第2話:永久債務
2025年11月、土曜日の朝。空気清浄機の運転音だけが、賃貸マンションのリビングに響いている。
「……ねえ、裕樹」
重苦しい沈黙を破ったのは、妻の美咲だった。
彼女は、キッチンカウンターに置いていたスマートフォンを手に取り、裕樹に画面を向けた。だが、その声色に、第一話で見せたような「統計への無邪気な疑問」はもうない。彼女もまた、夫の分析を共有し、現実を学んでいた。
「今朝のニュース。最終決定だって」
画面には、大手ニュースサイトの見出しが躍っていた。
『子ども・子育て支援金、2026年度(来年4月)より徴収開始を正式決定。医療保険料に上乗徴収』。
「……ああ。知ってる」
裕樹は、コーヒーのマグカップを口に運びながら、冷めた目でその見出しを一瞥した。
「でも、おかしいじゃない、減っているなんて」
美咲は画面をスクロールさせ、別の記事をタップした。
『速報:2025年(1月~9月)出生数、前年比をさらに下回り、過去最少ペース。通年で65万人台突入の可能性』
美咲の声が、乾いた怒気を含み始める。
「私たちが『恩恵』だけをもらう期間は、もう始まってるのに」
彼女が言う通りだった。
「児童手当の抜本的拡充」――所得制限の撤廃、高校生までの延長、そして目玉である「第3子以降の月額3万円支給」――は、昨年、2024年の10月分から、すでに施行・支給されていた。
裕樹たちの世帯も、年収の壁で「特例給付」として月額5,000円に抑えられていたのが撤廃され、月額10,000円の満額支給に変わっていた。それ自体は、事実だった。
「負担(支援金徴収)」が始まる前に、「恩恵(給付増)」だけを先行させた、この政策にとって最も有利な「ボーナス・タイム」は、すでに丸一年が経過していたのだ。
「『恩恵』だけをもらってるこの一年間で、出生数は増えるどころか、過去最少を叩き続けてる。去年の68万ですら衝撃だったのに、今年はそれをさらに下回る……」
美咲は裕樹の顔をまっすぐに見た。
「彼らの『設計思想』では、『3人目の壁』を壊せば、子供は増えるはずだったんでしょう? なのに、現実は『3人目』どころか、『1人目』すら減り続けてる。どうして?」
「決まってる」
裕樹は、ノートパソコンの画面を彼女に向けた。
「彼らの『賭け』が、壮絶に失敗したからだ」
美咲が息を呑む。裕樹のディスプレイには、第一話で見た『家計内物価上昇率』のタブの隣に、この一年、彼が執拗にアップデートし続けてきた『社会保険シミュレーター』のタブが開かれていた。
「彼らの『設計思想』はこうだ」
裕樹は、システムエンジニアが仕様書を解説する無機質なトーンで語り始めた。
「この国の、子どもが3人以上いる『多子世帯』。美咲、これが全世帯の何パーセントだと思う?」
「え……?」
「わずか4%だ」
裕樹は指を4本立てて、冷ややかに続けた。
「この制度は、その『たった4%』の多子世帯に財源を集中的に投下するためのシステムだ。そして、残りの『96%』――俺たちのような1人世帯、2人世帯、そして子どもがいない世帯、独身世帯――は、全員が『負担側』、つまり『損をする側』に設計されている」
「彼らは、この『96%』から広く薄くカネを集めて『4%』に再分配すれば、『3人目の壁』が壊れて出生率が上がると『賭けた』んだ」
「でも」と裕樹は続けた。
「この一年間の結果が示しているのは、その設計思想が、国民の現実と致命的にズレていたという事実だ」
「『3人目の壁』を心配する以前に、俺たちは『1人目の壁』――いや、『結婚の壁』という名の絶壁の前に立たされていた。彼らは、その絶壁を登ろうとわずかに残った手足を動かしている『96%』の人間の背中に、『支援金』という名の更なる重りを背負わせる法律を、このタイミングで確定させたんだ」
「……重り」
「ああ。去年のニュースが出た時、君は『所得制限撤廃』に少し期待しただろ。俺たちの世帯でも、沙奈が高校生になるまで、トータルで108万円、給付が増える計算だった」
裕樹は、シミュレーターの『生涯収支 Ver 3.0』と名付けられたシートを指差した。そこには、彼が初期に叩き出した試算が、冷厳な事実として固定されていた。
【シミュレーション:生涯収支 Ver 3.0(負担:85歳まで / 負担額・変動)】
1. 生涯の「給付増」総額
(試算根拠: 年間 +60,000円 (※所得制限撤廃による純増) × 18年間)
生涯合計(給付増): +1,080,000円
2. 生涯の「支援金」負担総額
(A)現役期(42年間): 年間 -29,000円 × 42年 = -1,218,000円
(B)年金期(20年間): 年間 -14,500円 (※所得50%と仮定) × 20年 = -290,000円
生涯合計(負担): -1,508,000円
3. 差し引き(生涯損得)
合計: -428,000円
「俺たち(1人世帯)ですら、生涯で見れば42万のマイナスだ。これが、彼らが『支援』と呼ぶものの正体だ。子育て費用の『自家発電』を強制され、死ぬまで手数料を払い続けるシステム。俺と同じ分析をした人間が、この国にどれだけいたと思う?」
裕樹の分析はこうだ。
政府が「恩恵」だけを先行させたこの一年、国民は「今もらえる1万円」に喜んだのではない。
「来年から生涯続く徴収」という確定した未来に絶望し、その結果が、この「出生数65万人」という歴史的な数字なのだ、と。
「1人→0人」の決断を、強烈に後押ししたのだ。
「だが」
裕樹の手が止まった。彼の目が、シミュレーターの「前提条件」のセルを捉え直す。
【負担額(現役期): 年間 -29,000円 (※政府発表試算に基づく固定値)】
「……美咲、このシミュレーションには、まだ『希望的観測』が残ってる。俺の分析は、まだ甘かった」
「え……?」
「この『年間2万9千円』という数字。俺は、政府が『導入時はこの程度だ』と公表した試算を、そのまま85歳までの固定値で入れている。だが、これが固定される保証がどこにある?」
裕樹はキーボードを叩き、新しいウィンドウを呼び出した。
そこには、一本の醜悪な右肩上がりのグラフが描画されていた。
『介護保険料(第1号・全国平均)の推移』
「2000年に始まった介護保険制度。当時の保険料は月額2,911円だった。それが今(2025年)、いくらだか知ってるか? 月額6,200円を超えてる。25年で2.1倍だ」
「……」
「この『子育て支援金』のシステムを設計した人間たちは、あの『介護保険制度』を設計した連中と、同じ思想を共有している。彼らのシステム設計思想は、常に一貫してるんだ」
裕樹は、まるで呪文を唱えるように、その設計思想を口にした。
「第一段階:『社会保険化』という耳触りの良い言葉で、『生涯徴収』のレールを敷く」
「第二段階:導入時の負担額は、意図的に低く、甘く試算し、国民の心理的抵抗感を最小限に抑える」
「第三段階:数年後、『想定外の少子化(=財源不足)』を理由に、保険料率を青天井で引き上げていく」
「これは『支援システム』じゃない。将来の破綻を前提に組まれた『先送りシステム』だ。俺たちの親が、介護保険でやられたことと全く同じだ。俺たちは、今、その『第二のレール』が敷かれる瞬間に立ち会っている」
美咲の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「じゃあ、さっきのマイナス42万っていうのは……」
「スタートラインに過ぎない」
裕樹は、無慈悲に『シミュレーター Ver 4.0(最終版・負担額:介護保険と同率上昇)』と名付けられたボタンをクリックした。
彼は、「負担額」の変数に、「25年で2.1倍」という、過去の実績(介護保険)に基づく上昇率(年率約3%の複利)を組み込んだ。
マウスのクリック音。
再計算の砂時計が一瞬だけ回る。
セルに叩き込まれた数字を、二人は凝視した。
【シミュレーション:生涯収支 Ver 4.0(負担:85歳まで / 負担額・実績連動)】
1. 生涯の「給付増」総額
生涯合計(給付増): +1,080,000円
2. 生涯の「支援金」負担総額
(A)現役期(42年間): -3,150,400円 (※年率3%複利上昇)
(B)年金期(20年間): -2,120,800円 (※同上・所得50%)
生涯合計(負担): -5,271,200円
3. 差し引き(生涯損得)
合計: -4,191,200円
「……マイナス、400万……?」
美咲の声が震える。
「これが、俺たちが沙奈を育て、現役を引退し、年金暮らしになった末に、この国に支払わされる『子育て“罰金”』の、より現実に近い試算だ」
裕樹は、乾いた笑いを漏らした。
「ネットじゃ『独身税』とか『子無し税』とか揶揄されてるが、正確じゃない。これは『96パーセント税』だ。子どもが3人未満の全国民から、生涯にわたって金を徴収し続けるシステム。俺たちが死ぬまで払い続ける『永久債』だ。そして俺たちは、その債権の『購入』を、法律で強制されている」
「……」
美咲は、もう「二人目」という言葉を口にすることさえできなかった。
裕樹は、第一話で開いていた「ワニの顎」のグラフ(手取り vs 支出)を、再びアクティブにした。
「そして、来年四月」
彼は、「支出」の緑色の線に、新しい変数『+新・子育て支援金(Ver.4.0上昇率)』を加える関数を、冷徹な指つきで打ち込んだ。
エンターキーが押される。
緑色の線が、まるで生き物が最後の抵抗を振り切るかのように、狂った角度で跳ね上がった。
地を這う「手取り」の黄色い線を置き去りにして、ワニの顎が、彼らの未来を完全に食い破るシミュレーションが、ついに完成した。
裕樹は、もう何も言わなかった。
ディスプレイに映し出された、その冷徹なグラフだけが、彼の答えだった。
この小説はハイファンタジー小説です。登場する人物・団体・名称等は全て異世界のものであり、現実に実在するのものとは、何の関係もありません。
「不良債権世代」は、続「国民基盤役務制度」です。
https://ncode.syosetu.com/n0696lb/




