第26話:健太の「チャイルドフリー」
『警告:世帯収支 破綻(共倒れ)』
第25話で「8050問題」のシミュレーションを叩き出して以来、裕樹はオフィスでも抜け殻のようになっていた。
自作の家計簿ソフトが弾き出した「究極の不良債権」という結論。それは、隣人の「失敗」という生々しい実例(第24話)によって、単なる数字以上の「呪い」となって彼にまとわりついていた。
(子が、親の老後資産を、内側から食い潰す)
(それが、この複雑すぎる現代社会の、合理的な「リスク」)
その日、裕樹はGAFA(第15話)への転職準備のため、有給消化中のはずの後輩・健太と、社内の廊下でばったり出くわした。
「あれ、健太。どうした」
「あ、裕樹さん。お疲れ様です。ちょっと、ロッカーの私物取りに」
健太は、裕樹の顔をじっと見ると、いつものようにシニカルに笑った。
「裕樹さん。また、この世の終わみたいな顔してますよ。まだ、あの『不良債権』システム(第9話)のシミュレーションしてるんすか?」
「……健太」
裕樹は、まるで懺悔でもするかのように、この数日間、自分と美咲を苛み続けている恐怖を口にした。
「……新しいシミュレーションをしたんだ。『8050問題』の」
裕樹のその言葉に、健太は一瞬、驚いたような顔をし、すぐに「ああ、やっぱり」という納得の表情に変わった。
「……あーあ。ついに、そこまで行っちゃいましたか」
健太は、ため息をついた。
「『子ガチャ』のリスク」
「え? 親ガチャじゃなくて、子ガチャ?」
「裕樹さん、あんた、まだ甘い」
健太は、周囲に誰もいないことを確認すると、声を潜めた。
「あんたは『合理的自衛』(第10話)とか言って、NISAだ、海外口座(第18話)だ、金(第19話)だ、って戦ってる気になってる」
「……」
「でも、あんたは『沙奈ちゃん』っていう、この世で一番コントロール不能な『リスク』を、自ら抱え込んでる。
あんたは『不良債権システム(日本)』から逃げようとしながら、自分専用の、プライベートな『不良債権(わが子)』を、愛情(笑)とかいう名前で、必死に育ててる」
「健太、お前……!」
裕樹が、その言い草に怒りで声を荒らげそうになったのを、健太は冷ややかに手で制した。
「事実でしょ? 子供が、親の期待通りに育つっていう『子ガチャ』に勝つ確率、計算しました? AI(第7話)に仕事を奪われず、社会(第24話)に適応障害を起こさず、親の老後資産(第25話)を食い潰さない『優良資産』に育つ確率、ですよ」
健太の言葉は、一語一語が、裕樹のシミュレーション(第22話・第25話)の結果そのものだった。
「俺は、引かない。そんな、勝率の低すぎる『ガチャ』は。そもそも、子育てには2000~3000万という大金が必要で資産形成ができない。その上、仕事上の機会損失が大きくタイパが悪すぎる。しかも、いくら頑張って子育てをしたところで、一銭の給料ももらえないし、当然、給料額だけに連動する将来の年金支給額も全く増えませんよ。そしてダメ押しですが、裕樹さんの懸念どおり、育ててもちゃんと自立できるかすら分からない。現代社会に於いて、どれだけ高リスクなんですか、子供って! まさに、子育て罰なんですよ」
健太は、空になったロッカーの扉を、パタン、と閉めた。
「俺、結婚もしませんよ。もちろん、子供も持たない。
それが、俺の『チャイルドフリー』っていう、あんたの言う『合理的自衛』の、最終回答っす」
「……」
「『8050問題』?
そんな『不良債権』を抱えるリスク自体を、最初から『ゼロ』にする。
GAFAのドル建ての給料は、全部、俺一人の『自衛』のために使う。
裕樹さんみたいに、守るもの(=不良債権リスク)を抱えてる人間より、俺の方が、よっぽど合理的で、よっぽど『安全』だ」
健太の徹底した合理性は、裕樹の「家族」という最後の価値観すら、冷徹に「リスク」として切り捨てていた。
「じゃ、お世話になりました」
健太は、もう裕樹を振り返ることなく、空っぽのカバン一つで、オフィスを去っていった。
裕樹は、その場に立ち尽くした。
健太の「チャイルドフリー」という選択。
それは、裕樹が「合理的自衛」のロジックを突き詰めた先にある、最も「合理的」で、最も「非人間的」な、もう一つの「解」だった。
そして裕樹は、その「解」を、もはや「間違っている」と、論理で否定することができなかった。




