クロワッサンと井戸の底(よくわからない世界)
婚約を破棄されたのは、木曜日の午後だった。正確には午後三時十七分。
夏が始まる直前の、妙に湿気を含んだ曇り空の日で、窓の外では羊のような雲が、ゆっくりと東へ流れていた。
僕はそのとき図書室にいて、「錬金術と税制度におけるパラドックス」という本を読んでいた。まったく面白くなかった。
婚約者——リヴィア・フォン・アイゼンシュタット嬢がやってきて、丁寧な口調で、僕との婚約を破棄したいと告げた。
「あなたの顔を見るたびに、ニシンの燻製のことを思い出してしまうの」
彼女はそう言った。
なぜニシンの燻製なのか、僕にはわからなかったが、それが問題なのではなかった。
婚約破棄という出来事は、僕の中にぽっかりと、ぬるい穴を開けた。
その夜、僕はいつものように領地の北にある古井戸に行き、そこに耳を当ててみた。
水の音はしなかった。代わりに、「アコーディオンの音」が微かに聞こえた。
それが物語の始まりだった。
井戸の中から聞こえたアコーディオンの音は、どこか懐かしく、それでいて決して僕が聴いたことのない旋律だった。
メロディには始まりがなく、終わりもなかった。ただ同じ旋律が形を変えて何度も何度も繰り返されていた。まるで誰かが深い水の底で、忘れられた記憶を引きずっているようだった。
僕はその場にしばらく座り込んで、アコーディオンの音に耳を澄ませていた。
風が吹いて、どこかで誰かが鉄鍋で何かを炒める匂いが流れてきた。タマネギだろうか。あるいはセロリかもしれない。
ふと、誰かが背後に立っている気配がした。
「また来たんだね」
男の声だった。僕は振り返った。
そこにいたのは猫だった。いや、猫の姿をした男だった、と言うべきだろうか。
彼は燕尾服を着て、グラス片手に立っていた。中身はたぶんマティーニだ。
「きみの婚約が破棄されることは予想していたよ。リヴィアはニシンが嫌いだったからね。君がそれを知らなかったのは、ちょっとした怠慢だ」
「君は誰だ?」
「名乗るほどの者じゃないよ。でも、便宜的に“オスカー”と呼んでくれていい」
猫の姿をしたオスカーは、井戸の縁に腰を下ろし、マティーニをひとくち飲んだ。
僕はその不思議な光景に驚くべきかどうかを決めかねたまま、ただ静かに隣に座った。
「さて、そろそろ行こうか」
「どこへ?」
「君の夢の続きだよ。まだ終わっていないだろう?」
そう言って、彼は懐から懐中時計を取り出した。それはきっかり午後四時四十四分を指していた。僕が最も嫌いな数字だった。
猫の姿をしたオスカーと一緒に、僕は古井戸の裏手にある小道を歩いた。そこは僕の知っている領地の風景とはどこか違っていた。すべてがわずかに曇っていて、色彩が一段階くすんで見えた。まるで薄いガーゼを通して世界を眺めているような、そんな奇妙な感覚だった。
「きみはね」
オスカーが言った。「世界の構造を誤解している」
「世界の構造?」
「そう。たとえば、貴族制度とか、婚約とか、忠誠とか、そういうものが現実の骨格だと思っている。でもそれは、実のところ、表面の飾りに過ぎない。いちばん大事なのは、羊飼いの数でも、政略結婚のルールでもない」
「じゃあ、何が?」
「君が朝食に何を選ぶか、だよ」
僕は立ち止まった。
朝食。そんなもの、パンと卵と少しのチーズ以外にない。それは貧乏貴族の現実だ。
「でも君は本当は、いつもクロワッサンを食べたかったはずだ」
オスカーはそう言って、懐から一枚の古びた紙を取り出した。そこには僕の筆跡で「クロワッサンの夢」とだけ書かれていた。
「これは…?」
「きみが七歳の頃、書いたものだよ。井戸の底に落ちた、いくつかの夢のひとつさ」
僕は紙を受け取り、それをじっと見つめた。
そのとき、空の端に、ひとつの星が現れた。
まだ陽は沈んでいなかったが、星はたしかにそこにあった。まるで時間が、何かを飛ばしてしまったかのように。
オスカーはゆっくりと前を歩きながら、背中で言った。
「リヴィアはもうすぐ戻ってくるよ。ただし、今の彼女とは違う姿でね」
星が空に一つ浮かび、それを合図にしたかのように、風が止んだ。
オスカーは突然立ち止まり、背中越しに言った。
「彼女はすでに“あちら側”からこちらを見ている。けれど、気をつけて。再会というのは、必ずしも安堵や懐かしさを伴うものじゃない」
僕は何か言おうとしたが、喉に言葉が詰まり、代わりに草の匂いが喉の奥に広がった。
道の先に、白い建物が見えた。
あれは確か、かつて使われていた音楽学校の跡地だった。戦争の後、誰もいなくなり、今では風と埃と、時々猫だけが出入りする場所だ。
扉は開いていた。中から、ピアノの音が聞こえてきた。
シンプルで、どこか幼い旋律だった。ゆっくりとした右手と、控えめな左手。音の間に沈黙があり、その沈黙こそが曲の中心にあるような気がした。
僕は建物の中へ入った。
ホールの奥、陽の射す窓辺に、彼女がいた。
リヴィアだった。
でも、あのリヴィアではなかった。
彼女の髪は短く切り揃えられ、服は貴族のドレスではなく、くすんだ青いワンピースだった。ピアノの前に座りながら、こちらを見もせず、指だけを動かしていた。
「リヴィア…?」
彼女は答えなかった。ただ、少しだけ微笑んで、曲を弾き続けた。
その笑みは、僕がかつて見たことのない種類のものだった。
そしてふいに言った。
「わたし、ニシンのこと、本当は好きだったのよ」
「じゃあ、どうして…」
彼女は音を止めた。沈黙が降りた。そして静かに言った。
「あなたが夢を見ていないことに、気づいてほしかったの」
「僕が、夢を…?」
彼女は立ち上がり、僕の方へ近づいてきた。
その歩き方は、まるで深い水の中を進むようだった。
「夢は終わったの。だから、今度はあなたがわたしを見つける番」
リヴィアはもう一言も喋らず、静かに窓の外を見つめていた。
彼女の瞳の中には、僕の知らない季節が映っていた。きっともう、僕の知っている時間の流れの中にはいないのだろう。
「最後の真実が知りたいのなら」
背後で、オスカーの声がした。「井戸に戻るしかないよ。すべてはそこから始まった。だから終わりもそこにある」
僕はうなずいた。何も言わず、音楽学校を出て、再び井戸へと向かった。
*
井戸の前に立ったとき、空はもう完全に夜の色をしていた。星が七つだけ見えた。
僕は手袋を外し、井戸の縁に手をかけ、身を乗り出した。
「覚悟はいいかい?」
オスカーが聞いた。
「たぶん」
そして僕は井戸の中へ降りていった。
ゆっくりと。まるで重力ではなく、記憶に引っ張られるように。
底に着くと、そこにはひとつの箱があった。
古く、小さく、誰かが丁寧に包んだような箱。
僕はそれを開けた。
中には、一冊の手帳があった。
表紙にはこう書かれていた:
> 「リヴィアの日記(婚約破棄を決めるまで)」
僕は黙ってページをめくった。そこには、僕の知らなかった彼女がいた。
彼女の孤独、期待、葛藤、そして僕に言えなかったことたち。
“婚約破棄”は彼女にとって、“自分を取り戻すための小さな革命”だったのだ。
> 「あなたが何も感じていないふりをしていたのが、いちばん悲しかった」
> 「でも本当は、わたしが感じすぎていたのかもしれない」
> 「それでも、わたしはあなたの夢を壊したかったわけじゃない。
ただ、そこにわたしがいなかったから――」
読み終えると、僕は井戸の底で長い間、ただじっとしていた。
風の音も、星の光も、遠くなっていた。
でも奇妙なことに、孤独ではなかった。
そこにリヴィアがいた気がした。
*
翌朝、僕は井戸の外に出た。
世界は何も変わっていなかった。
けれど、何もかもが違って見えた。
そして僕は、朝食にクロワッサンを選んだ。
あたたかくて、バターの香りがして、少しだけ、涙が出た。