第24話:隣人の「失敗」
第23話の激突から数日。裕樹と美咲の間には、修復し難い亀裂が入っていた。
裕樹は、娘の教育すら「不良債権」と切り捨てた自分への自己嫌悪と、しかしロジック(合理性)は曲げられないというシステムエンジニアとしての矜持の間で、無言で海外口座(第18話)へのドル送金を続けた。
美咲は、裕樹の冷徹な「合理性」に反発しながらも、夫が突きつけた「その『損失』は、誰が引き受ける?」という問いの、重く、現実的な「数字」から逃れられずにいた。
その日、美咲は沙奈を保育園に迎えに行った帰り道、同じマンションの、少し年上のママ友(子供が中学生)とエントランスで鉢合わせた。
「あ、美咲さん。お疲れ様」
「こんにちは。沙奈、ご挨拶して」
世間話が二、三分続いた後、そのママ友は、ふと声を潜め、辺りを見回した。
「……ねえ、美咲さん。聞いた?」
「え?」
「ほら、ウチのマンションのB棟の、最上階に住んでる石破さん一家」
美咲は、その家族のことはよく知らなかった。聞けばご主人は元大手商社マンで、奥様は教育熱心で有名だったとのこと。年収は裕樹の3倍はあるだろう。
「その石破さんの、息子さん……」
ママ友は、まるで禁忌に触れるかのように、声を小さくした。
「小さい頃から本当にすごかったらしく。有名な進学塾に通わせて、見事、超難関の私立中学に受かって。そのままエスカレーターで、確か、慶応まで行ったはずなの」
「……すごいわね」
美咲は、第22話で裕樹とシミュレーションした『国内エリート投資(1,550万)』の、輝かしい「成功例」を思い浮かべた。
「でもね……」
ママ友の顔が曇る。
「就職活動で、何かうまくいかなかったみたいで」
「え?」
「……そのまま、卒業はしたんだけど、どこにも就職しなくて。
『適応障害』って、診断されたらしくてね」
美咲の心臓が、冷たく鳴った。
「今、息子さん、もう30歳なのに……ずっと、あの部屋から一歩も出てないんですって」
「……!」
「『引きこもり』よ。
あんなに優秀だったのに……って、奥様、最近会うと、もう別人のようにやつれてて。
60代のご両親が、自分たちの貯金と年金を切り崩して、その30歳の息子さんの生活を、今も全部、支えてるんですって……」
美咲は、その場で凍りついていた。
沙奈が「ママ、かえろー」と手を引っ張る感覚だけが、やけに遠かった。
裕樹の言葉が、耳の奥で、恐ろしいほどの正確さで再生されていた。
『沙奈が『良い大学』を出たのに、まともな職に就けなかったら?』
『その『損失』は、誰が引き受ける?』
『俺たちだ。俺たちの、老後だ』
裕樹の「合理的」なシミュレーションは、「仮定」ではなかった。
それは、この東京の、同じマンションの、すぐ隣の棟で、今まさに起きている「現実」だった。
美咲は、青ざめた顔で、どうやって自宅の鍵を開けたかも覚えていなかった。
リビングのドアを開けると、裕樹がノートパソコンに向かっている。
「……裕樹」
「……なんだ」
「B棟の、石破さんの話、聞いた……?」
美咲の震える声を聞き、裕樹は彼女の顔を見た。
妻の目から、昨日までの「反発」や「怒り」が消え、自分と同じ「恐怖」の色が浮かんでいるのを、裕樹は悟った。
彼は、何も言わずに、ブラウザの検索窓に、あるキーワードを打ち込み始めた。
美咲が、背後からその文字を読み上げる。
「……『8』、『0』、『5』、『0』……?」
「ああ」
裕樹は、冷たく答えた。
「俺たちの『老後』の可能性の一つだ」




