苦悩
朝。
「セリナ様、朝でございます。」
控えめな声とともに、使用人に起こされた。
昨夜は――
正確には、もう日付が変わってからだったが、
部屋に備え付けられた風呂にどうにか入り、用意されていた寝巻きに着替え、そのまま眠りに落ちていた。
身体は重い。
けれど、目は思ったよりもはっきりと覚めていた。
「本日は、こちらのお召し物をご用意しております。」
差し出されたのは、青いワンピースだった。
白い襟があしらわれた、上品で可愛らしいデザイン。
白い靴下に、同じ青色の可憐な靴まで揃えられている。
言われるままに着替え、
髪を整えられ、最低限の化粧を施される。
鏡に映る自分は――
見た目だけは名家の令嬢のようだった。
準備が終わり、部屋を出る。
廊下に出た瞬間。
「おはよう。」
聞き慣れた声がした。
見ると、ロメオが廊下に立っていた。
「そのワンピース、よく似合ってるね。」
「……ありがとう、ロメオ。」
少し間を置いてから、首を傾げる。
「どうしたの?こんな所で。」
ロメオは一瞬、言葉を選ぶように視線を逸らし、それから答えた。
「実は……桐生君から連絡があってね。もう一度、セリナから話を聞きたいそうなんだ。」
そして、すぐに付け加える。
「気持ちがまだ落ち着いていないなら、断るつもりだよ。」
ロメオは、じっとセリナを見る。
様子を窺うというより、
本当に無理をさせないための視線だった。
セリナは、小さく息を吸ってから答える。
「……大丈夫だよ。」
少しだけ間を置き、
「行く。」
ロメオは、わずかに表情を緩めた。
「分かった。僕も呼ばれているから、一緒について行こう。」
ーーーーーー
「さぁ、どうぞ。」
馬車へ乗り込む際、ロメオが手を貸してくれた。
サラッとエスコートするあたり、やはり彼は生まれながらの紳士だということが分かる。
「ありがとう、ロメオ。」
「じゃあ、僕は別の馬車に乗るから……」
「あ……待って、ロメオ。」
呼び止めると、彼の動きが止まった。
「……? どうしたんだい?」
「話したいことがあるから……一緒に乗らない?」
ロメオは、そのまま黙り込んだ。
「……」
少しした後、ゆっくり頷く。
「……分かった。」
ロメオが馬車に乗り込むと、扉が静かに閉められた。
車輪が回り出し、一定の揺れが身体に伝わる。
窓の外には、朝の光に照らされた景色が流れていった。
しばらく、二人とも言葉を発さなかったが――
先に口を開いたのは、ロメオだった。
「……正直、少し驚いたよ。」
「え?」
「セリナは栄で誘拐されたのに、昼に四人で栄に集合するって聞いてね。」
それは責める口調ではない。
ただ“大丈夫なのか”と確かめる、柔らかな声音だった。
セリナは少し考えてから、窓の外を見たまま答える。
「昼間のあの噴水広場なら……誘拐なんてされないでしょ。」
「それは……そうだけど。」
ロメオは苦笑して続ける。
「でも、四人で栄に集まったら……今度こそは、ちゃんと帰宅するんだろうね?」
「うん。」
即答だった。
「今日はちゃんと帰る。昨日は……紫月さんに、嘘ついちゃったけどさ。」
「昨日、宿泊場所がないって聞いた時はさすがに驚いたな……」
二人は顔を見合わせ、どこか気まずそうに、同時に苦笑した。
少し沈黙が落ちてから、セリナがぽつりと言う。
「……結局、紫水君に飴を渡せなかったなぁ。証拠品として持っていかれちゃったし。」
「あぁ……」
ロメオは納得したように頷く。
「多分、今日返されるはずだけど……飴ならまた今度渡せばいいよ。紫水君は優しいから、きっと待ってくれる。」
「うん……」
セリナは小さく微笑んだ。
「約束したからね。食べきれないくらいあげるって……
それで……笑わせてみせるって……」
ロメオは何も言わず、ただ微笑む。
馬車の揺れだけが、淡々と続く。
その無言の中で――
セリナの胸に、ずっと引っかかっていた言葉が浮かび上がった。
「オンシには……その者の…気持ちは……分からんじゃろう…が……寄り添い……元に戻して……やれ……」
アズールの、あの声。
セリナは、ぎゅっと指を握りしめてから、ロメオを見る。
「……ねぇ。」
「ん?」
「聞いていい?」
少し、間を置いて。
「その……戦争のこと……」
ロメオは、すぐには答えなかった。
だが、セリナの視線に含まれた意味を感じ取ったのだろう。
やがて、静かに頷いた。
「あぁ……いいよ。」
馬車は、変わらぬ速さで進み続ける。
だが――
ここから先の話は、きっと重くなることは分かっていた。
その証拠に、ロメオの笑みは消えた。
「……ずっと、血の匂いを嗅いでた気がする。洗っても、拭いても……取れない匂いだった。」
ロメオは、窓の外を眺めたまま言う。
「死んでいく仲間を、何人も見送ったよ。……僕が間に合わなかったばかりに……それだけ過酷な場所だった………」
セリナが、ぽつりと呟く。
「……必死だったんだね……」
ロメオは、わずかに首を振った。
「仲間を守るためには……必死だったよ。」
馬車の揺れに身を任せながら、続ける。
「前に出て、盾になって、退路を作って……それは、必死だった。」
一拍、間が落ちる。
「でも……自分が死ぬかもしれない、って意味では……
一度も、必死になったことはなかった。」
セリナが、ゆっくり瞬きをする。
「……どういうこと?」
ロメオは、視線を落としたまま答えた。
「僕は……色つきだ。戦うための才能を与えられて、生まれた。」
長い睫毛が、微かに震える。
「銃を向けられても、避けられる。銃弾を斬ることだって簡単だった。」
淡々とした語り口。
「だから……戦場に立っていても、僕が“死ぬかもしれない”って感覚が、なかった。」
セリナの喉が、静かに鳴る。
「他の人は……」
「うん。」
ロメオは、すぐに頷いた。
「みんな、必死だった。生き残るために、歯を食いしばって、震えながら武器を握っていたよ。……それは、敵も同じだった。」
拳を、ゆっくりと握る。
「……でも僕は。」
声が、ほんのわずかに低くなる。
「必死になっている人たちを、必死にならなくても……殺せてしまった。」
重たい沈黙。
「避けて、斬って、撃って、次に進む。相手がどんな覚悟でそこに立っているかを分かっていても……関係なかった。」
セリナは、胸の奥が、きり、と痛む。
「それが……」
ロメオは、一息吐いた。
「僕たち、色つきの役割だった。戦況が危ないところに赴いて、特攻して、敵を殲滅する。……アズーロ君もそうだったはずだよ。」
自嘲するように、ほんの少しだけ笑う。
「こんな才能、欲しくなかった。だけど……この才能のおかげで生き残れた。国は勝った。嫌な話だよ……」
「……」
セリナには、黙って聞くことしかできなかった。
ロメオは、少し考えるように視線を前へ向けてから、静かに口を開く。
「……セリナ。ここまでの話を聞いて……どう思った?」
セリナは、すぐには答えず、膝の上で指を絡める。
「……正直に言っていい?」
ロメオは、迷いなく頷いた。
「うん。」
「……アズールが言ってたでしょ。“オンシに気持ちは分からん”って……」
ロメオは、何も言わずに耳を傾けている。
「ロメオの話を聞いて……いたたまれない気持ちには、なったよ。」
一拍。
「だけど……」
「……だけど?」
「その苦しみを……完全に“分かる”ってことは、無理だなって思った。」
セリナは、はっきりと言った。
「私には……“ 分かった気になる”ことしか、できない。」
ロメオは目を伏せたまま、短く息を吐いた。
「……そっか。」
否定も肯定もない、受け止めるだけの声。
ロメオは続けた。
「僕を……恐ろしいと思うかい?」
「ロメオを……?」
「君は……僕たちと違って、人が死ぬ場面に慣れてない。……君の目の前で人を殺したし、戦場ではもっと多くを殺してる。」
セリナは、少し迷ってから答えた。
「私は……ロメオは怖くないよ。ブルーノ…から私を助けてくれたし、望んで人を殺してたわけじゃないことも分かる。だけど……」
「他の三人は分からない、って言いたいんだろう。」
「うん。倉庫でのことは、三人に話してるでしょう?だけどロメオ、戦争どうこうについては省いてそう。」
「……お見通しだね。」
やや困ったような表情をするロメオ。
「怖がらせないため、とか配慮してくれたんだろうけど……みんなロメオのこと誤解しちゃうよ?」
「……それならそれは、僕が受けるべき罰なんだと思う。」
「まったく……」
セリナは少し呆れてしまった。
優しすぎる人は、損をしがちなことを知っているからだ。
軽くため息をつくと、セリナは尋ねる。
「じゃあ……ロメオは、私たちをどう思う?」
「どうって?」
「アズールは私に優しくしてくれたけど……ブルーノとかいう奴は私を憎んでたから。戦争も知らず笑いやがって、って。」
「あぁ……」
ロメオが抱いていた感情は、安心だったのか。
それとも、苛立ちだったのか。
ロメオは、ゆっくりとセリナを見る。
「僕は……」
少しだけ、言葉を探してから。
「君たちといると……楽しかったよ。迷子同士、出会った時から。」
「……!!」
セリナの頬が、わずかに熱を帯びる。
「こんなふうに、何も考えずに笑っていた頃が……
僕にもあったなって。」
「えぇ……嬉しい……」
思わずこぼれた、その一言に、ロメオは微笑んだ。
「きっと……紫月さんも、同じだよ。」
声は、穏やかだった。
「ずっと苦しんでいるけど……君たちといると、少し明るくなる。アズーロ君が言っていたことは……きっと、そういうことなんだと思う。」
「……!!」
セリナは、小さく頷く。
「……“寄り添い、元に戻してやれ”、だっけ。」
アズールの“ 笑顔”を忘れていた。
一緒に歌って“ 楽しかった”ことを忘れていた。
アズールが“ 一番伝えたかったこと”を忘れていた。
彼の言葉が誰かを救うための遺言だったことを、セリナはようやく思い出す。
「良かった……元の目に戻ったね。」
ふと、ロメオがそんなことを言う。
セリナは驚いた。
「え……?私、今までどんな目してたの?」
「倉庫から帰ったとき……憎しみで目が濁りかけていたよ。」
「……そうだろうね。アズールが死んで……あの男が憎くて仕方なかったから。」
「今は少しスッキリして見えるけど……どういう気持ちの変化だい?」
「それは……」
(私は……)
セリナは自分の気持ちに、ジックリ向き合う。
「あの男のことはずっと恨むし、許せない。だけど……あんまり悪く言うとアズールが怒りそうだから、ちょっとは勘弁してさしあげようかなって。」
「……セリナらしいね。」
「どーゆー意味?」
ロメオの含みのある言い方に、セリナがむっとした、その時――
ガタン。
馬車が止まった。
「あ、到着したね。」
「ねー、どーゆー意味?」
扉が開く。
「お疲れ様です。ご足労いただき、ありがとうございます。」
外では桐生が待っていた。
「桐生君こそ、出迎えありがとう。」
ロメオが先に降りる。
「お手をどうぞ。」
「ありがとう。」
セリナも降りようとすると、ロメオが手を差し出してリードしてくれた。
「青の御方は私に。ロメオ殿下は、私の部下の木村に付いてきてください。」
「分かったよ。」
ロメオが頷くと、セリナを見る。
「またね、セリナ。君は聴取が終わったら、緑の誰かが栄まで送ってくれる手筈になってる。」
「分かった。またね、ロメオ。」
「こちらへ、お願いいたします。」
桐生の後ろを歩くセリナ。
友人の姿が見えなくなるとーー
ロメオの表情が一気に引き締まった。
「さて……」
ふぅ、と息をつく。
「行こうか……アズーロ君たちの元へ。」
ーーーーーー
そこは、夜の倉庫とは比べものにならないほど静かだった。
石造りの壁に囲まれ、外の音は一切届かない。
灯りは必要最低限で、空気は冷え切っており、鼻の奥が少し痛んだ。
そこに――
十人の遺体が、白布を掛けられて並んでいた。
「……こちらです。」
桐生の部下である木村が、淡々と説明を始める。
「青髪の男と、他八名。
毒物による自殺が確認されています。服の内側、歯の裏、爪の間……いずれも調べましたが、第三者による強制摂取の痕跡はありません。」
木村の傍にある白布がめくられる。
唇は紫がかり、表情は歪んだまま固まっている。
苦痛と、恐怖が混ざったような顔。
「主犯格であろう青髪の男は……」
彼の顔は綺麗だった。
苦痛に歪むこともなく、怒りを刻むこともない。
静かに、整っている。
けれど――
じっと見ていると、胸の奥がわずかに冷える。
その表情は、安らぎではなく、
どこか置き去りにしたものを見つめるような、ほんの少しだけ寂しそうな顔をしていた。
アズーロ・ディ・セレステ。
ロメオは、視線を逸らさなかった。
「……こちらが、射殺された男です。」
隣の遺体の、白布がめくられる。
額の中央が、正確に撃ち抜かれた痕。
血はすでに止まり、洗浄されているが、皮膚の色と、陥没がはっきりと“死因”を物語っていた。
ブルーノ・ディ・セレステ。
「死因は即死。苦痛はほとんどなかったと判断されています。」
木村の声は、感情を含まない。
ロメオは、静かに息を吐いた。
「……遺体は、どう扱われる?」
「藤堂紫月様への誘拐未遂という大罪を犯しています。正式な裁きの後、身元確認を経て――
遺体は、共同墓地に埋葬される予定です。」
「家族には?」
「連絡は入ります。ただし、引き取りの権利はありません。」
それが、この国の法だった。
ロメオは、わずかに目を伏せる。
「……妥当だね。」
それ以上、何も言わなかった。
「では、次はこの男たちの所持品を見ていただきます。こちらへ。」
冷暗所を出て、次に案内されたのは管理室だった。
簡素な机の上に、布が敷かれ、
その上にいくつかの品が整然と並べられている。
小型のナイフ。
銃。
替えの弾倉。
簡易食と、水筒。
どれも、使い込まれた痕跡のあるものだった。
ロメオは、一つ一つ、黙って目を通していく。
そして――
その中に、異質なものを見つけた。
小さな、白いロケットペンダント。
二つ。
同じ意匠。
同じ大きさ。
だが、状態がまるで違う。
片方は、蓋にヒビが入り、金具も歪んでいる。
布に包まれてはいるが、乱雑に扱われてきたのが一目で分かる。
もう片方は――
丁寧に磨かれていた。
小さな傷はあるものの、手入れの跡がはっきり残っている。
ロメオは、その二つから視線を離せなかった。
「……このペンダントは?」
「青髪の男と、射殺された男がそれぞれ所持していたものです。」
「そうか……」
ロメオは、綺麗な方を指さす。
「こっちを持っていたのは、どちらだい?」
「青髪の男です。」
「……中身を見せてもらえるか。」
「かしこまりました。」
木村は手袋をはめ、慎重にペンダントを手に取る。
カチリ、と小さな音。
中に収められていたのは――
白黒写真だった。
幼い青髪の美少年。
その隣で柔らかく微笑む、茶髪の美少年。
どちらも、まだ子どもらしい笑顔をしている。
「これは……」
ロメオの声が、わずかに低くなる。
「アズーロ君と……ブルーノさん、だね。」
「はい。壊れかけの方も調べましたが、同じ写真が入っていました。」
「……そうか。」
ロメオは、もう一方のペンダントに視線を移す。
「壊れかけの方は、どこにあったんだ?」
「射殺された男のカバンの隅です。……丁寧に扱われていた様子は、ありませんでした。」
「……」
ロメオは、何も言わなかった。
だが、視線だけが、写真から離れない。
やがて――
木村が、少しだけ声を落として言った。
「……ロメオ殿下。一つ、お見せしたいものがございます。」
ロメオは、ゆっくりと顔を上げる。
「……なんだい?」
木村は、机の端に置かれていた木箱の辺りを指した。
10箱ほどある。
箱は簡素な作りだったが、留め具だけがやけに頑丈だった。
「……こちらです。」
箱の前には一つの小瓶が。
木村が小瓶を持つと、中の粘り気のある褐色の液体が揺れた。
「この一本は、私が確保した男が所持していたものです。腰の内側に隠されていました。独特な粘り気と、甘い香りが特徴です。」
ロメオの視線が、瓶に吸い寄せられる。
「……それは」
木村は、少し困惑した表情を浮かべる。
「正直に申し上げますと、我々では正体が分かりませんでした。東では存在しない液体です。似たものはありますが……これは、違う。」
緑は一拍置いて、続けた。
「ロメオ殿下。これは……何の液体ですか?」
「……」
ロメオは、瓶から目を離さずに答えた。
「……察している通り、西にしかない“ 薬物”だよ。名前はネブラ。一部では“ 天国へ行ける薬”と言われている。」
空気が、わずかに張り詰める。
「西の大陸では、戦時中……鎮痛剤や精神安定剤として、広く使われていた。」
瓶を見つめるロメオの目は、どこか遠くを見ていた。
次に木村は、いくつもの木箱を指した。
「……こちらも、同じ男の所持品です。」
箱が開かれる。
中には、同じ形の小瓶が、整然と並んでいた。
一本、二本ではない。
数十本――いや、箱を重ねれば、さらにある。
「……!!なんだ、この量は……!!」
ロメオが、声を大きくした。
「ネブラは副作用が強い……戦後は回収されたはずだ!!なのに…何故これだけの量が………!!」
ロメオの反応に、木村も目を見張る。
「回収されたはずの薬物……少量を隠し持つ者がいても不思議ではありませんが……確かに、この量は…」
「あぁ、ありえない。」
ロメオは、即座に言い切った。
「ネブラは、戦後に国家管理下で回収された。在庫は全て記録され、処分されていたはずだ。元となる植物の培養所だって潰した……なのに……!!」
小瓶を一本、手に取る。
「それに変だ……ブルーノさんのあの行動……こんなにネブラがあるのに、あれはしばらく接種できない時に出る禁断症状だった……ネブラとは違う薬物なのか……?」
ロメオは眉間をキツく抑えた。
「……」
木村が木箱いっぱいのネブラをジッと見る。
「このネブラにはどんな副作用が?」
「……ネブラの接種を辞めれば、禁断症状で精神が不安定になる。些細なことで怒りやすくなり、世界の全てが敵に思えてしまう。」
「ネブラの使用を続ければ……?」
ロメオはゆっくりため息をつく。
そして、ゆっくり口を開いた。
「使用を続ければ……自身の体に火をつけて、焼身自殺をはかってしまう。それも笑いながら。」
「や、焼かれているのに笑っているのですか……」
「……僕も不気味に思うよ。なんでも、ネブラを使用すると星の大群が見えることがあるらしい。その星たちと一つになるために体に火をつけるそうだよ。」
「星と一つに……?」
木村が怯えたような目でネブラを見る。
「痛みや辛さを感じる時にネブラを使えば……どちらも忘れられる。体が軽く感じる。そんな時に見えた星は、彼らには天国に見えるらしい。」
ロメオはネブラの瓶を机に戻した。
カツン、と乾いた音がやけに大きく響く。
「……これは表に出してはいけない。全て処分だ。それと……紫十郎さんに報告を。」
木村が背筋を正す。
「かしこまりました。責任もって処分した後、報告に参ります。」
「ありがとう。……そうだ、今から桐生君と話はできるかい?」
「はい、あちらの聴取はもう終わっている頃かと思います。」
木村は一礼する。
「お呼びしてまいりますので、ここで少しお待ちいただけますか?」
「分かった。」
木村は速やかに退室した。
一人、部屋に残ったロメオはーー
堪えるように、大きくため息を吐いた。
「……しばらくは眠れそうにないな。」
誰に聞かせるでもない、独り言。
「僕も、紫十郎さんも、紫月さんも……」
その名を口にした瞬間、
胸の奥に、ずしりとした重さが戻ってくる。
ロメオは、机の上に残された空間を見つめたまま、
しばらく動けずにいた。
ーーーーーー
「ありがとうございました。」
「こちらこそ、ご協力感謝いたします。どうかお気をつけて。」
軍服の男は敬礼をすると、すぐに来た道へと馬車で引き返して行った。
その背を見送ってから、セリナは手に持っていた荷物を地面に置く。
ぐっと背伸びをして、馬車で固まった体をほぐした。
「ウーン……ようやく体が伸ばせた。」
パキパキ、と小さな音が鳴る。
軽く首を回しながら、周囲を見渡す。
「えーっと……どこらへん……あ、いた。」
少し離れた場所に、見慣れた三人の姿があった。
「リコー、ミキー、ユキミー!」
名前を呼びながら、荷物を抱えて駆け寄る。
振り返った三人は、セリナと同じようにワンピース姿だった。
――けれど。
「……あ、セリナ。」
リコが、ほんの一瞬だけ動きを止める。
ミキは、言葉を探すように口を開きかけて閉じた。
ユキミも、視線をさっと逸らしてから、そっと戻してくる。
誰も、すぐに駆け寄ってこない。
(……あー。)
セリナは、すぐに察した。
普通に話しかけていいのか。
いつも通りでいいのか。
それが、分からない顔だ。
セリナは立ち止まり、苦笑する。
「……ねぇ。」
三人の視線が、恐る恐る集まる。
「もう大丈夫だから、いつも通りで。そんなに気を使わなくていいから。」
にっと、いつものように笑う。
すると、三人の表情がゆるんだ。
「……良かったぁ。」
リコが、肩の力を抜く。
「それなら最初からそう言ってよ。」
「心配してたんだよぉ。」
ミキが、小さく息を吐く。
ユキミも、ほっとしたように微笑んだ。
「……うん、よかった。」
その空気を見て、セリナも少し安心する。
すると、リコがふと、セリナの腕の中に目を留めた。
「……っていうかさ。」
紙袋から、溢れそうなほどの包み。
「その大量の飴はなに? まさか……それ全部、紫水君にあげるつもりだったの?」
セリナは、腕の中の紙袋に視線を落とす。
「うん。さっき返してもらえた。」
当たり前みたいに言う。
「次、紫水君に会ったら……この倍あげようかなーって。」
「多っ……!」
リコが、思わず声を上げる。
「虫歯になりそう……」
ミキが、引き気味に呟いた。
「もー、細かいことはいいの。」
セリナは、ひらひらと手を振る。
「それより……」
視線を、ユキミへ向ける。
「ユキミ、その紙袋は何が入ってるの?」
「え?」
ユキミは一瞬きょとんとした後、手元の袋を見る。
「あぁ……これね。」
少しだけ、言いづらそうに視線を落としてから続けた。
「実は……あたしら……オルゴール館に行ってさ。」
袋から取り出したのは、まるでスノードームのような、綺麗なオルゴール。
「えぇ!?私を置いてオルゴール館に行ったの!?ズルい!!」
「ご、ごめん。」
セリナの反応に、ユキミは苦笑する。
「おー。」
ミキが、間の抜けた声を出す。
「良かったー。いつも通りうるさい。」
「だってさー」
リコが、悪びれもせず肩を揺らす。
「ウチら、やることなかったんだもん。紫水君に“うっとおしい”って怒られちゃったし。」
「それはリコちゃんが悪いでしょ。」
ユキミが、即座にツッコむ。
「ずっと抱きつこうとするからじゃん。そのせいで、早めに栄に移動する羽目になったし。」
「あー……なるほどね。」
セリナは、納得したように頷いた。
三人の視線が、自然とリコに集まる。
「……な、なに?」
「「「別にー?」」」
ジトッとした目。
「……ま、いいじゃん!」
耐えきれず、リコが開き直る。
「オルゴール、タダで貰えたし!」
「え、タダ?」
セリナが目を丸くすると、ユキミが説明を始めた。
「うん。ほら……あたしらが書いた譜面、あったでしょ?」
「あぁ……!」
「それをさ、青木さんが見てめちゃくちゃ感動したらしくて。」
ミキが、急に咳払いをする。
「ヴッヴン!!……『あなた方は天才です!! 私に新たな曲に出会わせてくれて、ありがとうございます!!』……だって。」
「似てる似てる。すごい熱量だったよね。」
「うん、ちょっと引いたー。」
ミキとユキミが頷き合う。
「そのお礼ってことで、これ貰ったの。」
リコが、オルゴールを指差す。
「ウチらが作った曲じゃないのにね!オルゴール、四つも貰っちゃった〜。」
三人は顔を見合わせて、
「「「あはは」」」
と声を揃えて笑った。
ちゃっかりしている。
けれど――
その笑顔を見て、セリナは胸の奥が、少しだけ温かくなるのを感じた。
(……やっぱ、みんなといると楽しいな。)
「んじゃ、セリナも来たし帰りますか。」
リコがパンッと手を叩く。
「ミキ、時間は?」
「えーっと……」
ミキが時計を確認する。
「ちょうど11時。もう帰れるよ。」
四人は顔を見合せ、自然と頷き合った。
「なんか……すごく長い時間いたような気がするね。」
ユキミが、ぽつりと呟く。
「帰ったら……いるかな、佐々木さん。」
「「「……」」」
ユキミの言葉に、三人は考え込んだ。
「まあ……」
最初に声を上げたのはセリナだった。
「帰れば分かることだよ。行こうか。」
「「「うん。」」」
四人は、初めて異世界に来た時と同じドアの前に移動する。
「じゃあ、開けるよ。」
リコの声に続いて、四人は合言葉を唱えた。
「「「「lunch」」」」
ーーーーーー
扉を開けると、店内に男性の姿が一つ。
「やぁ、おかえり。」
カウンター席で、佐々木さんが穏やかに笑っていた。
「ただいまです。」
セリナも、自然と頭を下げた。
「……あれ?」
ミキが店内を見回す。
「佐々木さん、どこから入ってきたんですか?」
「鍵、ちゃんとかけてましたよね……?」
ユキミも首を傾げる。
「そこは気にしないで欲しいな。」
佐々木さんは肩をすくめて、ジッと二人を見た。
「「……」」
「「……分かりました!」」
ミキとユキミは、揃って頷いた。
「さて……」
佐々木さんの視線が、セリナへ向く。
「セリナちゃん。」
優しい声。
「顔が暗いね。何があったのかな。」
セリナは、一瞬だけ言葉を探してから、正直に答えた。
「……色々、あったんです。だから……私に起こったことと……これからのことについて話させてください。」
佐々木さんは、表情を変えずに頷く。
「じゃあ、じっくり聞かせてもらおう。」
そう言って席を立つと、カウンターの内側へ回り、
「ほら、みんな。座って。」
四人をカウンター席へと促した。
言われるまま、四人は横一列に腰を下ろす。
いつもの席。
いつもの店。
けれど、これから話すことは、いつもとは違う。
セリナは、小さく息を吸った。
「まずは……私とリコが、ユキミとミキと別れた後から話します。」
店内が、静かになる。
佐々木さんは、何も言わず、ただ聞く準備を整えていた。
ーーーーーー
セリナは、自分が誘拐された事件から、その後の顛末までを一通り話した。
細かい部分は省き、起きたことだけを順に。
話し終えると、少しだけ肩の力が抜けた。
「……詳しいところは省略しましたけど。」
セリナは、視線を落としたまま言う。
「大体の流れは、ここまでです。」
佐々木さんは、しばらく黙り込んだ。
「……」
カウンターの向こうで、指を組み、静かに考え込んでいる。
けれど、ほどなくして顔を上げた。
「そうか……」
柔らかい声。
「大変だったね。怖い思いを、たくさんしただろう。」
セリナは、力なく笑った。
「……はい。」
「それと……」
佐々木さんは、話題を切り替えるように続ける。
「これからのこと、だよね。」
その言葉に、ユキミが小さく頷いた。
「正直……もう、怖いです。」
ぽつりと、こぼす。
「最初は楽しかったけど……セリナは誘拐されて、危ない目に遭ったし……人も死んでるし……」
言葉が、途中で弱くなる。
ミキも、同じように俯いたまま口を開いた。
「ミキも、そう思います。異世界を救うって……もっと、違うものだと思ってました。」
二人の表情は、重く沈んでいた。
佐々木さんはその様子を見つめてから、静かに問いかけた。
「リコちゃんは、どう思ってる?」
リコは、少し考えるように視線を泳がせた。
「ウチは……」
間を置いてから、正直に言う。
「確かに危ないとは思うけど……最後までやり遂げたいかな。紫水君、まだ全然懐いてくれてないし。」
その言葉に、少しだけ笑いが混じる。
佐々木さんは、最後にセリナを見る。
「セリナちゃんは?」
少しは迷うかと思っていた。
けれど、返事は意外なほど早かった。
「私は……」
セリナは、顔を上げる。
「みんなを、助けたいです。」
「……そっか。」
佐々木さんは、一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な顔になる。
「……なら。」
少し間を置いて、言った。
「君たちに、見せたいものがある。」
「見せたいもの……ですか?」
ユキミの問いに佐々木さんは頷き、続ける。
「紫月やロメオ、そして墨男君たちが……どんな世界で生きているのかを見てもらう。」
「見る……?」
セリナが問い返した、その瞬間。
視界が、ぐらりと歪んだ。
床が消え、壁が溶け、空間そのものがねじれる。
「「「「……っ!」」」」
四人の足元が不安定になり、世界がぐるぐると回転する。
内臓が置いていかれるような、気持ちの悪い感覚。
耐えきれず、四人は同時に目を閉じた。
――どれくらい経ったのか。
ふっと、その感覚が消える。
恐る恐る、目を開けると……
「……え……?」
五人の子どもが目の前に現れた。
やせ細った体。
骨ばった腕と足。
服はどれも破れていて、色も分からないほど汚れている。
その背後には、家とも呼べないような崩れかけの小屋。
ひび割れた地面には、草すらほとんど生えていなかった。
子どもは五人。
けれど――
動いているのは、三人だけだった。
一人は、地面に伏せた誰かを抱きしめ、声も出せずに泣いている。
一人は、感情の抜け落ちた目で、ただ空を見上げている。
もう一人は、お腹を押さえ、「おなかすいた」と弱々しく泣いていた。
「……っ」
リコが、一歩踏み出しかける。
「なにか……食べ物……」
続いて三人も、周囲を見回す。
だが――
「無理だよ。」
佐々木さんの声が、はっきりと止めた。
「この子たちには、触れられない。」
四人が振り返る。
「これは、鑑賞用の映像だから。」
淡々とした声。
「どれだけ目の前にいても、声をかけても、助けることはできない。」
「……これが……映像……?」
リコが、信じられないように呟く。
佐々木さんは、静かに頷いた。
「とはいえ。」
一拍置いて、続ける。
「紫月の世界に、実際に存在する子どもたちだ。」
四人は、再び子どもたちを見る。
泣き声も、土の匂いも、風の冷たさも、あまりにも現実的だった。
「……可哀想、って思うよね。」
佐々木さんが、残酷なほど冷静に言う。
「でも、この子たちが特別に貧しいわけじゃない。むしろ……」
視線を、荒れた土地全体へ向ける。
「この世界では、ほとんどがこうだ。」
言葉が、胸に重く落ちる。
「……でも……」
ミキが、かすれた声で言った。
「今まで見た街は……全部、綺麗で……」
「それは、一部の栄えた街だけだよ。」
即座に返される。
「高貴な身分の紫月やロメオ君が……わざわざ、友人をこんな場所に案内すると思うかい?」
四人は、何も言えなくなった。
視線を落とす者も、子どもから目を逸らせない者もいる。
「……次に見せるのはね。」
佐々木さんの声が、さらに低くなる。
「墨男君たち――“黒”が、どんな扱いを受けているかだ。」
再び、視界が回転する。
――次に見えたのは、街の一角だった。
地面に押し倒された、十二歳ほどの少年。
その上に、三十代ほどの男が馬乗りになっている。
「人の金を盗るなんざ……!!」
男の怒声が響く。
「黒はほんっとに、どうしようもねぇな!!」
周囲には、数人の人間が立ち止まっていた。
だが誰も止めない。
むしろ、ひそひそと囁き合っている。
「やっぱり黒よ。」
「堕とされるのも当然だわ。」
「本当に下劣ね。」
少年は、震える声で繰り返す。
「すいません……すいません……」
拳が振り下ろされるたび、少年の視界が弾ける。
音だけが、鈍く響く。
少年の顔は赤紫色に腫れ上がり、もはや原形が分からない。
まるで、熟れすぎた葡萄のようだった。
「お前みたいな黒を産んだ母親も、とんだ大罪人だな!おかげでお前みたいな泥棒が生まれた!!グズを産むやつはグズに決まってる!!」
「……」
少年の頬を、一筋の涙が伝った。
男はそれを見て嗤う。
「黒なんかに泣く資格があると思うなよ。お前みたいなグズ、生きてるだけでこっちは迷惑なんだよ。」
少年の唇が、かすかに震えた。
「……うる、せぇ。」
男の動きがピタリと止まる。
「母さんが……病気なんだよ……金が……いるんだ……」
少年は、必死に言葉を繋ぐ。
「だから何だ?」
男は鼻で嗤う。
「てめぇみたいな泥棒産んだ女、死んで当然だろ。」
その瞬間。
少年の中で、何かが切れた。
「ふざけんなぁぁあああ!!」
少年は力の限り拳を振るった。
男の胸ぐらを掴み、叫ぶ。
「俺と母さんが何をしたってんだ!!クソ親父のせいで、なぜ俺たちがこんな目に会わなきゃいけないんだ!?俺たちは何もしていない!!なのに、仕事も貰えない!食べるものすらままならない!!地面を這い蹲るしかない!!妹は餓死した!!母さんは病気になった!!俺は……俺は……!!」
周囲が息を呑む。
しかし、
「知らねぇよ!!」
男の目には怒りだけが宿っていた。
「知らねぇよ!!離せ!!このグズが!!死ね!!死ね!!」
男は少年の手を振り払い、再び拳を振り下ろす。
十二歳の少年が殴られていても、誰一人、止める者はいない。
「死ね……死ね……みんな死んじまえ……」
少年は恨みの言葉を吐き続けた。
その言葉が、余計に男を怒らせる。
「死ね!!死ね!!死ね!!」
「……!!……ガガ……ブ……」
やがて、少年はビクビクと痙攣を始めた。
打ちどころが悪かったのだろう。
白目を剥き、首がぐったりと横をむく。
「……チッ。」
男は立ち上がると、地面に唾を吐き捨てて去っていった。
「あら……死んでしまったわ。」
「可哀想に……まだ子どもなのに。」
一瞬だけそんな声が上がるものの、
「でも黒よ?」
「関わらない方がいいわ。」
「そうね、行きましょうか。」
人々は、何事もなかったかのように散っていった。
そこに残ったのは――
動かない少年の身体と、死骸を狙うずる賢いカラス。
「これが、黒の人生だよ。誰も助けてくれない。家族は死んでいく。何も手に入らない。失うだけ。」
佐々木さんの声が、静かに響く。
「墨男君も……同じような目に遭ってきたはずだ。」
ユキミが、口元を押さえる。
リコが、その背中をそっと撫でた。
「どうして……誰も……」
ユキミの声は震えていた。
「理由なんて一つだよ。」
佐々木さんは、感情を乗せずに言う。
「黒だから。」
セリナは、唇を噛みしめる。
「もし……墨男さんが、紫月さんを連れ出していたら……」
「いい未来は迎えられないだろうね。」
即答されてしまった。
「あんな子どもですら、殴り殺されるんだから。」
その言葉が重く、四人の胸に突き刺さった。
「次で最後だよ。」
「……!そんな、まだ見なきゃいけ——」
ユキミの言葉は、最後まで届かなかった。
拒絶も虚しく、再び視界がうねる。
「次は、紫月やロメオ君たちが見てきた世界だ。若い身でありながら、戦争に赴いた彼らの苦悩。君たちは知らなきゃいけない。」
世界が裏返るような、そんな感覚に目を瞑る四人。
閉じた瞬間――
鼻を突く、強烈な匂いがした。
鉄と油と、薬品。
そして、はっきりと分かる血の匂い。
「……っ」
ミキが、小さく息を詰める。
目を開けると、そこは広い建物の中だった。
石と金属で作られた、無機質な空間。
床には担架。
壁際にも担架。
歩く隙間がないほど、血を流す人間で埋め尽くされている。
「う……ぁ……」
「痛い……痛い……」
「水……誰か……」
呻き声が、あちこちから漏れる。
包帯は血を吸って黒ずみ、
抑えきれない出血が床に滴っている。
脚を失った兵士。
腹部を貫かれ、内臓を押さえている兵士。
目を潰され、声だけで助けを求める兵士。
鼻と目が焼け焦げ、元の顔が分からない兵士。
まだ若い顔も多い。
十代後半ほどの者も、珍しくなかった。
「死に……たくない……死…にたく……ない……」
震える声が聞こえる。
上へ手を伸ばそうとする、若い男。
だが、その腕は肘から先が、存在していなかった。
「……ぅぷ」
ユキミ、口元を押さえる。
吐き気をこらえているのは、彼女だけではない。
「おえっ……」
「…うっ……」
「……っ……う…ぇ」
ミキ、リコ、セリナも同じだった。
「彼らは負傷兵だ。怪我は東統戦争で負ったものだよ。」
唯一、佐々木さんは動じていなかった。
これだけ残酷なものが広がっていても、なぜか平然としている。
「紫月やロメオ君は、こんな場面を何度も見てきた。こうなる仲間を増やさないために、多くの敵を葬ってきたんだ。優しい二人にとってそれは……辛いなんてものじゃなかったはずだよ。」
佐々木さんが、指を鳴らした。
パチン、という乾いた音。
その音と共に、女の子の鳴き声が聞こえてきた。
「墨男……墨男……どうして……私は……」
次は、あの酔うような感覚はなかった。
視界は揺れず、ゆっくりと、幕が上がるように開いていく。
「私は……あなたが………………墨男……」
そこにいたのは、すすり泣く紫月だった。
力なく項垂れている彼女は、今にも細い枝のように手折れてしまいそうだ。
「紫月……」
佐々木さんは彼女を見つめ、わずかに顔を曇らせる。
「……紫月は、苦しい場所からようやく帰ってこられた。ようやく墨男君と穏やかに暮らせると思った。なのに、ロメオ君との婚約が決まって……墨男君には約束を忘れ去られていた。本当に……可哀想な子だよ。」
パチン
景色が切り替わる。
薄暗い部屋。
そこには、体を崩し、声を殺して泣く紫月と――
扉の外で、唇を強く噛みしめたまま立ち尽くす墨男の姿があった。
「申し訳ございません……姫様……」
扉一枚を隔てて、二人は背中合わせにいる。
けれど、決して触れ合うことはない。
「墨男君は理不尽から救われ……紫月に忠誠を誓い、恋をした。だけど、決して叶うことのない恋だと分かっていたから、紫月に約束を忘れたと嘘をついた。彼は黒でさえなければ、彼女の手をとって一緒に逃げていただろう。……彼の馬鹿な行いは、許せないけどね。」
パチン
次に映ったのは、窓辺に立つロメオだった。
「………………」
外を見つめる背中は、ひどく静かで、ひどく寂しそうだ。
柔らかな表情の奥に、深い影を落としている。
「ロメオ君は紫月と同じような境遇だった。それでも紫月に歩み寄ろうとした。けれど、紫月は心を開いてはくれず、ロメオ君の想いは伝わらない。表面では穏やかだけど、内心は自分を役たたずだと責めているだろう。」
パチン
次に映ったのは、紫十郎の部屋だった。
「すまない……すまない……!!」
壁に向かって、拳を叩きつける男。
その口からこぼれるのは、誰かへの謝罪の言葉ばかりだった。
「紫十郎さんも辛い立場だ。ずっと戦地に赴き続け、家に帰る余裕もない。国民に寄り添う余裕もない。まだ子どもの娘を戦争へ参加させた挙句、好きでもない男と結婚させねばならない。誰よりも娘や息子を愛しているのに、誰よりも追い込んでしまっている事実に苦しんでいる。」
パチン
最後に映ったのは、暗い部屋のベッド。
「父上……母上……」
布団をかぶり、一人で泣く紫水の姿があった。
声は出さず、ただ肩を震わせている。
「紫水君は物心ついた時には母親がいない。父親は戦争でなかなか帰ってこず、姉とも仲がいいとは言い難い。心を許しているロメオ君も、ずっと傍にいてくれるわけではない。彼が賢いが故に、ロメオ君以外は誰も紫水君が寂しがっていることに気づいていない。」
パチン
視界が揺れ、四人は元のいたストロベリーローズへと戻ってきた。
「「「「……」」」」
誰も、言葉を発せない。
それでも構わず、佐々木さんは語り続けた。
「みんな、それぞれに苦悩を抱えている。この平和な世界に生きる君たちには、想像もできないほどのね。」
佐々木さんは、一人一人と順に目を合わせる。
「察しているか分からないけど、この第一の世界で君たちがやるべきことは、紫月の心を救うことだ。第一の世界は危険度は一番低いけれど……君たちの覚悟が一番必要とされる。」
そして、問いかける。
「ここで恐れを抱いているようでは、ここから先には進めない。だから教えて欲しい……」
「教える……?」
リコの呟きに佐々木さんは強く頷いた。
「紫月たちを救い、幸せにする覚悟が……綺麗事ではない、本当の“ 覚悟”が君たちにできるかどうか。それを、私に教えてくれ。」




