第19話:聖域への「現物」
米国の証券口座(第18話)。
それは、裕樹にとって、システム(日本)の「管轄外」に設けた、小さな、しかし決定的な「聖域」のはずだった。
彼が副業で稼いだ「ドル」は、円に両替されることなく、その「聖域」に着々と積み上がっていく。300ドルが、500ドルになり、1,000ドルを超えた。
裕樹は、自作の家計簿ソフトで、初めて「日本円」と「米ドル」の比率を管理し始めた。
これこそが「合理的自衛」だ。
「……裕樹さん。また、変なシミュレーションしてるんすか」
昼休み。
自席で、ドル建てのVTI(全米株式ETF)のチャートを眺めていた裕樹に、背後から声がかかった。後輩の健太だった。
GAFA(第15話)への転職を控え、有給消化に入っていたはずの彼が、私物を取りに来ていたのだ。
「健太か。いや、ちょっと『自衛』をな。お前のおかげで、NISA(第11話)が『牧場』だって気づけたよ」
「はぁ」
「俺も始めたんだ。お前には劣るが、『ドル建て』だ」
裕樹は、健太に「同志」として認めてもらいたい一心で、少し誇らしげに言った。
「副業で稼いだドルを、日本の『牧場』には入れず、直接、米国の証券口座に送ってる」
裕樹は、健太が「やりますね」と感心することを期待した。
だが、健太は、第11話でNISAを嗤った時とまったく同じ、冷え切った目で裕樹を見た。
「……米国口座? IBとか、そういうやつスか」
「あ、ああ。そうだ。日本のシステムの外だ」
「……裕樹さん。あんた、まだ『グリッド』の上にいるんすね」
「グリッド?」
「電気っすよ。インターネット。
その『米国口座』、どうやって開いたんすか。まさかとは思うけど、『マイナンバーカード』のコピー、提出しませんでした?」
裕樹の心臓が、冷たく跳ねた。
第18話の、あの煩雑な手続き。
『身分証明書』として、確かに、マイナンバーカードの画像データをアップロードした。
「……したな」
健太は、首を振って呆れた。
「ダメだこりゃ。裕樹さん、『CRS(共通報告基準)』って知らないんすか?」
「CRS……?」
「Common Reporting Standard。G20で決まった、国際的な『自動的情報交換』の仕組みですよ。
裕樹さんが、米国口座に『1,000ドル』持ってるって情報は、とっくの昔に、米国の税務当局(IRS)から、日本の国税庁に『自動で』連携されてますよ」
裕樹の全身の血が、逆流するのを感じた。
「な……!? でも、俺は『日本人』だ。米国の口座だぞ!」
「だから、連携されるんすよ。『日本居住者の、海外口座情報』としてね。
裕樹さんの『聖域』は、最初からシステムに『捕捉』されてる。
それ、NISA(牧場A)の隣に作った、ちょっと遠くの『牧場B』ってだけじゃないすか」
健太のロジックは、裕樹の「合理的自衛」を、またしても、より根本的なレベルで粉砕した。
「……じゃあ、どうしろっていうんだ」
裕樹は、絞り出すような声で言った。
「もう、手はないのか」
「ありますよ」
健太は、自分のカバンから、小さな、ずしりと重い布袋を取り出した。
そして、裕樹のデスクに、音を立てずに置いた。
「チャリン」という、金属が擦れる音。
「え?」
「GAFAの初任給の一部。換えてきたんすよ」
健太が袋の口を開ける。中から、鈍い黄金色の光が漏れた。
オーストリア造幣局が発行する、「ウィーン金貨」だった。
「健太、お前……」
「裕樹さん。究極の『自衛』は、ネットにも、電源にも繋がってない資産ですよ。
AIにも盗まれず、国税庁も『CRS』で捕捉できない。
IDも、マイナンバーも紐付いてない、ただの『モノ』です」
健太は金貨を袋に戻し、カバンに仕舞った。
「じゃ、今度こそ、お世話になりました」
裕樹は、去っていく健太の後ろ姿を、呆然と見送った。
米国の証券口座ですらない。
金(アナログ)。
それは「投資」ですらなかった。利息も、配当も生まない。
それは、裕樹が最も嫌悪した、80年前の「システム(花澤武夫)」がまだ存在しなかった時代への、原始的な「退行」だった。
その夜、裕樹は自作の家計簿ソフトを開いた。
彼は、NISAやiDeCoへの積立シミュレーション額の一部を、静かに「ゼロ」にした。
そして、その分の予算を、彼が新しく作成したカテゴリに振り分けた。
『資産カテゴリ:現物』
それは、もはや「合理的自衛」ですらなく、このデジタルな「不良債権システム」から資産を「隠す」ための、原始的な「防衛」だった。




