第12話:シンガポールの友人
健太の「牧場」という言葉が、週末中、裕樹の頭蓋骨の中で反響していた。
「第一の自衛」だと息巻いた自分が、まるで道化だったと思い知らされる。
NISAという、システム(国)がわざわざ用意した「非課税」の檻。
『資産捕捉』。
その四文字が、裕樹の新たなシミュレーションシートのタブ名になっていた。
(国が、俺たちの資産を把握する)
(国が、将来、その資産に課税したり社会保険料を課したりする)
(その時、俺の「自衛」は、どうなる?)
シミュレーションは、簡単だった。
『将来NISA課税率 = 10%』という変数を設定するだけで、裕樹の20年後のリターンは、無残なほどに毀損された。
「……詰んでる」
その時だった。
ピコン、とノートパソコンの隅に、SNSの通知がポップアップした。
メッセージアプリ。
差出人の名前に、裕樹は目をみはった。
『誠』
五年前、会社を辞めた元同僚のエンジニアだった。
当時、裕樹が「もったいない」と引き留めたのを、「この国でSEやってても、税金と保険料払うために生きてるみたいでさ」と、彼は笑って振り切り、シンガポールに渡った。
裕樹は、その言葉を「意識高い系(笑)」と、どこかで見下していた。
【誠】:『よう、裕樹。久しぶり。まだ、あの「牧場」で消耗してる?』
裕樹は、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
健太と、まったく同じ単語。
「牧場」。
【裕樹】:『……誠。久しぶりだな。「牧場」って、会社のことか?』
【誠】:『会社? ハハ、違うよ。「日本」のこと』
裕樹の指が、震えた。
健太の言葉が、脳内でフラッシュバックする。
『NISAは「牧場」ですよ』
【誠】:『ちょうど今、こっちで確定申告の準備しててさ。お前らのこと、思い出してたんだよ』
【裕樹】:『……どういう意味だ』
【誠】:『いや、こっちの「数字」見てたら、日本で働いてた頃がバカらしくてな。お前、まだ「手取り」で消耗してるんだろ?』
誠は、そう言うと、一枚の画像データを送ってきた。
彼が使っているらしい、シンガポールのタックス・シミュレーターの画面キャプチャだった。
そこには、裕樹の年収を遥かに超える「総所得」と、信じられない「税率」が並んでいた。
【誠のタックス・シミュレーション(シンガポール)】
所得税率(Income Tax): 22% (※誠の所得階層。最高税率は24%)
社会保険料(CPF): 上限あり (※本人の積立口座。賦課方式ではない)
キャピタルゲイン課税(株式売買益): 0%
インカムゲイン課税(配当金): 0%
相続税(Inheritance Tax): 0%
裕樹は、自分の家計簿ソフトと、その画像を並べて表示した。
【裕樹(日本)】
実効負担率: 約45% (所得税+住民税+社会保険料)
キャピタルゲイン課税: 20.315% (※NISAという「檻」の中だけが非課税)
相続税: 累進課税(最高55%)
「……ゼロ?」
裕樹の声が、かすれた。
キャピタルゲイン課税が、ゼロ。
健太が恐れていた「NISAへの将来課税」という「リスク」が、シンガポールでは、そもそも「存在しない」のだ。
「非課税」は、国から与えられた「優遇(=いつか剥奪される檻)」ではなく、当然の「権利(=デフォルト設定)」だった。
【裕樹】:『……なんだよ、これ』
【誠】:『言ったろ? 戦う「戦場」が違うんだよ』
【裕樹】:『でも、生活費が……。子供の教育費が、馬鹿高いんだろ?』
(そうだ、そうに違いない。でなければ、説明がつかない)
裕樹は、この「楽園」にも必ずあるはずの「穴」を探して、必死に反論の「数字」を探した。
【誠】:『ああ、高いよ。インター(学費)なんか、日本の比じゃない。年間500万は飛ぶな』
【裕樹】:『なっ……。じゃあ、意味ないじゃないか!』
(年間500万=月40万以上の支出。そんなものが払えるのか?)
裕樹は、反射的に送信ボタンを押しそうになった。
【誠】:『いや、だから、それが「戦場」の違いなんだって』
【誠】:『じゃあ、沙奈ちゃんが大きくなったら、どうするつもりなんだ?』
その、純粋な問いかけが、裕樹の思考を停止させた。
誠の言葉が、裕樹の脳内で、彼自身の家計簿ソフトの数字と組み合わさっていく。
(誠は……)
(誠は、高い学費(年間500万)を、「税率0%」で稼いだキャピタルゲインから払う)
(俺は……?)
(俺は、沙奈の学費を、「実効負担率45%」で搾取された「手取り」から、さらに「永久債(支援金)」を引かれた、残りカスのような「資産」から、払うのか?)
裕樹は、返事ができなかった。
送信ボタンを押す指が、凍りついたように動かない。
誠が、残酷なまでに正しい。
これは「自衛」ですらなかった。
「脱出」。
健太の「合理的自衛(NISA)」が、システム内の「延命措置」だとしたら、誠の「合理的自衛」は、システムそのものからの「離脱」だった。
裕樹は、プレイマットで眠る沙奈の顔を見た。
「脱出」
その言葉が、非現実的な響きを失い、重く、具体的な「選択肢」として、彼の頭に突き刺さっていた。




