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第14話:立ちはだかる「価値観」

「……私の『仕事』は、どこに入ってるの?」


美咲の静かな問いは、年間192万円という「合理的」な数字に興奮していた裕樹の熱を、一瞬で奪った。

彼のシミュレーションシートには、『妻・収入』の欄はあっても、『妻・キャリア』『妻・アイデンティティ』という変数は、存在しなかった。


「仕事……? 仕事なんて、地方でもあるだろ」

裕樹は、狼狽を隠すように、ロジックで反論しようとした。

「美咲の仕事だって、デザインならリモートでできるはずだ。東京のクライアントの仕事も……」


「無理よ」

美咲は、裕樹の言葉を遮った。

「私がやってるのは、紙媒体のデザイン。印刷所との色校正、クライアントとの対面の打ち合わせ。そういう泥臭い調整の積み重ねなの。裕樹の書くコードみたいに、ネット経由で『はい、納品』って終わるものじゃない」


「でも、年間200万だぞ!?」

裕樹は、理解できない、というように声を荒らげた。

「その金があれば、健太が言ってた『NISAの脆弱性』もカバーできる。海外口座(第12話)への送金額も増やせる。沙奈の教育費だって……」


「沙奈の教育費?」

今度は、美咲が裕樹の言葉を遮った。


「その『地方都市』に、沙奈が将来行きたいと思う学校(教育)はあるの? 私がやっとの思いで掴んだ、この時短のキャリアを捨てて、親の介護がいつ始まるかもわからない土地で、私は『裕樹の家計簿ソフト』の『節約項目』として生きるの?」


「私は、あなたの『自衛』のための『コスト』じゃない!」


美咲の悲鳴に近い叫びが、リビングに響いた。

裕樹は、殴られたような衝撃を受けた。


コスト。

そうだ。

彼のシミュレーションでは、美咲のキャリアも、沙奈の教育環境も、すべて「東京」という高コスト地から離脱するための「最適化すべき対象」でしかなかった。

美咲の収入が減る(=世帯の人的資本が毀損する)リスクは、年間192万円の「投資原資」の前では、無視できる誤差ノイズとして処理されていた。


「……すまん」

裕樹は、それしか言えなかった。


美咲は、震える声で続けた。

「……私だって、怖い。裕樹が突き止めた『不良債権』(第8話)の話も、『賦課方式の原罪』(第9話)も、全部理解したつもりよ。だから、NISAもiDeCoも(第10話)、一緒に始めた」


「でも、『合理的』にやるっていうのは、家族の誰かの『人生』を、コストとして切り捨てることなの?」


裕樹は答えられなかった。

「合理的自衛」は、家族全員が、同じ「システム不信」を共有し、同じ「痛み」を引き受ける覚悟がなければ、実行できない。

シンガポールの誠(第12話)は、おそらく独身か、妻も同じエンジニア(=リモート可能)だったのだろう。

後輩の健太(第11話)は、そもそも「家族」という「重し(アンカー)」を背負うことから逃げているように見えた。


家族というユニットは、「合理的自衛」を実行する上で、最強の「同志」であると同時に、最大の「足枷(あしかせ)」でもあった。


『年間創出可能額: +1,920,000円』


その数字は、もはや輝いては見えなかった。

裕樹が、最も現実的で、最も強力だと信じた「国内避難ジオ・アービトラージ」という戦略は、実行に移す前に、家族の「価値観」という名の、最も強固な壁にぶつかって暗礁に乗り上げた。

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