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第8話 華やかな世界の反対側

【前回のお話】

 竜弥の消息を聞かされた勇次。

 もやもやした思いを抱えながら妓楼へ戻った彼は、花魁道中の準備に追われる。

 花魁孔雀がお甲とお亀に支えられ、2階から降りてきた。


 妓楼の玄関は吹き抜けだから、会話は2階に丸聞こえだ。


「このおちゃっぴぃが、油売ってないでさっさと列に並びな」


 遣り手婆のお亀がきつく睨む。胡蝶は不貞腐(ふてくさ)れた顔で返事もせず、ぽっくりを履いて暖簾の外へと出ていった。勇次も雪駄に足を入れ、土間で孔雀を待つ。


「勇さん、今宵もよろしくね」


「あいよ。こっちこそ頼んだぜ、孔雀」


 勇次は孔雀の手を取り、自分の肩に乗せた手拭いの上に置いた。孔雀が三枚歯の高下駄を履く間じっと支えてやる。八寸(約24㎝)ある高下駄は不安定なだけでなく、孔雀には支えてもらわねばならない理由があった。


 邑咲屋の花魁孔雀は盲目なのだ。


 そして孔雀は——。


「いってらっしゃいませ、(ゆう)神様(じんさま)


 花車お亮を先頭に、孔雀に向かって留守の者一同が一斉に(こうべ)を垂れる。


 遊神様——それは、この朱座遊郭全体を外界から見えないよう結界を張る守り神である。


 孔雀は、廃娼藩を謳う川越藩において、『かくし(ざと)』である(あか)()遊郭に結界を張る盲目の遊神であり、表向きは邑咲屋の花魁なのである。


 遊神は、倶尸(くし)()のような美声と衣通姫(そとおりひめ)のような美貌を持ち、何百年もの間、遊神として非公許遊郭を転々としていた。


 孔雀は約420年間生き続けている。その間中ずっと、日本に3か所しかない非公許遊郭『かくし閭』に結界を張り、江戸時代は幕府、明治時代は新政府の目から『かくし閭』を守っているのだ。


 朱座遊郭の遊神は孔雀のほか、金舟楼に宮城と如意という二柱がいる。表向きはどちらも花魁だ。朱座遊郭はこの三柱によって守られていた。


女将(おか)さん、行ってきますよ」


 孔雀がお亮の方に顔を向けると、お亮は短く「気をつけて」と答え、火打ちを鳴らした。


「勇次、孔雀をしっかり守っておくれよ」


「あいよ」


 朱色の暖簾を出る直前、孔雀が勇次の耳元に紅の唇を寄せた。


「勇さん、今日、いいことあったね?」


 孔雀は400年以上を盲人として過ごしてきたせいか、聴覚と触覚で相手の機微(きび)を読み取る能力に()けている。このときも勇次の肩から発せられる歓喜を敏感に感じ取っていた。


「別にいつもと変わらねぇよ」


 孔雀に誤魔化しが効かないことはわかっている。だが、りんのことを話しはじめたらきっと止まらなくなってしまうだろう。


 暖簾の隙間から、煙管と煙草盆を持った胡蝶がこちらを覗き見、目配せする。


「ちゃんと前向いて歩けよ」


 転んでも助けてやれねぇぞ、と促すと、胡蝶は観念したように前を向いた。


 その優雅な立ち姿を眺めながら、りんを思い出す。


 りんは胡蝶と同い年だが、これほど華美な着物は着たことがないだろう。りんがこんな綺麗な振袖を着たら可愛いだろうな、かんざしは金より銀のほうが似合いそうだな、などと妄想していると、孔雀が勇次の肩に置いていた手をポンと置き直した。


 ハッとして気を引き締める。いかんいかん、集中だ。孔雀は肩を震わせ笑いをこらえている。勇次も緩む頬を必死でこらえた。


 邑咲屋の屋号が白抜きされた朱色の暖簾内から孔雀が登場すると、うぉーっ!と一斉に歓声が上がった。茜色に染まる遊郭街はいつしか黒山の人だかりで埋め尽くされていた。皆、邑咲屋の花魁孔雀を一目見ようと集まってきたのだ。


 藤色地の打ち掛けは、天に昇る黒竜が金の隻眼をギョロリとぎらつかせている。畏怖の中にある艶やかさ。前帯に描かれた瑞雲が、さらに幽玄へと引きずり込む。


 煌びやかな(こうがい)(かんざし)(くし)。これでもかと飾り立てられた立兵庫からうなじへと目線をやれば、抜き襟から垣間見える真っ白な背中に耽溺してゆく。


 これは幻影かと惑わせるほどの美貌に、観客の誰もが夢幻の世界へと導かれていった。


 傘差し役の若い衆・元力士の富蔵が、ばっ…と勢いよく朱色鮮やかな差し掛け傘を開き、花魁の頭上に掲げた。


 孔雀が見えない瞳で前を見据える。勇次は(たもと)に両手を隠し、前で重ね、きりりと眉尻を上げた。


「お()ぇ~りぃ~!」


 先頭の金棒引きが高らかに声を発する。孔雀が外八文字の一歩を踏み出した。寸分違わぬ()で勇次も片足を前に出す。


 二人ぴったり息を揃え、今年最後の花魁道中が始まった。






 朱座が城下町外れの東南端なら、こちらは対極に位置する西北の端。どっぷり暮れた小久保村で、貧しい百姓は(たきぎ)を節約し、肩寄せ合って火鉢を囲む。


「あんだ、りん、おめぇ、いい匂いするべな」


 父兼造に(いぶか)し気な目を向けられてりんは頬を赤くした。勇次に抱きついたとき、彼の羽織に染みついていた(こう)が移ってしまったようだ。


「この子、今日、知らない男に抱きついたんだよ」


 代わりに隣の部屋にいたお志摩が意地悪く声を上げた。


「あんだと? りん、おめぇ、そんなはしたねぇこと……」


「違う違う。お客さんが危ないことしようとしたに、止めようとしただけだがね」


 りんは両手を振って慌てて弁解する。眉を吊り上げた兼造が布団から起き上がろうとしたので、りんはそれを制した。


「おとうちゃん、寝てなきゃ駄目だべ」


 布団を掛け直してやる。兼造は秋口からずっと具合が悪く、最近ではほとんど寝たきりの状態だ。良くなるどころか一向に治る気配がない。


「ふん、どうだか。いい男だったもんねぇ。ポーっとなっちまったんじゃないのかえ?」


 お志摩が酒瓶を抱え、火鉢の近くまでやってきた。りんがきっと睨む。お志摩はりんを押しのけ火鉢の前をぶんどった。


「いいじゃないか。あんたももう年頃なんだし、男の1人や2人いてもおかしくないさ」


「りんにはまだ(はえ)え。りんの相手は俺が決めるべ」


 この親馬鹿が、とお志摩はつまらないものを見るように兼造を横目に入れた。


「あの客、けっこうな色男だったよ。腕も立つし、ちょいと()(いき)(いな)()でさ。総髪がよく似合うじゃないか。いい着物着てたから大店(おおだな)の御曹司かね。もしかしたら玉の輿かもしれないよ」


 不確かな夢に目を輝かせながら、お志摩はりんの身体に鼻を近づけた。りんが嫌悪の表情で体を引く。


「この香……伽羅(きゃら)じゃないかえ?」


「きゃら? あんだべ、それ」


 知らないのかい?とお志摩は小馬鹿にしたようにりんを一瞥した。


 伽羅は、沈香(じんこう)という薫り高い香木の中でも最高級の代物だ。ベトナムのごく一部でしか採れないため、昔は天皇や皇族、大大名しか手に入れられなかった。


「えっ、あの人、まさか初雁のお殿様……⁉」


 りんが目をぱちくりさせる。が、すぐに頭をぶんぶん振った。


「ううん、小仙波村の人だって言ってたべ」


 いや、違う。正確には「小仙波のほう」と言っていた。りんは口に手を当て考え込んだが、その真意がわからない。


 小仙波と聞いてお志摩はポンッと膝を打った。


「小仙波! なるほどねぇ。やっぱりそうだと思った」


 勇次の腕に絡みついたとき、(ほの)かに伽羅の香りがした気がしたのだが、すぐに腕を振り払われてしまったので確信を持てずにいた。だが、小仙波村と聞いて疑念が確信に変わったのだ。


 兼造がゴホゴホと咳込みながら「小仙波だと?」と反応した。お志摩がにやりと笑う。


「あの男、朱座の(もん)だよ」


 お志摩の言葉に、兼造の表情が一変して強張(こわば)った。りんが首を(かし)げる。


「朱座って?」


「小仙波村にある遊郭だよ」


「嘘こくでねぇ。川越に遊郭はねぇんだぞ」


 りんは怒ったように言い返した。子供だと思って馬鹿にしているのか。自分だって川越藩が廃娼藩だということくらい手習塾で教わり知っている。


「馬鹿な子だねぇ。遊郭のない城下町なんかあるわけないだろ。この世に男がいる限り、遊郭はなくならないんだよ」


「……嘘だ……」


 首を横に振ってりんは否定した。お志摩の言う通りだとしたらあの人は……。


「あの男、間違いなく傾城屋だろうね」


 お志摩が手酌で酒を飲みながら断言する。


 香具師(やし)の熊次郎と懇意な様子から、傾城屋の中でも格が高く花魁を抱えている大見世か中見世。しかも若い衆を従えていたところを見ると抱え主側の人間だろうと推察する。また、羽振りの良さから相当な太客を持っていると睨んだ。


「傾城屋は伽羅の香りで満たされてるからねぇ」


 だからあの男の着物には伽羅の香りが染みついているのだと言う。


「あの人が傾城屋なんて嘘だがね! あの人はおらの命の恩人だに、そんな悪さする人じゃなかんべ!」


 りんはむきになって声を荒げた。


 傾城屋は人間を売り買いし、女を人間扱いしない鬼畜の極みにある悪業だ。ゆえにそのような悪い人間は川越藩にはいないと教わった。


 傾城屋の抱え主は忘八と呼ばれ、皆に恐れられている。忘八は八徳——仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌——のすべてを忘れた者を指す蔑称だ。命の恩人が、そのような外道のはずがない。


 どんっ! 


 りんとお志摩がその音にびくっと振り向いた。


 見ると、それまで黙って聞いていた兼造が拳を床板に突き立て、やおら起き上がろうとしていた。


「おとうちゃん、起きちゃ駄目だってば……」


 制する娘の手を払いのけ、睨みつける。


「許さねぇぞ。傾城屋の男なんか、俺は絶対(ぜってぇ)認めねぇからな」


 初めて見る父の形相。何をそれほどまでに怒っているというのか。


「制外者なんかに大事(でぇじ)な愛娘をやれっか」


「にんがいもん? あんだんべ、それ?」


 りんが訊き返す。兼造はそれには答えず、ただ「許さねぇ」を繰り返すばかりだ。


 りんは父を布団に戻し、瘦せてしまった身体に薄い掛布団を乗せてやると、うんざりした様子で溜め息をついた。


「なんもねぇってばよ。ただのお客さんだいね」


 そう、あの人はただの客。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、うっかり交わってしまった、どこにでもある小さな縁。ただそれだけだ。


 逃げるようにして台所へ行き、割れた湯吞み茶碗をくるんだままの手拭いを手に取る。顔を寄せると、白檀(びゃくだん)とは違う上品さと甘い香りが鼻の奥をくすぐった。


 手拭いに染め記されてある名を指でなぞる。


 ——勇次……さん……。


 その名が心の奥でとくんとくんと脈打ってゆくのを、りんは無視できなかった。

次回から第3章「2番目の人」に入ります。

次回は第9話「りん、再び」です。


【余談】

この時代、庶民の間では「藩」という言葉はなかったそうです。

作中では便宜上使用しております。あしからず。

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