は、キーボードに指を置いたまま、冷たく言い放った。
「2.1倍だ」
美咲の顔が青ざめていく。
「どういうこと……? 保険料は、第一話のグラフで見た通り、毎年あんなに上がってるのよ。私も会社で引かれてるし、あなたも引かれてる。世帯で二人分も払ってるのに。どうして、保障が減ってるの?」
「減ってるんじゃない」
裕樹は、シミュレーターを閉じた。
「俺たちの『負担』が増えてるんだ。病気になった時の、な」
昨日、彼らが直面した「永久債」としての支援金(未来の負担)。
そして今日、彼らが直面した「セーフティネットの毀損」(現在の保障減)。
「しかも」
裕樹は、ニュースサイトのブックマークを開いた。今まさに、2025年11月の現在進行形で議論されている記事だ。
『政府・厚労省、高額療養費制度の「さらなる見直し」に着手。現役世代の負担増、不可避か』
「……まだ、上がるの?」
「当然だ」
裕樹の声には、もはや感情がなかった。
「問題は、その『上げ方』だ。美咲、この負担増の基準が、何に紐づいているか知ってるか?」
「え?……所得、でしょ? 私たちの区分が『イ』みたいに」
「そうだ。所得だ」
裕樹は、別の調査データ――日本の世帯別・金融資産保有額の円グラフ――を画面に映し出した。
「日本の個人金融資産(約2000兆円)のうち、60%以上は、誰が持ってる?」
グラフは明確だった。65歳以上の高齢者世帯だ。
「じゃあ、俺たち39歳以下の現役世代は?」
わずか5%だった。
「この国の富は、資産は、『60%』を持つ高齢者層に偏在している。俺たち『5%』の現役世代は、資産を持たない代わりに、毎月の給与でかろうじて生きている」
「それなのに」と裕樹は続けた。
「この国の社会保険システムは、なぜか、その『60%』の資産を基準にしない。頑として『5%』の側が持つ『所得』だけを基準にするんだ」
「なぜだか分かるか? その方が、行政的にも政治的にも『楽』だからだ」
裕樹は、冷徹に解説を続けた。
「個人の金融資産や不動産を正確に把握するのは面倒だ。だが、俺たちの給与所得は『源泉徴収』で完全に捕捉されている。そして何より、資産『60%』を持つ高齢者層は、この国最大の投票者層だ。彼らの資産に手を付けることなど、政治的に不可能なんだよ」
美咲は、ようやくこのシステムの全体像を理解した。
「つまり……」
「そういうことだ」
裕樹が、彼女の言葉を引き取った。
「このシステムは、俺たち『区分イ』――所得はあるが、資産はまだない現役世代――を、最も効率的なターゲットとして設計されている」
彼は、この三日間の絶望を、一つの結論に集約させた。
「第一話の【控除(負担)】は、俺たちの『所得』が高いという理由で、青天井に引き上げられる」
「第二話の【支援金(未来の負担)】は、俺たちの『所得』が高いという理由で、生涯にわたって最大のマイナスを背負わされる」
「そしてこの第三話、最後の砦であるはずの【保障(給付)】でさえ、俺たちの『所得』が高いという理由で、自己負担額が『2.1倍』にまで毀損させられている」
裕樹の指が、今まさに議論されている「さらなる見直し」案の試算値を、シミュレーターに打ち込もうとして、止まった。もう、その結果を見るまでもない。
「掛け金(保険料)だけを一方的に値上げし続け、いざという時の支払い(給付)を渋る。これはもう、悪質な金融商品そのものだ。俺たちは、加入を強制された詐欺システムに、二人分の給料から毎月払い続けているだけだ」
「穴が広がってるんだよ」
裕樹は、自分の胃のあたりを無意識に押さえながら、呟いた。
「俺たちが必死で支えているこのセーフティネットは、俺たちが落ちる頃には、もう使い物にならないくらい、穴だらけになってる」
美咲は、もう何も言えなかった。
「二人目」という、ささやかな希望は、この三日間で、システムの冷徹なロジックによって完全に解体され、踏み潰されていた。
彼女が今、本当に恐れているのは、「二人目」が持てない未来ではない。
この家計の大黒柱である「区分イ」の夫が、もし本当に倒れたら、その瞬間に、この家族がセーフティネットの穴をすり抜けて、一直線に転落していく未来だった。
彼女は、ただ強く、沙奈を抱きしめることしかできなかった。
この小説はハイファンタジー小説です。登場する人物・団体・名称等は全て異世界のものであり、現実に実在するのものとは、何の関係もありません。
「不良債権世代」は、続「国民基盤役務制度」です。
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