紫水のために
途中、チャゲアスの「SAY YES」を頭に思い浮かべてください!
それと、クリスタルキングの「愛をとりもどせ!!」も思い浮かべてください。
「はぁ……」
朝から重いため息をつくのは、まだ幼さの抜けきらない美少年、紫水だった。
国の頂に立つ紫十郎の息子として生まれた彼には、幼い頃から多くのものが課せられている。
学問、礼儀、剣術、戦術。
一つでも欠けることは許されず、朝から晩まで予定は隙間なく詰め込まれていた。
今日も例外ではない。
夜明けとともに始まった勉強と鍛錬は、ようやく一区切りを迎えたばかりだ。
だが、身体は正直だった。
肩は重く、足取りもどこか覚束ない。
集中していたはずの頭も、今は鈍く、思考がうまくまとまらない。
「……少し、休憩するか。」
誰に聞かせるでもなく呟き、紫水は廊下を歩き出す。
規則正しく整えられた城内の景色さえ、今日はやけに遠く感じられた。
曲がり角で使用人を見つけ、足を止める。
「紅茶を頼む。いつものものでいい。」
「かしこまりました。」
短いやり取りを終え、紫水は自室へ向かう。
扉を開け、静かな空間に足を踏み入れた瞬間、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
椅子に腰を下ろし、無意識にまた息を吐く。
「……疲れたな。」
机の上には、読み慣れたお気に入りの本。元は紫水の母が持っていたものだ。
それを手に取り、頁を開く。
ほんのひとときでも、何も考えずに過ごしたかった。
――その時だった。
コンコン
二回、ノックの音がした。
……?
「失礼します。お茶をお持ちしました。」
紫水は、ふと違和感を覚える。
(二回……?ここは厠か?)
もちろん、ここは厠ではない。
だが、疲労で鈍った頭はそれ以上深く考えることを放棄した。
「……入れ。」
短く告げ、入室を許可する。
「失礼します。」
返事とともに、誰かが部屋に入ってくる気配。
紫水は本から視線を外さず、そのまま茶の準備を任せた。
――ゴトッ。
耳に届いた音に、眉がわずかに動く。
……今のは、ティーカップの音ではない。
紫水は顔を上げた。
「……湯のみ?」
机の上に置かれていたのは、どう見ても湯のみだった。
確か、紅茶を頼んだはずである。
「失礼します。」
再び声がして、湯のみに液体が注がれる。
立ち上る香りと色合いを見て、紫水は即座に理解した。
これは紅茶ではない。
「おい、オレが頼んだのは……」
言いかけて、視線を使用人へ向ける。
「……はぁ?」
そこに立っていたのは、いつか見た顔だった。
メイド服を着ているにもかかわらず、立ち姿はガニ股。
どう考えても場にそぐわない。
「……なんだお前は」
「なんだチミはってか。そうです、ウチはリコです。」
リコは、やけに楽しそうにニンマリと笑った。
「なんだお前は」
問いを繰り返す紫水に対し、リコはなぜか答えず肩をすくめる。
「ごめんねー、紫水君。ウチ、紅茶嫌いだからさ。梅昆布茶にしちゃった。」
てへぺろ!
「……はぁ?」
紫水はリコから湯のみに視線を移し、ぼんやりと見つめる。
「ウチが愛情込めて作ったよ!飲んで飲んで〜!」
その言葉を聞いた時、紫水の頭の奥がじわじわと痛み始めた。
「オレは……」
「え、紫水君!?どうしたの!?」
プルプルと震え出した紫水に、リコが慌てて声を上げる。
その瞬間――
「オレは梅も昆布も嫌いなんだ!!出ていけー!!」
怒声とともに立ち上がり、紫水はリコを部屋の外へ押し出した。
「おわ、ちょっとちょっと!」
勢いのまま扉を閉める。
「紫水くーん!!……え、待って!待ってください!まだ――!」
リコの声は、廊下の向こうへと遠ざかっていった。
おそらく、本物の使用人に捕まったのだろう。
部屋に静寂が戻る。
一人になった紫水は、ようやく我に返った。
「……オレは、今……何を言ったんだ??」
視線が、机の湯のみへ落ちる。
「……梅?昆布?」
なぜ、梅と昆布を理由に追い出したのか。
もっと他に、いくらでも理由はあったはずなのに。
「オレも疲れているのか……」
そう思いながら、紫水は額を押さえた。
「それにしても……アイツの、あの服装……似合ってなかった……」
ーーーーーー
コンコンコン
再び、控えめなノックの音がした。
紫水は眉をひそめる。
つい先ほどの騒動が、まだ頭の奥でくすぶっていた。
(……またか?……次はちゃんと三回だが。)
「……何だ。」
「失礼します、“ 紅茶”をお持ちしました。」
またもや聞き覚えのある声に、紫水の肩がわずかに跳ねる。
(まさか……)
一拍の沈黙のあと、紫水は渋々口を開いた。
「……入れ。」
扉が開く。
そこに立っていたのは、セリナだった。
リコと同じくメイド服。
セリナは似合っていた。
「…………はぁ。」
思わず紫水はため息を着く。
セリナは落ち着いた仕草で一礼すると、何事もなかったかのように部屋へ入ってきた。
手には銀のティーポット。
「ご注文通り、紅茶をお持ちしました。」
そう言って、テーブルにカップを二つ並べる。
紫水は一瞬、思考が止まった。
「……なぜ二つある?」
「一人で飲むのも寂しいかと思いまして。」
にこり、と微笑むセリナ。
その仕草は、紫水の懸念とは正反対に落ち着いていた。
(……普通だ。誘拐の件はもう平気なのか?)
紫水は心配しながらも、紅茶が注がれる様子を見つめる。
次は香りも色も、確かに紅茶だ。
「……椅子までもってきたのか?」
「紫水君とお茶を飲みたくて。」
セリナは当然のように、紫水の隣に椅子を設置。
そして腰を下ろした。
紫水はまた、ため息をつく。
「……飲んだらすぐ出ていけ。」
「ふふ、ありがとう。」
二人は同時にカップを手に取る。
一口。
紫水は静かに思った。
(問題なさそうだな……傷に触れるのは無粋だろう。)
……問題ない、はずだった。
「はぁ……」
隣から、やけに艶のある吐息が漏れる。
紫水は嫌な予感を覚え、横目でセリナを見る。
するとセリナは頬を赤らめ、カップを妙にゆっくりと机に置いた。
そして……
「なんだか……酔っちゃったかも……」
「は?」
紫水は眉をひそめる。
「紅茶だぞ?」
「ええ……でも、ほら……」
セリナは身を寄せてくる。
距離が、近い。
「紫水君と二人きりで飲むと……なんだか、くらくらして……」
(な、何を言っている……??)
紫水の脳裏に、警鐘が鳴り響く。
セリナはなぜか肩を落とし、伏し目がちに微笑んだ。
「紫水君……お姉さんが……紫水君を癒してあ、げ、る♡」
下手くそなウインク。
「…………ひぃ」
紫水の背中に、寒い何かが走った。
「……おい…」
少しして、紫水が口を開く。
セリナの目が輝いた。
(効いてる……!これはきっと、アタイの大人の魅力で……!!)
だが、次の言葉は無慈悲だった。
「今すぐ、離れろ。」
「え?」
「気持ち悪い。」
「え、ちょ、いいところでは!?」
紫水は立ち上がり、扉を指差した。
「出ていけ!!」
「な、なんで!?」
「今すぐだ!!」
セリナはあっという間に廊下へ押し出され、扉は勢いよく閉められた。
紫水は額を押さえる。
「……こ、怖かった……」
テーブルの上には、飲みかけのカップが二つ。
それと湯のみが一つ。
今度は目眩がした。
「……今日は厄日か?」
ーーーーーー
「追い出されちゃった……」
セリナはそう呟き、がっくりと肩を落としたまま廊下を歩く。
「あれ、二人とも……」
廊下の角を曲がると、腹を抱えて笑うリコと、必死に笑いをこらえているロメオがいた。
「カカカッ……カカカッ……!!」
リコは壁に手をつき、呼吸もままならない様子で笑い転げている。
「や、やぁ……クククッ……」
ロメオも口元を押さえているが、肩が小刻みに震えていた。
「なーに笑ってんのさ。」
セリナは不機嫌そうに口を尖らせる。
「だ、だって……セリナ……カカッ……」
リコは涙目になりながら、セリナを指さした。
「完全にエロババアだったじゃん!!」
「はぁー!?誰がエロババアやねん!!」
セリナは即座に怒鳴り返し、次に勢いよくロメオを睨みつけた。
「ロメオはどう思った?」
「え? ぼ、ぼくは……」
ロメオの動きがピタリと止まる。
だが次の瞬間、堪えきれずに肩が震え始めた。
「紫水君を……笑わせたいと思ってやったこと……ククッ……ちゃんと理解して……フフッ……いるよ…」
「ちがーう!!」
セリナが叫ぶ。
「笑わせるんじゃなくて、リラックスさせたかったの!!」
「セリナ、あれは怖いよ。」
リコは笑いをこらえきれないまま言った。
「恐怖だよ。エロババアだもん。」
「なんだとー!」
セリナはムキーッと声を上げ、リコに掴みかかる。
「リコだって変なオジサンだったくせに!!」
「ちょ、やめ、やめろって!」
「残念だな。リコのも見たかったけれど、間に合わなかったよ。」
ロメオが少し残念そうに呟く。
「ロメオは朝から用事だったからね!仕方ないよ!」
リコは胸を張った。
「ウチは完璧だったよ!あはは!」
「どこが!」
セリナがすぐに突っ込む。
「メイド服着てるのにガニ股だし、紅茶頼まれたのに梅昆布茶出してたし!」
「それは惜しいことをしたな……」
ロメオは残念そうな表情をした後、首を傾げる。
「ところで、なんで紫水君にそんなことを?」
そう、ロメオだけは事情を知らない。
「あー、説明するとね。」
リコは少し真面目な顔になった。
「昨日のことなんだけど……」
ーーーーーー
遡ること約二十二時間前。
体力測定を終えた四人と佐々木さんは、街道沿いのファミリーレストランに集まっていた。
テーブルの上にはハンバーグ、グラタン、鉄火丼、スタミナ丼、スパゲッティ、ドリンクバーのグラス、そして真剣な顔……は、あまり並んでいない。
「まず、一番最初に救うべきは紫水君だと思う。」
佐々木さんはハンバーグを口に運びながら、何気ない調子でそう切り出した。
「紫月やロメオ君には、今すぐ何かできるわけではなさそうだからね。」
その言葉に、リコが大きく頷く。
「ウチもそれでいいと思います」
フォークを握ったまま、にへらっと笑った。
「愛しの紫水君を、早くウチの愛情で包んであげたいし!」
「うわ、なんか変態っぽーい。」
間髪入れずにミキの毒舌が飛ぶ。
「うっ……!」
リコは胸を押さえ、目に見えてダメージを受けた。
「なら今回は、私とリコが適役かな。」
今度はセリナが、落ち着いた声で名乗りを上げる。
「それでいいんじゃない?」
ユキミも頷いた。
「あの子、セリナには懐いてそうだしさ。リコちゃんは……」
「ただのストーカーだけど、大丈夫?」
ミキが追撃する。
三人の視線が、一斉にリコへと向けられた。
しかし当の本人は、気にした様子もなく胸を張る。
「ウチの包容力なめんなよ。任せとけ!」
「「「……」」」
沈黙。
誰も否定も肯定もしなかった。
その空気を見て、佐々木さんは小さく苦笑する。
「ま、まあ……やる気があるのはいいことだよ。セリナちゃん、リコちゃん。お願いするね。」
そう言って視線を二人に向けた。
「……まずは紫十郎さんに、邸宅で自由に動く許可をもらおうか。紫水君はインドアだから、外に出るのはあまり好まないんだ。家の中で何かしてあげるのが一番だと思う。」
「「はーい!」」
「それと……一度訪れた場所には、そこにドアがあれば直接移動できるようになってるから。移動が楽になってるよ。」
「「ぉおー!」」
その後、異世界に異動した二人。
幸運にも邸宅にいた紫十郎へ接触し、
「好きにするがいい!窓を20枚割るくらいのことは、この俺が許す!!!ガハハハハッ!!」
後日邸宅で好きにする許可を得たのだった。
ーーーーーー
――ということだ。
余計な細部は省き、セリナとリコは四人の会話の部分だけをロメオに伝えた。
話を聞き終えたロメオは、少し目を伏せ、それから穏やかに微笑んだ。
「紫水君のために……ありがとう。」
その一言に、二人の反応は分かりやすかった。
セリナは一瞬言葉に詰まり、慌てて手を振る。
「お、お礼を言われるほどじゃないよ。」
そう言いながらも、口元は緩みきっている。
頬はほんのり赤い。
隣のリコも同じだった。
「その通りだよ、えっへへ。」
照れ隠しなのか、頭をかきながら視線を逸らす。
「じゃ、じゃあ次はウチのターンだね!!」
急に声を張り上げるリコに、ロメオはきょとんとした顔で首を傾げた。
「次は何をするんだい?」
リコは一歩前に出て、意味ありげにニヤリと笑う。
「次はね……某・人気ドラマの名シーンで、感動させちゃうよ……」
やけに溜めた言い方だった。
「どらま……?」
聞き慣れない単語に、ロメオはまた首を傾げる。
その様子を見て、リコは満足そうに頷いた。
「次はウチとセリナの合わせ技なんだよ……」
ーーーーーー
紫水はふと、壁際の時計を見た。
「もうそろそろ、ロメオ兄様がお戻りになる頃だろうな……」
そう呟き、本を閉じる。
椅子から立ち上がり、ロメオを探すつもりで廊下へ出た、その瞬間だった。
「ププー!」
静寂を切り裂くように、妙に間の抜けた音が響いた。
「……?」
振り向いた紫水の視界に、あり得ないものが飛び込んでくる。
白い――いや、白っぽいダンボールで雑に組まれた、箱状の何か。
その中に、人が入っていた。
足の部分だけがくり抜かれ、箱を抱えるようにして中に収まっている。
「ププー!」
それはセリナだった。
(今度は……何を……?)
理解が追いつく前に、その“箱”が突進してくる。
(――来る!?)
思わず身構えた、その瞬間。
物陰から、別の人物が飛び出した。
セリナは、その人物の寸前で急停止する。
「馬鹿野郎!死にたいのか!!」
セリナの怒号が響いた。
飛び出してきたのはリコだった。
黒髪サラサラヘアのズラに、灰色のスーツに赤いネクタイ。
「……」
リコはやけに真剣な表情で、紫水の方へと身体を向ける。
(……なぜこっちを見る。)
紫水の胸に、嫌な予感だけが膨らんでいく。
「僕は――」
リコは、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「僕は死にまシェン!!」
声が、廊下に響き渡る。
「あなたが好きだから!!僕は、死にまシェン!!」
(……は?)
紫水は唖然とする。
さらに追い打ちをかけるように、ダンボールの中から歌声が重なる。
「愛には愛で〜感じ合おうよ〜」
やたら情熱的な歌。
その歌に背中を押されたせいか、リコは感極まったように叫ぶ。
「ウチがぁ!幸せにしますからぁあ!!」
「????」
紫水は、ただ立ち尽くしていた。
惑い、恐怖、混乱。
それ以上に、処理不能だった。
数秒後。
紫水は静かに、心の底から思ったことを口にした。
「…………狂ったか?」
ーーーーーー
「……なんかさ」
リコがぽつりと呟いた。
「空気、地獄じゃなかった?」
その言葉に、セリナが深く頷く。
「え、それな……。紫水君の目……完全に氷点下だったし……」
二人は同時に、そっと視線をロメオへ向けた。
「え……」
ロメオは一瞬考え込み、正直に口を開く。
「正直……僕には、よく分からなかったよ。」
申し訳なさそうに、しかし率直に。
「特に、セリナのその……箱と、リコのその服装……」
「「……」」
次の瞬間、リコが天を仰いだ。
「ちきしょー!!」
拳を握りしめ、悔しそうに叫ぶ。
「やっぱりネタが古いんだよ!! この世界、トラックないし!!伝わってないじゃん!!」
「はぁ!? 古くないって!!異世界なんだからこのドラマがあるはずないもん!!むしろ新鮮なはずだもん!!」
今度はセリナが噛みついた。
「それより、リコのその格好なに!? どう見ても金八先生でしょ!? 別作品じゃん!!」
「名作は世界を超えるんだよ!!」
「えっ…リコ、金八先生見てたの?」
「え、見てないよ。」
「なんやねん!」
廊下に、再びギャーギャーとした言い合いが響く。
腕を振り回すセリナ。
身振り手振りで反論するリコ。
ロメオはその様子を眺めながら、苦笑いを浮かべた。
「ま、まぁまぁ……」
二人が一瞬こちらを見る。
ロメオは慌てて言葉を続けた。
「えっと……次も、何かあるのかな?」
その一言で、空気が変わった。
喧嘩をやめたリコが、ニヤリと笑い、指を鳴らす。
パチン、と乾いた音。
「そうだよ!」
胸を張り、宣言する。
「まだ……最後に奥の手がある!!」
ーーーーーー
紫水は、辺りを見回した。
「ロメオ兄様……庭だろうか」
廊下にも、庭へ続く道にも、その姿は見えない。
胸の奥に、じわじわと不安が広がる。
(なかなか見つからないな……)
先ほどの騒動が脳裏をよぎる。
(……あの二人が、まだ近くにいたら…)
考えただけで背筋が寒くなった。
できるだけ早く、ロメオに合いたい。
そう思い、足を進めたその時だった。
「デデデーン、デデデデーデデーデデデ、デーデン」
やたらと主張の強い歌声が空気を震わせる。
「……またか……!!」
紫水は即座に身構え、周囲を警戒した。
すると、視界の先に人影が現れる。
茶色い布を全身に纏い、無駄に渋い表情をしたセリナだった。
布を手でなびかせながら、堂々とこちらへ歩いてくる。
「デデデーン、デデデデーデデーデデデ、デーデン」
歌っているのは、間違いなく彼女だ。
「ユーはショック!!」
叫んだ瞬間だった。
「ヒヒヒヒヒ!! そこのお前!! 動くな!!」
紫水の背後から、突然声が響く。
振り向く間もなく、気配だけで分かった。
――リコだ。
作業着のような生地に、袖がボロボロになった服。
明らかに様子がおかしい。
「動けば、この小僧がどうなっても知らんぞ!!」
「な、何をする気だ……?」
紫水は反射的に身構えた。
「坊ちゃん、君はこのリコがた〜っぷり可愛がってあげるよっ!!ヒッヒッヒ!!」
そう言った直後。
「ぉおおおおおおおお!!!」
突如、セリナが力み始めた。
次の瞬間、茶色い布を勢いよく後方へ放り捨てる。
セリナの服も何故か、袖がボロボロだった。
(え?)
理解する暇もなく、セリナはリコへ向かって一直線に走り出した。
そして――
「ほぅおー!!!
アタタタタタタタタタタタタタタタタタタタター!!!」
高速で、リコを突いた。
「ぐうぉおおおおお……!!」
リコは唸り声を上げ、その場にうずくまる。
(終わった……?)
と、紫水が思った次の瞬間。
「ヒヒヒヒヒッ! 効いちゃいないぜ!!」
リコは顔を上げ、再び不気味に笑った。
その様子を見て、セリナは静かに指を突きつける。
「お前はもう、死んでいる。」
「ナニィッッッ!!!???」
リコは一瞬だけ顔をしかめたが、すぐにニヤついた。
「何を言っている!?ウチはこうやって生きて…………ひでぶっ!」
次の瞬間、胸や腹を押さえ、
まるで内側から破裂したかのような奇妙な動きを見せる。
そして、そのまま後方へ倒れた。
沈黙。
「紫水君……」
セリナが、こちらを見つめてくる。
紫水は、無意識に一歩後ずさった。
「お、お前ら…………」
「……?」
セリナが首を傾げた、その瞬間。
紫水の口から、心底率直な言葉が零れ落ちた。
「……馬鹿なのか……?」
ーーーーーー
人目につかない場所で、三人は小さく集まっていた。
「おっかしいなぁ……」
腕を組み、首を傾げるセリナ。
「あぁいうの、男の子は好きなんじゃないの?」
本気で不思議そうな顔だった。
ロメオは一瞬、言葉を選ぶように視線を泳がせてから、困ったように笑う。
「あはは……」
そして、やんわりと告げた。
「どちらかといえば、紫十郎さんが好みそうな内容だったよ。」
「なぬっ!」
遠回しな指摘に、空気が一拍止まる。
「……」
リコは何も言わず、ただ拳を握りしめた。
ぐっ、と力がこもる。
「こうなれば……」
顔を上げ、決意を宿した目で言い切る。
「最終手段!!」
ーーーーーー
紫水はようやく、見慣れた背中を見つけた。
「……!」
一気に胸が軽くなる。
「ロ、ロメオ兄様!!」
思わず駆け寄り、息を弾ませて訴えた。
「聞いてください!! 屋敷に……屋敷に不審者が……!!」
今思い出しても、胃のあたりがきゅっと縮む。
あの奇妙な歌声と、意味不明な寸劇。思い出すだけで頭が痛い。
ロメオは振り返り、状況を察したようにやさしく目を細めた。
「ふふ……聞いているよ。大変だったね。」
その声だけで、張り詰めていたものがほどけていく。
「部屋にお茶を用意してある。ゆっくり話を聞かせてくれるかい?」
「え……あ……はい。」
紫水は小さく頷いた。
ロメオが歩き出すと、その背中を見失うまいと、自然と後をついて行く。
その様子を、柱の影からじっと見守る二つの影があった。
「「頼んだぞ、ロメオ!!」」
声にならない声で、必死に祈る。
そう――
これが、彼女たちの最終手段。
名付けて、「困ったらロメオにお任せ!」作戦だった。
ーーーーーー
「どうぞ。この部屋に用意したんだ。」
ロメオに促され、紫水は部屋の中へ足を踏み入れた。
「……え……?」
そして思わず、息を呑む。
部屋の空気が、どこか甘くやわらかい。
壁紙は淡い水色でまとめられ、天井からは小さなランプが吊るされている。
その光は揺らめくように瞬き、まるで夢の中に迷い込んだかのようだった。
棚には、ウサギのぬいぐるみや置物が所狭しと並んでいる。
白兎、トランプの兵士、懐中時計を抱えたウサギ。
机には赤い薔薇に、色とりどりのキャンディ。一口サイズのチョコレート。
ティーカップは大小さまざまで、わざと不揃いに配置されていた。
「……」
紫水は、ゆっくりと部屋を見回す。
「どうしたんですか……!!この部屋は……!!」
紫水は、思わず声を上げていた。
きらきらとした視線のまま、ロメオを見る。
ロメオは、その反応を見て楽しそうに微笑んだ。
「フフッ……ほら、隠れてないで。出ておいでよ。」
そう言って振り返る。
次の瞬間、棚の陰、カーテンの向こうから、二つの人影が現れた。
「……!」
紫水の表情が、一気に強張る。
「な、お前たち!」
現れたのは、リコとセリナだった。
思わず渋い顔になる紫水。
だが、その肩にそっとロメオの手が置かれる。
「この部屋ね。」
ロメオは穏やかな声で続けた。
「この二人と、紫十郎さんが用意してくれたんだよ。」
「……え?」
紫水は、耳を疑った。
「こいつらと……父上が、ですか?」
ロメオは、静かに頷く。
「うん。詳しい話は、二人から直接聞いてごらん。」
その視線を受け、セリナが一歩前に出た。
「この部屋をさ、紫水君の好きなもので埋めようって話になったんだ。」
少し照れたように、視線を逸らしながら続ける。
「でも私たち、ウサギしか好きなものが分からなくて……だから紫十郎さんに聞いたの。」
「めっちゃ色々教えてもらったよ。」
リコが楽しそうに付け足す。
その瞬間、紫水の脳裏にある光景が浮かんだ。
――――
「紫水は西の菓子を好む!!」
どこか嬉々とした声。
「飴や……ちょこれいと……だったか?姉弟で似て甘党なのだ!!二人とも賢いからだろうなあ!!」
声が弾んでいた。
「それからなぁ!!紫水は濃い色よりも、淡い色を好む!!だが、バラは赤が好きらしい!!他には――」
思い出すだけで分かる。
あの人は、嬉しそうに語っていた。
――――
「この部屋の壁紙もね。」
現実に引き戻すように、リコが言う。
「白から水色にしてもらったし、シャンデリアとかも全部変えてもらえたんだよ。ほんと、色々協力してくれたんよね。」
紫水は、言葉を失ったまま立ち尽くす。
「……父上が……」
喉が、少し詰まる。
「オレのために……?」
着物の裾を、ぎゅっと握りしめる。
胸の奥で、何かが静かに震えていた。
「でも、どうして……こんなことを?」
紫水が、素直な疑問を口にする。
セリナは一瞬だけ視線を伏せ、意を決したように頷いた。
「実は……」
そう前置きしてから、セリナはきちんと部屋の中へ入り、扉を閉めた。
話すなら、落ち着いて。
そう思ったのだろう。
――その判断は、間違っていなかった。
間違っていたのは、タイミングだった。
「帰ったぞぉおおおおおお!!」
屋敷全体を揺らすような大声と共に、内開きの扉が勢いよく開く。
「「へブッ!!」」
鈍い音。
セリナだけでなく、すぐ隣にいたリコまでもが、ドアと壁の間に見事にサンドされた。
「進捗はどうなっている!!」
紫十郎はそんなことお構いなしに、ずかずかと部屋へ踏み込んできた。
「んん? あの青と赤の娘二人はどこに行った!?」
首を左右に振り、キョロキョロと辺りを見回す。
……すぐ目の横にいるのに。
ロメオが青ざめた顔で駆け寄る。
「だ、大丈夫!?」
その声で、ようやく紫十郎も異変に気づいた。
「む!?」
ドアの向こうを一瞥し、何かを察した紫十郎は、今度は慎重に扉を閉める。
すると。
「いったぁーい!!」
「いたたたた!!」
額を押さえたリコとセリナが、ずるずると姿を現した。
リコに至っては、鼻血まで垂れている。
「お、おい……!」
紫水は慌てて懐からハンカチを取り出し、二人の元へ駆け寄った。
感動の続きを語るはずだった部屋は、
一瞬にして応急処置会場と化したのだった。
ーーーーーー
リコとセリナがロメオに手当を受けている間、部屋の空気は少しだけ落ち着きを取り戻していた。
今は紫水と紫十郎のふたりきり。
「悪いことをしたな!!」
そう言いながらも、その視線はすでに壁や天井へと向いていた。
この二人は知らなくて当然だが、部屋は「不思議の国のアリス」がモチーフになっている。
「ほう……改めて見ると、なかなかに可愛らしい部屋ではないか!!」
紫十郎は豪快に笑った。
「紫水が好きそうな部屋だ。」
その一言に、紫水はビクリと肩を揺らした。
「なっ……ち、違います!!」
慌てて首を振る。
「こ、こんな……女が好みそうな部屋なんか……!!」
そんなことを言いながらも、紫水の目線も部屋のアチコチへ向いている。
紫十郎は、その様子を見逃さなかった。
「嘘をつくな。」
厳しい言葉のようだが、穏やかな声だった。
「お前はこの部屋を見て、心から喜んだはずだ。」
紫水の手が、着物の裾をぎゅっと握る。
「……」
「親の俺には分かる。」
紫十郎はそう言って、紫水の方を見た。
責めるでもなく、茶化すでもなく……ただ優しく。
「お前は好きなものを好きと言ばいい。なにも恥じることなどないと思うが?」
その言葉が、部屋の柔らかな光の中で、静かに落ちた。
「紫水……俺の真似ばかりしようとするな。俺はお前に、お前らしさを求める。」
紫水は、思わず息を呑んだ。
「……オレらしさですか?」
紫十郎は、今度はゆっくりと首を縦に振る。
「お前は本来、この兎のような繊細なものや、美しいもの、俺には難しい本を好むはずだ。」
視線が、部屋の隅に並ぶ置物や書棚へと向けられる。
「だが最近はどうだ。好きでもない剣の鍛錬ばかりだと聞いているぞ。身を守るために鍛錬は必要だが……お前が自分の時間を削ってまで、やりたいことではないはずだろう。」
「それは……」
紫水は一瞬、言葉に詰まる。
だが、すぐにぶんぶんと首を横に振った。
「父上のような立派な男になるための、当然の努力です。」
視線を逸らさず、必死に言葉を重ねる。
「オレは強くなりたいんです。はやく大人になって、父上を……!」
「紫水。」
紫十郎が息子の名を呼ぶ。
「心がけが立派なのは良いことだ。だが……お前はまだ子どもだ。」
紫水の肩が、わずかに震えた。
「俺はお前に、年相応にいてほしい。お前を……そう強がらせている原因の俺が、言えたことではないがな。」
その言葉に、紫水は即座に顔を上げた。
「原因だなんて言い方はやめてください!」
声が、思ったよりも大きく響く。
「父上はオレや姉上のことを、よく気にかけてくださるじゃないですか!!」
握りしめた拳が震える。
「父上に否などなにも……!!」
「いや、俺が悪い。」
紫十郎は迷いなく言った。
その目は、真っ直ぐに紫水を捉えている。
「俺があまり構ってやれないばかりに、お前に寂しい思いばかりさせてしまっている。」
そう言って、紫十郎は椅子から立ち上がった。
一歩、また一歩。
確かな足取りで、紫水の前へと近づく。
「俺に負担をかけまいと、ずっと背伸びをするお前に……俺は、なにもしてやれていない。」
紫水の目の前で、紫十郎は足を止めた。
「男同士の抱擁など、俺は絶対に断るが……」
一瞬、照れたように視線を逸らし、
「お前は別だ。息子だからな。」
そのまま、そっと紫水を抱きしめる。
「!」
紫水は、抵抗しなかった。
父の着物に顔を埋める。
胸に広がる温もりを、ただ受け止めながら。
「紫水、謝らせてくれ。」
紫十郎の声は、先ほどまでの威厳を帯びたものではなかった。
「まだ子どものお前を……一人にしてばかりで、すまない。」
紫水の背に回された腕に、わずかに力がこもる。
「優しくて繊細な性格のお前が、強がって無理をするようになったのは、俺のせいだ。」
その言葉に、紫水はそっと紫十郎の背へと手を回した。
「……そんなにオレは、無理をしているように見えましたか?」
「他の者からは知らんが……俺には、そう見える。」
紫水は小さく息を吐く。
「オレは、まだまだですね……」
「気にすることはない。威厳や貫禄など、そのうち自然と身につく。」
紫十郎はそう言って、紫水の身体をゆっくりと離した。
「だから今は、今しか出来ないことをしてほしい。」
大きな手が、小さな頭にぽんっと乗せられる。
「だが……俺は少し安心したぞ。」
紫水は顔を上げる。
「お前に、友ができたことにな。」
「……友?」
不思議そうに首を傾げる紫水を見て、今度は紫十郎が首を傾げた。
「……? あの青と赤の娘二人だ。」
紫十郎は当然のように言う。
「お前の笑った顔が見たい、と言っていたぞ。それは友だからではないのか? 今日の行動も、そのためだろう?」
「……今日の行動?」
紫水の中で、何かが繋がる。
「……あっ!」
あの奇妙な行動の数々。
意味不明な演出。
そして、この部屋。
すべてが、一つの線になる。
その瞬間だった。
ドアが開く。
「戻りましたー。」
「お待たせしましたー。」
リコとセリナが顔を出し、その後ろからロメオも姿を現した。
紫水は二人を見つめ、静かに言った。
「……お前たち、オレを笑わせようとしてたんだな。」
一瞬きょとんとした二人だったが、すぐに表情が変わる。
「「え!!」」
「紫十郎さん、もう全部話しちゃったんですか!?」
セリナが声を上げる。
「えー!!」
リコは目をかっぴらいて叫んだ。
「ウチらが話して、紫水君をジーンってさせたかったのに!!」
「なに、そうだったのか!!」
紫十郎は悪びれることなく、豪快に笑った。
「それはすまんことをした!!」
「「もー!!!」」
地団駄を踏む二人。
その様子を横目に、紫水は静かに息を吐いた。
今日一日の出来事が、頭の中でゆっくりと再生されていく。
(あれで……オレを笑わせようとしていたのか。)
正直なところ、当時は怖さの方が勝っていた。
笑顔どころではなかったはずだ。
訳が分からず、振り回されて、混乱して――。
(オレのために……)
けれど。
「あれ、紫水君。」
ロメオがふと、優しい声を向ける。
「なんだか、嬉しそうだね。」
「え……?」
紫水ははっとして、慌てて口元に手をやった。
自分では、まったく心当たりがない。
「き、気のせいではないですか?」
だがロメオの目には、はっきりと映っていた。
穏やかで、どこか安心しきったような表情。
少しだけ呆れを含んだ、柔らかな緩み。
「へぇ〜、そうなんだ〜。」
背後から、ぬるりと気配が迫る。
気づいた時には、リコの腕が紫水をがっちりと捕まえていた。
「なっ何をする……!!」
「ウチには、ちょっと笑って見えたけどな〜。」
リコは楽しそうに言い、セリナを見る。
「セリナは?」
「私は見えなかったなぁ。」
セリナは首を傾げ、悪戯っぽく笑った。
「だから紫水君、もう一回お願い!」
「……」
意外にも紫水は、リコへの抵抗をやめた。
力を抜き、静かに視線を落とす。
「……そんなに、見たいのか?」
「当たり前じゃん。」
セリナは迷いなく答える。
「私と紫水君との、約束があるしね。」
セリナの笑顔は、まっすぐだった。
「紫水君の笑顔、見たい人ー!」
リコが高らかに呼びかける。
ロメオが、紫十郎が、セリナが。
部屋にいる全員が、迷いなく手を挙げた。
(……そうか)
紫水の胸に、静かに何かが落ちてくる。
温かくて、少し照れくさい感情。
「父上。ロメオ兄様……」
そして、視線を前に向ける。
「……セリナ、リコ。」
「!!」
名を呼ばれた二人の目が見開かれた。
「オレのために……ありがとう。」
そう言って、紫水は微笑んだ。
それは大人ぶった作り笑いではなく、
子どもらしい、素直で純粋な……美しい笑みだった。
リコとセリナが異世界にいる間、ミキとユキミは二人でお店を回してます。
なかなか戻らないからプンプン怒ってるでしょう。




