第16話:妻の「法人化」
「……負け確、か」
健太の「ドル建て」という、あまりにも鮮やかで「合理的」な一手(第15話)は、裕樹の思考を完全に停止させていた。 その夜、裕樹は自作の家計簿ソフトを開く気力すら起きなかった。 シミュレーションするだけ、無駄だった。
「脱出」も、「避難」も、「転職」も、自分にはできない。 NISAは「牧場」で、自分は「日本円」という名の沈みゆく船の船底に縛り付けられている。
「……裕樹」
沙奈を寝かしつけた美咲が、リビングに戻ってきた。 彼女の声は、第14話で「国内避難」を拒否した時のような、感情的なものではなかった。 むしろ、裕樹と同じ、冷徹な「数字」を扱う者の静けさを帯びていた。
「健太くんの話、すごいわね、『ドル建て』」 「……ああ。俺たちの、完敗だ」 裕樹は、ローテーブルに突っ伏したまま、力なく答えた。
「完敗?」 美咲は、裕樹の向かいに座り、自分のノートパソコンを開いた。 「私は、そうは思わない」
「なにが……」
「裕樹は、健太くんの『収入』に目を奪われすぎてる」 美咲は、自分のパソコンの画面を裕樹に向けた。 そこには、彼女の先月の「給与明細」のPDFが表示されていた。 時短勤務による、手取りにして15万円ほどの、か細い数字だ。
「これを見て」 美咲は、そのか細い給与から、無慈悲に天引きされている「控除」の欄を指差した。 「健康保険料: 20,300円」 「厚生年金保険料: 34,770円」
「……それが、どうした」 「この『控除』の計算、おかしいと思わない?」 美咲は、税理士の解説サイトを開いた。
「私、調べてたの」 「……何を」
「私は『時短勤務』で、給料はフルタイムの6割なのに、社会保険料は、フルタイム時代の『高い給料』を基準にしたまま(※)、引かれ続けてる。私の『手取り』に対する『社会保険料の負担率』、計算してみたら……**25%**を超えてたわ」
(※育休明けの標準報酬月額の特例措置が終わった、あるいは等級が下がりにくい現状を示す)
裕樹の目が、初めてパソコンの画面に焦点を結んだ。
「裕樹、あなたは『収入』を追いかけてる。 健太くんも、『収入』を手に入れた。 でも、二人とも『従業員』のままよ」
「……」
「健太くんは、GAFAに転職しても、相変わらずシステムに『控除』され続ける。天引きされる側。ただ、給料を支払う『主人』が変わっただけ」
美咲は、自分の「給与明細」のPDFをゴミ箱にドラッグした。 そして、新しく開いたブラウザのタブを指差した。 そこには『個人事業主 開業手続』『合同会社(LLC) 設立方法』という文字が並んでいた。
「私は、もう『控除』される側をやめる」
「美咲……?」
「私も戦う」 美咲は、裕樹の目をまっすぐに見た。 「時短勤務で、手取りの25%をシステムに上納し続けるのは、合理的じゃない。 私は、会社を辞めて『フリーランス』になる。将来的には『法人化』する」
「フリーランス……? そんな、博打みたいな……」
「博打?」 美咲は、初めて冷ややかに笑った。 「裕樹。システムエンジニアのあなたが、一番わかってるはずよ。 『控除』される側と、『経費』をコントロールする側。どっちが『合理的』?」
裕樹は、息を呑んだ。
「この家の家賃の一部。 このパソコンの購入費。 私たちの光熱費、通信費の一部。 沙奈の教育に関わる書籍代。 全部、『経費』として、『売上』から引く」
それは、税法上の「グレー」ではなく、事業主として認められた、正当な「権利」だった。
「私たちは、『収入』を増やす戦い(=GAFAへの転職)では、健太くんに勝てないかもしれない。 でも、『可処分所得』を最大化する戦いなら、まだやれることがある」
美咲の「合理的自衛」は、裕樹のそれとは、まったく違う角度からの宣戦布告だった。 「システムから逃げる(脱出)」のではなく、 「システムのルール(税法)を逆用して、システムに食い込む」。
「控除」されるだけの「不良債権世代」から、 自ら「経費」を定義する「事業主」へ。 家族の反乱が、今、始まろうとしていた。




