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第15話:健太の「ドル建て」

美咲との衝突(第14話)から数日、裕樹の「合理的自衛」は完全に行き詰まっていた。

「海外脱出」は非現実的。

「国内避難(地方移住)」は、家族の価値観という壁に阻まれ実行不可能。

健太に指摘された「NISA(システム内の檻)」は脆弱で、かといって他に有効な手立てもない。


裕樹は、再び「ただ搾取されるだけ」の日々に戻されたような閉塞感を抱えながら、オフィスの自席で無意味にコードを眺めていた。


ピコン。

社内チャットが点滅した。後輩の健太からだった。


【健太】:『裕樹さん、ちょっといいすか。休憩室で』


「……なんだ?」

健太の、いつになく改まった呼び出しに、裕樹は嫌な予感を覚えながら席を立った。


休憩室の自販機の前で、健太はスマホをいじりながら待っていた。


「どうした、健太」


「あ、裕樹さん。お疲れ様です」

健太はスマホをポケットにしまい、裕樹に向き直った。その顔は、いつものシニカルな冷笑ではなく、奇妙なほど晴れ晴れとしていた。


「急なんすけど、俺、今月で辞めることにしたんで。お世話になりました」


「……は? 辞める? どこに」

裕樹は、不意打ちに言葉を失った。


「GAFAの日本支社っす」


「……!」

裕樹は、その名前を聞いて息を呑んだ。

世界最大のITジャイアント。


「すごいじゃないか、健太! やったな!」

裕樹は、驚きと、わずかな嫉妬を隠しながら、反射的に祝福の言葉を口にした。


「まあ。おかげさんで」

健太は、あっさりと受け流した。


「給料、すごいんだろ。やっぱり『人的資本』だよな。なんだかんだ言っても、健太はスキルがあったんだ」

裕樹がそう言うと、健太は「は?」と、心底不思議そうな顔をした。


「スキル? 違いますよ」

「え?」


「GAFAっつっても、俺がやる仕事、今の会社ここと大して変わりませんよ。ちょっと使うツールが違うくらいで。俺が評価されたのは『スキル』じゃない。『合理性』っす」


「合理性……?」


「面接で言ったんすよ。『御社のドル建ての給与体系に魅力を感じた』って」

健太は、悪戯っぽく笑った。

「そしたら、面接官(外国人)がゲラゲラ笑って、『君、正直でいいね。この円安の状況で、日本円で給料貰い続けるリスク、ちゃんと理解してるんだ』って」


裕樹の頭が、鈍器で殴られたように痺れた。


「……ドル建て」


「そう。年俸、1.5倍になりました。しかも、ドル建て(・・・・・)で」

健太は、自分のスマホを取り出し、転職エージェントから送られてきたオファーレターのキャプチャを裕樹に見せつけた。

そこには、裕樹の年俸を遥かに超える「数字」と、その横に「USD」の文字がはっきりと記されていた。


健太は、その画面を裕樹の目の前に突きつけたまま、冷酷なまでに「合理的」な事実を宣告した。


「裕樹さん。俺、海外には行けません。親もいるし。地方にも興味ない。東京が一番便利なんで」


「……」


「でも、裕樹さんは気づいてなかったでしょ」

健太は、裕樹の目を見据えた。


「この『日本』という沈みゆく船から『脱出』しなくても、この船の中で『救命ボート(=GAFA)』に乗り換えるだけで、『通貨』は変えられるんすよ」


「通貨……」


「この円安で、俺たちみたいに『日本円』で給料貰ってる時点で、もう、負け確なんですよ」


健太は「じゃ、そういうことで」と軽く頭を下げ、休憩室を出ていった。


裕樹は、その場に立ち尽くした。

第7話で「オワコン」と切り捨てられた『人的資本』は、場所(GAFA)と通貨ドルを変えるだけで、1.5倍の価値を生み出していた。


自分は、「場所」も「スキル」も、そして「通貨」でも、間違っていた。

「合理的自衛」というレースで、自分が周回遅れであることを、裕樹は決定的に思い知らされた。

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