第10話:第一の自衛
ある日曜の朝。
リビングの空気は、以前とはまるで違っていた。 第1話の土曜の朝、この部屋を支配していたのは「手取りが減る」という漠然とした不安と、夫婦間の重い沈黙だった。
だが、今の裕樹は違っていた。 彼の目には、不安や絶望を通り越した、冷徹な「覚悟」が宿っていた。
美咲が、不安そうにコーヒーを淹れている。
「美咲」 裕樹は、昨夜から開きっぱなしだったノートパソコンの画面を、妻に向けた。 そこには、花澤武夫の『厚生年金保険制度回顧録』からの引用文が、ハイライトされていた。
〈将来みんなに支払う時に金が払えなくなったら賦課方式にしてしまえばいいのだから、それまでの間にせっせと使ってしまえ〉
「……これ、なに?」
「昨夜、調べた。年金制度の『設計図』だ」 裕樹の声は、感情を失ったかのように平坦だった。
「俺たちは、騙されてた。いや、これは詐欺ですらない。80年前から、俺たちにこの『不良債権』の敗戦処理をさせることが、『仕様』としてシステムに組み込まれていたんだ」
裕樹は、第2話の『永久債』、第3話の『穴の広がる網』、第5話の『5%毀損』、そして昨夜の『花澤の証言』まで、彼がこの数日間で突き止めた「システムの仕様書」を、美咲に淡々と、だが正確に説明した。
美咲は、最初は戸惑い、やがて青ざめ、最後には怒りに唇を震わせた。
「……ひどい。そんな……。じゃあ、私たちはどうすればいいの? このまま、死ぬまで搾り取られ続けるのを、待つしかないの?」
「いや」 裕樹は、ノートパソコンのウィンドウを閉じた。 そして、彼がこの三年間、丹精込めて作り上げてきた「自作の家計簿ソフト」を起動した。
「やるべきことがある」
彼は、ソフトの「資産構成」の円グラフを開いた。 そこには、彼らの世帯資産の構成が、明確に表示されていた。
【現金・預金(日本円)】: 65%
【株式(日本株)】: 10%
【投資信託(NISAつみたて)】: 20%
【その他】: 5%
「俺たちは、根本的に間違っていた」 裕樹は、円グラフの最大領域である「現金・預金(日本円): 65%」を指差した。
「これが、最大のリスクだ。俺たちは、この『不良債権システム』の『通貨(日本円)』で、資産の大半を持っていた。システムがデフォルト(=超インフレや増税)すれば、この価値はゼロになる」
「じゃあ……」
「逃げるんだ。このシステムから、可能な限り」
裕樹は、家計簿ソフトの設定画面を開き、「資産カテゴリ」の項目に手を加えた。 彼は『貯蓄』というカテゴリ名を削除し、それを『投資(システム内)』と書き換えた。 そして、これまで「将来不安」のために使えなかったボーナスや、月々の貯蓄予定額を、全てその新しいカテゴリに振り分けるシミュレーションを始めた。
画面には、証券会社のロゴが並ぶ。
「NISA」 「iDeCo」
数日前まで、それは単なる「節税対策」であり「老後の資産運用」の一つでしかなかった。 だが、今は違う。
「これは『資産運用』じゃない」 裕樹は、美咲の目をまっすぐに見て言った。
「これは『資産逃避』ですらない。この国が『不良債権』だと確定した以上、俺たちの資産を、そのシステムから可能な限り引き離し、俺たち家族の手で『健全な資産』を築き直すしかない」
「国が俺たちの老後を保証しないどころか、80年前から俺たちを食い物にする『仕様』だったんだ。結構だ。その代わり、俺たちの資産形成に、これ以上、口出しも手出しもするな」
裕樹の指が、NISAの「成長投資枠」に、ボーナスのシミュレーション額を叩き込む。 「全世界株式インデックスファンド」の文字が、選択された。
「これは、俺たち『不良債権世代』に課せられた、唯一の戦い方だ」 裕樹は、力強くエンターキーを押した。
「第一の自衛だ」
この小説はハイファンタジー小説です。登場する人物・団体・名称等は全て異世界のものであり、現実に実在するのものとは、何の関係もありません。
「不良債権世代」は、続「国民基盤役務制度」です。
https://ncode.syosetu.com/n0696lb/




