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第7話 竜弥の消息

【前回のお話】

 侍に襲われそうになっていたりんを助けた勇次。

 彼女ともっと仲良くなりたいと願うのだったが……。

 何故、自分は(あか)()の住人だとはっきり言えなかったのだろう。


 朱座遊郭は小仙波村、川越大師喜多院の真裏にあるのだから、お大師様の話が出たついでに言えばよかったではないか。


 札の辻で立ち止まり、目抜き通りを一望する。


 ——俺が制外者(にんがいもの)だから?


 城下町の中心を往来する町人たち。表向きの身分はこの人間たちと同じ町人だとしても、傾城屋は穢多頭弾左衛門の支配下にあり、非人と同等の扱いだ。


 しかも自分の名は人別帳から除外されている。吉原つなぎを着替え、どんなに洒落(しゃれ)込んでも、朱座にいる限り人別帳に戻ることはない。この世界に自分の存在などないのだ。


 再び歩き出し、考える。


 りんと仲良くなったところで、そのあとはどうする。深い仲になれば女は将来を約束したがる。少なくとも今まで付き合ってきた女は全員そうであった。嫁にしてくれとせがまれ、お茶を濁すと堪えきれずに泣きわめく。正直に「俺の嫁になったら人別帳から外れることになる」と話せば、それは嫌だと離れていく。どの道最後は別れが待っているのだ。


 自分の存在はこの世に認められていない。それを相手にも求めるのは酷というもの。


 りんとて同じだ。彼女に制外者としての運命を背負わせるわけにはいかない。彼女を苦しませるくらいならば、一生、独り身で良い。しかし——。


 ——まだ大丈夫だよ。


 熊次郎の言葉を思い出す。りんは「まだ」生娘だという意味なのだろうが、「まだ」ということはいずれ嫁に行くか、もしくは飯盛り女になるということ。


 熊次郎の表情から察するに、おそらく飯盛り女だ。年明け、15歳になったらすぐに客の相手をさせられるのであろう。


 ならば、いっそのこと邑咲屋で買い取るか。いや、それは駄目だ。それこそ制外者になってしまう。それに、遊郭の男は遊女と恋仲になってはいけないという厳しい掟がある。


 だったら石原宿の飯盛り女でいてくれた方が人別帳からも外れないし、馴染み客として付き合いやすいではないか。


 ——それでいいのか?


 不特定多数の男に抱かれ、苦界に身を沈めていくのは飯盛旅籠も遊郭と変わらない。年が明けたら、りんからあの屈託のない笑顔が消えてしまうのか。本当にそれでいいのか……?


「勇さん!」


 蓮馨寺(れんけいじ)参道の入り口を通りがかったところで名を呼ばれ、顔を上げる。と、目の前に知った顔が立っていた。ずっと考え事をしていたせいかまったく気づかなかった。


「どうしたのさ、そんな時化(しけ)た面しちゃって。どうせ振られたんだろ? 色男も形無しだねぇ。わっちが元気づけてあ・げ・る」


 甲高い声で言うやいなや、声の主は勇次に抱きつき、ぶちゅうううと口づけた。


「ぶはっ! ふざけんな、雪之丞っ! 離しやがれ!」


 真っ赤になって怒る勇次を指差し、雪之丞は腹を抱えてゲラゲラ笑った。


「あははは! やっといつもの勇さんに戻ったね」


 こいつは女形の松風(まつかぜ)雪之丞。たまに川越へ興行にやってくる旅一座「松風(しょうふう)座」の看板役者だ。


「おめぇはいつも明るいな。羨ましいぜ」


 おくれ毛をくしゃっと指で掻き上げながら勇次は不機嫌そうに嫌味を吐いた。雪之丞はすんっと鼻を鳴らす。


「明るくしてなきゃやってらんないよ。勇さんたち朱座の(もん)だってそうだろ?」


 まあな、と目を伏せる。たしかに、役者も人別帳から外れた制外者だ。


 雪之丞は勇次の乱れたおくれ毛を整えてやりながら伏せた長いまつ毛を見つめ、野太い声を漏らした。


(たつ)さん、見たよ」


「あ?」


 勇次は瞼を(ひら)き、驚愕の眼差しを向けた。


「いつ? どこで?」


「今年の夏、品川で」


「品川宿かよ。飯盛り女と遊んでやがんのか。どうしようもねぇ野郎だぜ」


 だが雪之丞は(かぶり)を振った。


(ため)だよ」


「……品川溜……?」


 今度は大きくうなずく。勇次は左右に首を振り、鼻から息を吐き出した。


 溜、つまりは非人溜——。それは行き場を失くした無宿者を集めた収容施設のことである。そこに収容されるということは即ち、非人。


 非人溜に収容されているということは、人足寄場からもあぶれ、野非人になって放浪していたということだ。非人溜にいるのならば抱え非人になっているのだろうが、東京では、飢饉で生活に困窮した地方の農民が流入しあふれかえっていると聞く。


 東京に行けば何とかなるだろうという考えで上京したにもかかわらず、仕事にはありつけない。あぶれた者が野非人となって非人溜に収容され、抱え非人となる。


 非人溜は東京に何か所かあるが、中でも非人頭車善七が支配し、最大の収容人数を誇る浅草は満杯らしい。松右衛門を非人頭とする品川は小規模でもまだ余裕がある。


 だから竜弥はそちらへ向かったのだろうか。


「本当に竜弥なのか? おめぇの見間違いじゃねぇのか?」


 勇次は半信半疑だ。非人溜には入れないから声はかけられなかった、と前置きし、雪之丞は色っぽい声で後の言葉を続けた。


「あの左の泣きボクロは竜さんに間違いないよ」


 勇次は袖に入れた腕を組んだまま雪之丞をじっと見据えた。まだ疑いの眼差しを向けている。左の泣きボクロを持った男など五万といるだろう。だが、雪之丞は頑として譲らない。


「髪はボサボサ、(ひげ)はボーボーでもいい男はすぐに目につくものさ。だいたいわっちがあんないい男を忘れるはずないだろ?」


 そうかもしれない。役者は目が肥えている。それに雪之丞が嘘をつく理由もない。


「灼けて浅黒くなっちまってさ。何してたんだかねぇ」


 色白の竜弥が日に灼けるほど外を放浪していたということか。不夜城の遊郭で生まれ育った彼からは全く想像がつかない。


「とりあえず覚えとくぜ。ありがとな。また何かわかったら教えてくれ」


 雪之丞の肩を抱き微笑む。


「勇さん、お礼に抱いとくれよ」


 「今度な」とあしらうと雪之丞は嬉しそうに頬ずりした。勇次は苦笑いしながら思いあぐねる。


 ——竜弥、おまえ、なんで非人なんかに……?


 罪を犯したのなら小伝馬牢にいるはず。しかし竜弥は品川溜にいるという。半年前ならすでに移動させられたか、或いは……。


「……」


 非人溜と聞くだけで嫌な思い出が甦る。唾棄すべき光景を払拭するように、勇次はその場を後にした。






 勇次が帰楼したのは七ツ半(午後5時頃)、夜見世が始まる半刻ほど前だった。石原宿に連れて行った若い衆たちはまだ帰ってきていないようだ。


「勇次、良かった、早く帰ってきてくれて」


 番頭の松吉が慌てた様子で出迎える。何かあったのかと怪訝な顔で問うと、ご楼主が帰ってきたのだと説明した。


「ええ? まだ25日ですよ」


 勇次が目を丸くしていると、姉のお亮が血相を変えてバタバタとやってきた。今度はなんだ。


「良かった、早めに帰ってきてくれて。早く着替えとくれ。道中だよ」


 花魁道中の肩貸し役は勇次にしか任されない。八寸の高下駄を履いて外八文字に歩く花魁は支えが必要だ。その支えが肩貸しである。花魁を守る重要な役割であるがゆえ、誰でもいいというわけにはいかない。特に邑咲屋唯一の花魁孔雀は、勇次の肩貸し以外は受け付けないのだ。


「はぁ? 聞いてねぇぞ。差し紙、来てたか?」


「それが、引手茶屋が持って来るのを忘れていたらしくてね」


 勇次は呆れたように額を押さえると、道中用の吉原つなぎへと着替えに急いだ。


「あ、そうだ、(ねえ)ちゃん。あとで話が」


 歩きながら振り返り、姉に告げる。お亮は(いぶか)ったが今優先すべきは花魁道中だ。わかった、とうなずき弟を見送った。


 妓楼主伊左衛門はまだ寝ているようだ。勇次は彼への挨拶を後回しにし、乱れたおくれ毛を(びん)付け油でちょいちょいと整える。そこへ禿の胡蝶がいきなり抱きついてきた。


「勇次さん! また振られたって本当⁉」


 胡蝶は嬉しそうににこにこしている。勇次は障子の隙間から覗き見していた遊女たちをぎろりと睨みつけた。どうせ根も葉もない噂で面白がっているのだろう。


 遊女たちの中で玉虫が一際にやにやしている。噂の出所は玉虫だ。自分が勇次に付けた手形を、彼が振られたと言いふらしているのだ。


 籠の中の鳥状態の彼女らには他人の不幸話くらいしか楽しみがない。腹は立つがこれくらいは我慢してやらねばなるまい。


 しっしっと遊女たちを手で追い払い、迷惑そうに胡蝶の腕を解く。


「女郎どものしょうもねぇ噂話なんか真に受けるんじゃねぇ」


 はぁい、と肩をすくめ、胡蝶は性懲りもなく勇次にしがみついた。


「ねぇねぇ、今度のお正月は何して遊ぶ? 羽根つき? 福笑い? それともカルタ?」


 勇次は(くし)で総髪を撫でつけながら素っ気なく答える。


「もう、おめぇとは遊ばねぇよ」


「えーっ、なんで?」


 胡蝶はぷうっと頬を膨らませた。勇次は櫛を置き、胡蝶をその場に正座させて向き合った。


「いいか、おめぇは年が明けたら振袖新造になるんだ。そうなったらもう妓夫と気安く口なんかきいちゃいけねぇ。いつまでも禿気分でいられたら困るんだぞ」


「じゃあ、明日遊ぼ。年内はまだ禿だもん」


 無邪気に笑う胡蝶を見て、勇次は頭を抱えた。今の話の何を聞いていたのだ。


 年が明けたら胡蝶は15歳にはなるが、一つ(とし)を取ったからといってすぐに大人になるわけではない。今から徐々に、振袖新造としての心積もりをしておかなければならないのだ。


「年末は忙しいから無理だ」


「ええっ? じゃあもう遊べないじゃない」


「そういうことになるな」


 勇次は立ち上がり、廊下を歩き出した。「待ってよ」と胡蝶が後を追って勇次の手をぎゅっと握る。年が明けたらもう、手をつなぐようなことはしてやれないだろう。だが寂しさよりも、一人の禿を振袖新造としての第一歩へ送り出す悦びのほうが勝っていた。


 将来を見込まれた美形の禿は引っ込みとして大切に育てられ、15歳になったら振袖新造としてお披露目する。振袖新造になれなかった禿は留袖新造となり、すぐに客の相手をさせられるが、振袖新造は17歳までそれはやらせない。ただし、姉女郎がほかの客の相手で忙しいときには、時間稼ぎで姉女郎の代わりに添い寝をすることはある。


 そうやって次第に遊女としての作法を覚え、花魁への道を約束されているのが振袖新造というわけだ。


 この胡蝶も美しい容貌から将来の期待を一身に背負っていた。本人に自覚がないのが玉に(きず)だが、勇次も胡蝶が花魁になる日を楽しみにしている。


「わっちが花魁になったら、勇次さん、肩貸ししてくれる?」


「ああ、もちろんだ。楽しみにしてるぜ」


「ほんと? じゃあ、年季が明けたらお嫁さんにしてね」


 最近はこんなことばかり言っている。勇次は呆れ顔で微笑んだ。


「花魁になればお大尽に身請けしてもらえるかもしれねぇんだぞ。そっちの方がよっぽど幸せになれる」


「いやよ。わっちは勇次さんが好きなの。勇次さんのお嫁さんになりたいの」


 胡蝶は真剣な眼差しで見つめ、勇次の掌をふくらみはじめた自分の胸に当てた。が、彼は顔色一つ変えることなく言い放つ。


「何の真似だ?」


「わっちはもう大人よ。いつでも……」


 抱いてくれと潤んだ瞳が言っている。馬鹿馬鹿しい。遊女との色恋沙汰はご法度だ。それを知らぬわけでもあるまいに、何故このような()れ事を真顔でできるのだろう。


「俺に女郎の手練手管が通用するとでも思ってんのか?」


 姉女郎を見ていて自然と覚えたのだろうが、多感な少年時代を遊女に囲まれて過ごしてきた勇次にはまったく刺さらない。


 勇次は胡蝶の手を引き剝がし、階段の踊り場を見上げた。


「胡蝶、あんまり勇さんを困らせないでやっておくれ」


 ()()()のような美声の持ち主は、邑咲屋唯一の花魁孔雀。お甲とお亀に支えられ、2階から降りてきた。

次回は第8話「華やかな世界の反対側」です。

遊神様登場です。


【用語解説】

差し紙:花魁を呼び出すために事前に送られる手紙。妓楼ではなく引手茶屋に届ける。

引手茶屋:花魁と遊ぶためにはまずこの引手茶屋を通さなければならない。

()()():インドの黒ホトトギス。美しい声で鳴く。

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