第27話:「二人目」という名の重し
「……健太、子供、作らないんだって」
第26話で健太と遭遇した週末。 裕樹は、リビングでノートパソコンを前にしたまま、その事実を、まるで遠い国のニュースでも読み上げるかのように美咲に告げた。
「『子ガチャ』のリスクを引く気はない、ってさ」
美咲は、沙奈が描いた絵を壁に貼りながら、その手を止めた。 「……そう。彼らしいわね」 彼女の声は、第23話で「信じる」と叫んだ時の熱を、完全に失っていた。 隣人(第24話)の「失敗」と、「8050問題(共倒れ)」(第25話)のシミュレーションが、彼女の「思想」を、裕樹の「ロジック」と同じ色……冷たいグレーに染め上げていた。
リビングに、重い沈黙が落ちる。 それは、物語の冒頭(第1話)で、美咲が発した、あの問いが蘇ってきた瞬間だった。
「……ねえ、裕樹」 「……なんだ」
「私たち、そもそも、なんで悩んでたんだっけ」 「……」 「ああ、そう」
美咲は、諦めたように、静かに笑った。 「二人目、難しいかな、って」
その言葉は、もはや「問い」ではなかった。 この数週間で家族が直面した、絶望的な「数字」の数々…… 『永久債』(第2話)、『2.1倍』(第3話)、『5%毀損』(第5話)、『1億2,000万円』(第10話の試算)、『親の資産(預金1000万)の枯渇』(第20話)、『教育費3,150万』(第21話)、そして『8050(共倒れ)』(第25話)…… それらすべての「解」を導き出すための、最後の「変数」だった。
裕樹は、無言で家計簿ソフトの『世帯シミュレーション』を開いた。 彼は、現在の『家族構成:3人(子:1)』のモデルを複製し、『ケースE:家族構成:4人(子:2)』という、新しいシミュレーションを開始した。
「やめてよ」 美咲は、それ以上言わなかった。 彼女はただ、裕樹の背後から、その非情な「変数」が打ち込まれていくのを、見つめていた。
裕樹の指が、この数週間で夫婦が築き上げた「合理的自衛」のプランを、一つ、また一つと、破壊していく。
▼ 前提イベント:【CHILD_BIRTH(2)】
▼ 影響(IMPACT)
変数【MISAKI_LLC(妻の法人化)】(第16話) STATUS: STOP (育児により、事業開始が最低3年間は停止) CASHFLOW: ¥0 (「経費」による自衛、実行不能)
変数【HIROKI_SIDE_HUSTLE(夫の副業)】(第17話) STATUS: CUT(80%) (乳児の世話、睡眠不足により、作業時間確保が困難) CASHFLOW: USD($) 収入、ほぼ途絶
変数【EDUCATION_COST】(第21話, 第22話) STATUS: x2 (「不良債権」リスク、倍増)
変数【RISK_8050(共倒れ)】(第25話) STATUS: PROBABILITY x2 (「究極の不良債権」化リスク、倍増)
「……実行する」 裕樹が、エンターキーを押す。
第25話では『裕樹(77歳)』で発生した『共倒れ』アラート。 それが、どうなるか。
再計算は、一瞬で終わった。
青いグラフ(老後資産)は、60歳の時点で、すでにゼロラインを割り込んでいる。 美咲の「法人化」による可処分所得の増加(プラス要因)が消え、裕樹の「ドル建て」収入(プラス要因)も消え、代わりに「二人目」の養育・教育コスト(マイナス要因)が倍増した結果、破綻のXデーは、15年以上、前倒しになっていた。
『警告:世帯収(支 破綻(60歳時点)』
裕樹は、静かにシミュレーションを閉じた。 ロジック(論理)は、確定した。
「美咲」 「……なに」
「二人目は、『合理的』じゃない」 裕樹は、妻に、というより、自分自身に、その「解」を宣告した。
「それは、俺たちが始めた、この『合理的自衛』の、全てのプランを破壊する。 美咲の『法人化』も、俺の『ドル建て』も、健太の言う『チャイルドフリー』とは逆の…… この船(日本システム)から逃げるための『ボート』を自ら沈める、ただの『重し《アンカー》』だ」
二人目は、この不良債権システムにおいて、家族の「合理的自衛」の機動性をゼロにする、最も「非合理的」な選択。
裕樹は、冒頭(第1話)の美咲の問いに、数週間のシミュレーションを経て、ようやく、冷徹な「数字」で、答えた。
そう。このような、子供のリスクに関するシミュレーションは、それこそ金融機関のコンピュータの中で大量に実行されているのに違いない。
沙奈が生まれてすぐの頃、まだ美咲の育休中に、子供が出来た勢いでマイホームを購入して、この賃貸マンションから引っ越そうと考えたことがあった。実際に物件のモデルルームをいくつか見たりもした。 しかし、政府系を含め、多くの金融機関で育休中にはペアローンは組めないと断られたことを、裕樹は今、思い出していた。
恐らくは、育休中にローン貸出をすると、有意に不良債権率が高まるデータが存在するのだろう。
実際、子育てで退職したり、時短になってしまったりするから、うちの様に子供が切掛で世帯収入が落ちることが多いのだ。
年収倍率や返済負担率といった数値を考えた場合、子供前と子供後では当然数値が変動するのが現実だった。
まず保育園に入れるか? 東京の場合、4月からじゃないと入り難いが、子供はそれに合わせて生まれるわけじゃない。
そして、例え保育園に入れたとしても、免疫力が上がる前の2、3歳まで一月に何度も熱を出したりして園から電話で呼び出される。37.5度というデットラインの数値で頭が痛くなる。客先とのアポがあろうともお構いなしだ。当然年収は落ちるし、同僚には「子持ち様」と揶揄される。
もし、あの時にマンションを買えていれば、その後の都内不動産価格の上昇によって相当なキャピタルゲインを得られていた筈だが、今となっては後の祭りだった。
これも子育ての機会損失の一つなんだと、健太(第26話)の言っていた「子育て罰」という言葉を裕樹は思い出していた。




