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第9話 りん、再び

今回から第3章「2番目の人」に入ります。


【前回のお話】

りんに一目惚れして舞い上がっている勇次とは対照的に、りんは両親から勇次の正体を聞かされショックを受けていた。

 幇間(ほうかん)のひょっとこ踊りに合わせ、芸者が三味線を奏でる。目隠しをした客が一緒に踊る芸者の尻を追いかけるさまを見て一同が大笑いする中、一人若い男だけがもじもじと下を向いていた。


「さ、徳隆、次はお前の番だぞ」


 (むら)(さき)()の太客・綿貫淑之(よしゆき)が目隠しを外して促す。


「おとっつぁん、私は……いいです……」


 徳隆と呼ばれた若者は耳まで真っ赤に染め、眼を泳がせた。傍で親子のやり取りを聞いていた盲目の花魁孔雀が、そっと勇次の膝に手を置く。それを合図に勇次が芸者から三味線を借り受けた。


 チン、トン、シャン……と(つま)()かれた勇次の三味線に合わせ、孔雀が歌い始める。引手茶屋の2階から麗しい歌声が流れると同時に、皆が溜め息を漏らし、手を止め聴き惚れた。


 それはまるで印度の黒ホトトギス倶尸(くし)()のごとく、得も言われぬ美声。それに惹き寄せられるように徳隆が顔を上げた。


 瞳に映る姿は、幼き頃に記紀(きき)で読み聞かされた衣通(そとおり)(ひめ)()(まご)うほど。光り輝くばかりの美しさが、幾重にも重ねられた絢爛な衣装から透けている。


 ひとしきり孔雀が歌い終えると、勇次は三味線を置き、孔雀に提下(ひさげ)を持たせた。


「山下屋さんの御曹司、さ、どうぞ」


 勇次がにこやかに盃を差し出す。孔雀に見惚れていた徳隆は、はっと我に返った。


「私は……酒が苦手で……」


夫婦(めおと)の契りです。形だけでも、さ、さ」


 勇次はさらに勧める。孔雀は気に入らない相手には一瞥もくれない。歌を歌うなどもってのほか、顔すら向けてはくれないのだ。


 吉原の花魁も、島原の太夫も、3回通ってようやく口をきいてもらえる——というのは昔話。時代が下って近頃では、一度で夜の相手をしてもらえるようになったらしい。


 だが、孔雀は違う。お殿様だろうがお大尽だろうが、いまだ気に入らない客は気にも留めない。何回通おうが(しとね)を共にしてくれることはないのだ。


 つまり、歌を聴かせてくれたということは、気に入ったということ。盃を酌み交わす儀式は、遊女が客と交わす一夜限りの夫婦の誓い。


 躊躇(ためら)う息子に業を煮やし、父淑之がその尻を叩く。


「もう二十歳にもなるというのに不調法者で申し訳ない」


 目で詫びながら、無理矢理息子の手に盃を持たせる。


 くそがつくほど真面目で奥手の徳隆は未だ女を知らない。来年には婚儀を控えているため、初夜で恥をさらさないようにと孔雀に筆下ろしを頼んだのだ。


 父親に睨まれ観念した徳隆は盃を手にした。孔雀に酒を注がれたことで覚悟を決めたのか、一気に飲み干す。おおっ、と周りから拍手が沸いた。


 勇次も安堵の息を漏らした。これで心置きなく帰れる。


 彼は引手茶屋の手代を呼び、一人分の(かご)を手配するよう申し付けた。やがて籠が大門に到着したことを告げられると、邑咲屋へ戻るための道中が始まった。


 淑之は禿の(はる)()に手を引かれ、得意げに孔雀と勇次の前を歩いてゆく。


「こら、下ばかり向いてないで堂々とせんか」


 父にたしなめられ、斜め後ろを歩いていた徳隆は少しばかりあごを上げた。


 花魁とその他遊女、若い衆を引き連れて妓楼へ戻る道中は、客にとって誉れ以外のなにものでもない。これは花魁に認められたことを誇示する道中——遊郭では最高の名誉なのだ。それが証拠に道行くほかの客らが羨望の眼差しで見つめている。


「山下屋さんの御曹司、わっちが手をつないであげる」


 胡蝶が徳隆の手をぎゅっと握り、振り向いた。勇次をチラ見すると、すぐにツンっと鼻を上げて前を向く。妬かせようとしていることはすぐにわかった。


 この娘はきっと数多の男を虜にする売れっ子遊女になる、と直感し、末頼もしいことだとほくそ笑む。


 大門の前まで来ると淑之は息子を道中に残し、籠に乗った。淑之を乗せた籠は大門を出るや、ふっ……と消えた。徳隆は狐に化かされたような顔で呆気に取られている。結界の中と外、異世界と現実世界の区別がまだついていないようだ。


 消えた籠の残像を不安げに見つめる徳隆に、勇次が声をかける。


「御曹司、なにもご心配いりません。お(あと)は手前共にお任せくださいませ」


 勇次の涼やかな微笑に、徳隆は少し落ち着きの色を見せた。父を見送った彼を連れ、一行は邑咲屋へと舞い戻る。


 邑咲屋に無事帰り着くと、妓楼主の伊左衛門はすでに起きていた。花車お亮と共に暖簾を上げて出迎える。


「山下屋さんの御曹司、ようこそおいでくだしゃんした」


 外面だけは良い仮面夫婦が、(そろ)って(うやうや)しく頭を下げる。山下屋は先々代からの太客だ。次代を担う徳隆も引き続き太客になってくれれば邑咲屋は安泰である。


 何しろ山下屋は、狭山入間川村の豪商だ。当主は15代目の綿貫淑之。惣領の徳隆は律義者と評判だった。


 綿貫家は、西の鴻池、東の綿貫と称されるほどの大富豪であり、幕府の家老や旗本にも大金を貸していた。札差以外にも様々な商売を営んでいて、その財力は凄まじく、東京神田支店へは他人の土地を踏まずに行けるとも、台所の皿を並べたら家の門から所沢村まで辿り着くとも言われるほどであった。


「勇次、でかしたぞ」


 伊左衛門は気分上々といった表情で勇次の背中をポンポンと叩き、内証へと戻っていった。勇次は姉お亮と顔を見合わせ安堵の笑みを交わす。


「お役目ご苦労様。うちの人が酒を奢ってくれるってさ。ご相伴にあずかってきな」


 その言葉を聞いた途端、勇次の顔がみるみる曇った。お亮が拝むように手を合わせる。せっかく機嫌が良いというのに、つまらぬことで機嫌を損ねたくはない。勇次もそれがわかっているから、天を仰ぎながらも渋々従う。


「ああ、そういえば、話ってなんだい?」


 不機嫌そうに内証に向かう弟をお亮が呼び止めた。ああ、そうだった、と思い出したように勇次が振り返り、


「竜弥のことだけど」


 と、石原宿の帰り道で雪之丞から聞かされた竜弥の消息を伝える。


 姉は、そうかい、と深い溜め息を吐き出したきり、それ以上何も言うことはなく揚台(あげだい)に向かった。彼女も何か思うところはあるのだろうが、自分と同じく忘れかけていた余計なことは思い出したくないのだろう。


 色々考え出すと切りがないし、気も重くなる。酒でも飲んだ方が楽かもな、と気を取り直し、妓楼主の相手をするべく内証へ向かった。ああ、気が重い。






 翌朝のこと。


 川越大師喜多院慈恵堂で僧たちが(きん)(ぎょう)に励む一方、五百羅漢像の陰に隠れてこっそり酒を(あお)る生臭坊主が一人——。


 と、もう一人、片手に鍋を持った小柄な娘が境内をキョロキョロしながらうろついている。つぎはぎだらけの着物に雑な結髪。身なりはかなり粗末だ。


 生臭坊主、もとい(みょう)(かい)は挙動不審の娘に気づき、近づいた。


「こりゃこりゃ、女子(おなご)が一人で朝っぱらから参拝か?」


 参詣なら慈恵堂へ真っ直ぐ向かうはず。喜多院はご天領、見通しの良い広い境内は迷いようがない。見るからに様子がおかしい。


「あっ、()(しょう)様。ごめんなさい。迷っちまって……」


 振り返った娘は慌てて頭を下げた。


「ここは天台宗じゃからな、わしは“おしょう”ではなくて“かしょう”じゃ。ま、どっちでもいいがな」


 酔って赤くなった鼻を擦り擦り、にっと笑うと、妙海は五色幕の垂れた慈恵堂を指差した。


「お大師さまを拝むならあそこじゃ」


 が、指差された堂を見向きもせず、娘は(かぶり)を振る。


「違うべ。おら、人、探してるだに」


「人? この小仙波の者か?」


 娘は躊躇いがちに答えた。


「……(あか)()


 妙海が眉を(ひそ)める。


「なるほど、身売りか」


 娘が即座に「違う違う」と否定するも、妙海は聞いていないかのように続けた。


「やめろやめろ。事情は知らぬが、あんな腐れ外道の吹き溜まりにいたら年季を迎える前におっ()んじまうぞ」


 そもそも僧侶には淫戒いんかいがあるから女を買う遊郭とは無縁だ、案内はしてやれぬ、とまくし立てる。


「だから、違うってばよ。おら、勇次さんて人、探してるだけだべ」


「勇次?」


 娘を追い返そうとした妙海は、その名を聞いてピタリと動きを止めた。娘は1枚の手拭いを(ふところ)から取り出し、記されている名を見せた。紫紺の藤柄は明らかに邑咲屋のものだ。手拭いを凝視し、妙海が(いぶか)る。


「おまえさん、どこから来なすった? 名は?」


小久保(おくぼ)村……りん……」


 妙海は青くなった頭を撫で、酒臭い溜め息を吐き出した。


 あの男はまったく、あっちこっちの女に手を出しまくって、挙句に城下町の反対側まで足を延ばしてこんな若い小娘を(たぶら)かすなどどうしようもないクズだ……とブツブツ呟く。


「悪いことは言わぬ。あの男だけはやめておけ。あとで泣きを見るぞ」


 今まで何人の女が泣かされたことか、とまたも独り()つ。


 りんは、昨夜、お志摩に言われた言葉を思い出した。


「傾城屋……だから?」


「なんじゃ、知っておるではないか」


 やっぱりそうだったのか……と肩を落とす。


 お志摩の言葉がどうしても信じられなかった。だからそれを確かめたくて、否定したくて、朝早くから直し屋へ割れた湯吞み茶碗を持っていき、その足で手拭いを返しに来たのだ。だが——。


 憮然とするりんを見て、妙海は早々に帰るように促した。


「朱座はおまえさんのようなかたぎの娘が行くところではない」


 一歩足を踏み入れたら切見世の連中につかまって女郎にされてしまう、そうしたら死ぬまで働かされ、すべてを搾り取られ、最後はぼろ雑巾のように捨てられる、と脅す。


 りんはぶるると震えあがった。


「勇次さんのお見世もそうなん?」


「あそこは中見世だから女衒(ぜげん)から女を買う。かどわかすようなことはせん。しっかり筋を通す奴らじゃ」


 それを聞いてほんの少しだけホッとしたが、それでも女を売る商売には変わりがない。勇次が傾城屋であるという事実をあらためて突きつけられ、りんは暗い瞳を玉砂利に落とした。


 その視界に、もう一つの大きな影が入る。


「よお、おしょう、また酒飲んでお勤めさぼってやがるのか? 天海さまが泣くぞ」


 顔を上げると、無精髭を蓄えたいかつい男が立っていた。


 「かしょうじゃ」と妙海が睨みつけると、男は「どっちでもいいじゃねぇか」と笑った。その顔を見て妙海がひらめく。


「そうじゃ、半十郎、ちょうど良かった」


 通りがかった男は女衒の半十郎。彼は、うん?と妙海に顔を傾けた。


「この娘が勇次に用があるんじゃと。邑咲屋まで連れてってやれ」


 半十郎が一緒ならかどわかされる心配はあるまい。妙海が告げると半十郎は、はぁ?と呆れ顔でりんを見た。


 近年稀に見る上玉だ。さては別れ話がもつれて乗り込んできたか、と溜め息交じりで妙海に視線を戻す。いやいやと妙海は首を横に振った。そうではないのかと驚きの眼を開き、半十郎は再びりんに目を遣る。


「おめぇさん、勇次に何の用だ?」


「手拭いを返しに来たべ。あ、それと、助けてもらったお礼も」


 りんは手に持っていた鍋を掲げてみせた。中身は里芋の煮っ転がしだと教えたあと、こんなことぐらいしかできないが……と長いまつ毛を伏せる。


 それを聞いて突如、妙海と半十郎は境内に響き渡る声でゲラゲラと笑い出した。


「あいつが人助けなんて雪でも降るんじゃねぇか?」


 下心満載に決まってる、とひそひそ耳打ちしながら、おてんとさまの下できょとんとするりんを半十郎がちらと見る。


「ま、しゃあねぇな。こんな可愛い()に頼まれちゃ断れねぇや。よし、案内してやる、ついてきな」


 半十郎はりんに手招きすると、朱座へと足を向けた。

次回は第10話「結界の中」です。

勇次とりんが再会します。


【用語解説】

幇間ほうかん:お座敷遊びの盛り上げ役。

筆下ろし:男の初体験。

札差ふださし:江戸時代の米の仲介業。旗本・御家人の代わりに蔵米の受け取りや販売を行う。その手数料で巨万の富を築いた。

内証:妓楼の家族が居住する部屋。

揚台あげだい:店のカウンター。妓楼主夫婦が座る。

淫戒いんかい:僧侶が女性と交渉を持ってはいけないという戒律。

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