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第20話:父の「介護」と「相続」

平日の午後。


裕樹はオフィスの自席で、ブラウザの片隅に「ゴールド 価格チャート」を表示させていた。

健太に突きつけられた「現物モノ」という究極の自衛(第19話)。それは、利息も配当も生まない、裕樹の合理性とは最も遠い「投資」だった。

(本当に、こんな原始的な退行が「解」なのか?)

彼がチャートの5年物トレンドを眺めていた、その時だった。


ブブッ、ブブッ。

ポケットのスマートフォンが、社用のPCとは違う、プライベートな振動で震えた。

ディスプレイに表示された名前に、裕樹の心臓が掴まれる。


『母』


嫌な予感を振り払う間もなく、彼は通話ボタンを押した。


「もしもし、どうした」

「……裕樹、……お父さん、昭夫さんが……」


電話口の向こうで、母が泣いていた。

昭夫(68歳)が、嘱託しょくたく勤務の帰りに、駅の階段で倒れた。脳梗塞だった。


---


週末。

病院の白い廊下。消毒液の匂い。

幸い、命に別状はなかった。だが、医師から告げられた現実は、裕樹が自作ソフトでシミュレーションするどの「最悪ケース」よりも、冷酷で、現実的だった。


「……右半身に、麻痺が残ります。リハビリ次第ですが……」

医師は淡々と続けた。

「退院の目処が立ち次第、『要介護認定』の手続きを取ってください。ご自宅での生活は、奥様お一人では難しいでしょう」


要介護。

その二文字が、裕樹の頭の中で、瞬時に「数字」と「コスト」に変換された。


数日後、介護認定審査会から戻ってきたケアマネージャーは、事務的な口調で結果を告げた。


「……で、お父様ですが、『要支援2』ですね」


「よう、しえん……?」

付き添っていた母が、呆然と聞き返す。

「あんなに、右半身が不自由なのに。『要介護』じゃなくて?」


「ええ。リハビリの結果、ご自身で杖を使えば歩行可能と判断されましたので。『要支援』では、介護保険で入所できる『特別養護老人ホーム(特養)』の対象にはなりません」


裕樹は、その場でスマートフォンを取り出し、「要支援2 サービス内容」と検索した。

画面に並んだのは、「週に数回の訪問介護(掃除・洗濯)」や「デイサービス(通所リハビリ)」といった、限定的な「予防」サービスばかりだった。


(ダメだ)


裕樹のシミュレーターが、二重の「最悪のシナリオ」を弾き出す。


シナリオA(認定の罠):『要支援』認定 → 負担は軽いが、サービスが皆無 → 施設に入れず、母(60代後半)が、自宅で父を24時間介護することになる。

シナリオB(コストの罠):仮に今後『要介護』認定が取れたとしても……。


裕樹は、自宅マンションに戻り、ノートパソコンを開いた。

『親・介護シミュレーション』タブを起動する。


彼は、昭夫の収入データを修正した。嘱託給与(月15万)は「0」。収入は「年金(月18万=年216万)」だけになる。

次に、母から送られてきた昭夫の預金額(約1,000万円)を「資産」欄に入力した。


(年金収入216万から控除を引いた「合計所得」は106万円。現在の「2割負担」ライン(合計所得220万)は下回る。これなら1割負担だ)


一時的な安堵。

(自己負担が1割なら、親父の預金1,000万で、10年近くは賄えるかもしれない)


だが、裕樹の指は止まったままだった。

システムエンジニアとしての彼が、このシミュレーションの「脆弱性」――「現在の制度が、将来も続くと仮定している」――を指摘していた。


彼は、震える指でブラウザを開き、今(2025年11月)まさに議論されているキーワードを打ち込んだ。


『介護保険制度改正 2割負担 議論』


画面に、ニュースの見出しが並ぶ。

『財源不足深刻化、「2割負担」の対象者拡大を本格議論へ』


裕樹には、その「意図」が手に取るようにわかった。

昭夫の「合計所得106万円」は、現在の「1割負担」層の中では、最も「高所得」な部類だ。

財源が足りない国が、次に「2割負担」のターゲットを広げるとしたら、真っ先に狙われるのが、この層だ。


(時間の問題だ)


裕樹は、シミュレーターの自己負担割合を、数年後から「1割」→「2割」に書き換えた。

昭夫の預金(1,000万円)の残高グラフが、倍の速度で急降下していく。10年持つはずだった資産が、5年で底をつく。


「……罠だ」


システム(国)は、二重の罠を仕掛けていた。

「要支援」と認定すれば「サービス拒否」で家族(母)の労働力を奪い、「要介護」と認定すれば(将来の)「2割負担」で資産を奪う。

どちらに転んでも、この家族は「詰む」のだ。


だが、裕樹の絶望は、まだ終わらなかった。

彼は、実家の『固定資産税 課税明細書』を睨みつけた。


(預金1,000万が介護費用で消えた後、残る資産は、この「実家」だけだ)


裕樹は、不動産情報サイトで「実家の市場価格(売値)」を調べ、その数字の横に、明細書に書かれた「固定資産税」の額を並べた。


「……負動産ふどうさんだ」


父が買った時は「夢のマイホーム」だった郊外の土地は、今や、買い手がつかない。

それどころか、税金(固定資産税)だけが、毎年かかり続ける。

「資産」だと思っていた実家は、ただ、家族に「負債」を生み出し続けるだけの「お荷物」だった。


ピロン。

リビングのドアが開き、美咲が、青ざめた顔で入ってきた。

彼女は、裕樹のPCに映る『介護 2割負担』『負動産』の文字を見て、すべてを察したようだった。


「……お義母さん、一人で、大丈夫なのかな」


その一言が、裕樹の脳内で、最後のシミュレーションを起動させた。


> 【プロジェクト名:不良債権世代(=俺たち)】

>

> ▼アサインされたリソース(=俺たち)

> 裕樹(34歳):1.0人月

> 美咲(33歳):1.0人月

>

> ▼対応すべきタスク(=親たち)

> タスクA:昭夫(父)の介護 (本日、顕在化)

> タスクB:裕樹の母のサポート (本日、顕在化)

>

> タスクC:美咲の父の介護 (ステータス:未顕在。時限爆弾)

> タスクD:美咲の母のサポート (ステータス:未顕在。時限爆弾)

>

> ▼リソース(タスク比率)

> 親世代は、兄弟5人で、親2人の介護を分担した。

> 俺たち世代は、子供2人(裕樹・美咲)で、親4人の介護を分担する。

> (=負担率、5倍)


「……無理だ」


裕樹は、自作ソフトを閉じた。

健太(第19話)の「ゴールド」も、誠(第12話)の「シンガポール」も、もはや、どうでもよかった。

それらは、裕樹が「自分一人の問題」として戦える前提での「自衛」だった。


だが、現実は違った。

「介護」という、この国で最も重い「不良債権」は、夫婦というユニットに対し、四方八方から同時に(あるいは、時間差で確実に)襲いかかってくる。


健太のように「ゴールド」を貯め込んでも、その資産は、この「(いずれ4タスクになる)介護費用」の穴埋めと、売れない「負動産」の固定資産税に吸い尽くされ、システムに召し上げられる。


「合理的自衛」など、どこにもなかった。

これは「自衛」ではない。

「敗戦処理」だ。

そして、自分たちは、その処理から逃れる術を、何一つ持っていなかった。

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