第13話:国内避難
シンガポールの友人・誠が突きつけた「キャピタルゲイン課税ゼロ」という現実は、あまりにも眩しく、そして、あまりにも遠かった。
(脱出、か……)
裕樹は、自作の家計簿ソフトに新しいタブ『海外脱出』を作り、数時間かけて試算した。
結果は、シミュレーションするまでもなく分かっていた。
「実行不可能」
真っ赤なアラートが点滅する。
子供をインターに入れる学費。
現地での生活費の高騰。
そして何より、日本に残していく両親の介護リスク。美咲の親。
沙奈を、この慣れた環境から引き剥がすこと。
「……無理だ」
裕樹はタブを閉じた。
誠は「脱出」できた。それは彼が、まだ身軽だったからだ。
だが、自分たち家族は、すでにこの「日本」というシステムに、深く、深く、根を張ってしまっている。
(だが)
裕樹の指が、再びキーボードを叩く。
(「脱出」が無理でも、「最適化」する道はないか?)
彼は、会社のポータルサイトを開き、人事規定のドキュメントを検索した。
『フルリモートワーク制度 運用細則』。
コロナ禍を経て、裕樹の会社でも本格導入された制度だ。裕樹自身も、週に二日は自宅で作業をしている。
「……これだ」
裕樹は、家計簿ソフトに新しいシート『居住地別シミュレーション』を作成した。
「最適化」とは、システムの「矛盾」や「歪み」を利用することだ。
裕樹は、日本という国が抱える最大の「歪み」を利用することを思いついた。
「収入(東京水準)」と「支出(地方水準)」の、圧倒的なミスマッチ。
いわゆる「地理的裁定取引」だ。
裕樹は、現在の「東京」の支出と、比較対象として「仮に九州の地方都市」の支出を打ち込んでいく。
【シミュレーション:居住地別 月間キャッシュフロー比較】
1. 項目別の内訳(支出額)
住居費 ※賃貸
【A】東京: -175,000円
【B】地方都市: -80,000円
保育料 ※東京無料 ※地方都市援助あり
【A】東京: 0円
【B】地方都市: -20,000円
食費・雑費 ※交際費減少予定
【A】東京: -130,000円
【B】地方都市: -80,000円
その他 ※娘の習い事の学費等の低減
【A】東京: -75,000円
【B】地方都市: -40,000円
2. 項目別の差額(地方都市移住による創出C/F)
住居費: +95,000円
保育料: -20000円
食費・雑費: +50,000円
その他: +35,000円
3. 結論:月間創出キャッシュフロー (C/F)
合計創出C/F: +160,000円
裕樹の手が止まった。
月間、16万円。
「……年間、192万円」
裕樹の給与(東京水準)を維持したまま、地方に移住する。
それだけで、NISAやiDeCoに全額投入できる「投資可能額」が、年間約200万円、新しく生まれる計算だった。
これは、健太の「NISA(システム内)」より確実で、誠の「シンガポール(システム外)」より現実的だ。
これこそが、家族を持つ自分にとって、最も「合理的」な「自衛」ではないか。
「美咲!」
裕樹は、リビングで沙奈に絵本を読んでいた美咲を、興奮した声で呼んだ。
「見てくれ、これ! 『脱出』じゃなくても、方法があったんだ!」
裕樹は、画面に表示された『年間創出可能額: +1,920,000円』という数字を、誇らしげに美咲に突きつけた。
美咲は、その数字を、裕樹の興奮した顔を、交互に数秒間見つめた。
そして、彼女は、裕樹が期待した言葉とはまったく違う言葉を、静かに口にした。
「……ねえ、裕樹」
「ああ、なんだ?」
「そのシミュレーション、素晴らしいわね」
「……私の『仕事』は、どこに入ってるの?」
「え?」
「私のデザインの仕事。東京だから、時短でも何とか続けられてる。
『地方都市』に、私の『仕事』はあるの?」
裕樹は、言葉に詰まった。
彼のシミュレーションシートには、『妻・収入』の欄はあっても、『妻・キャリア』『妻・価値観』という変数は、存在しなかった。
合理的自衛は、システムの矛盾だけでなく、家族の「価値観」という、最も厄介な矛盾と直面していた。




