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第6話 りん

【前回のお話】

 穢多頭弾左衛門の身分が平人になったと聞いて、お亮たちに衝撃が走る一方、勇次は一目惚れした茶汲み娘に心を奪われていた。

 そう、忘れてはいけない。


 その頃勇次は石原宿の水茶屋で、りんという14歳の少女に一目惚れしていたのだ。


「14歳ってこたぁ年明けにゃ15歳だな。留新(とめしん)(留袖新造)だったら客の相手できるぜ」


「女郎に例えるなよ」


 熊次郎が(いさ)める。だが勇次には聞こえない。


「熊さん、俺、川越に来てよかったわ」


 どの口が言う。ほわんとした眼差しで娘を待つ勇次は心ここにあらずだ。


「言い交した男はいるのかな? まさかもう嫁に行ってるなんてこたぁねぇよな?」


 言ってからはたと気づく。


「ここにいるってことたぁ……飯盛り女? え? まさかまさか生娘(きむすめ)じゃなかったりして?」


 突如として不安に駆られる。勇次は眉間に(うね)を作り熊次郎の襟をむんずと掴んだ。


「まだ大丈夫だよ」


 熊次郎の答えに胸を撫で下ろし、手を離したのも束の間、次の不安に襲われた。


「まだ……って?」


 熊次郎は襟を直しながら視線を逸らす。その意味を問いかけようとしたところで、茶汲み娘りんが茶菓子を持って戻ってきた。


「お待たせしました。豆菓子だがね。お口に合うべな?」


 りんは勇次の眼をしっかり見つめ、にっこりと微笑んだ。背の低い彼女は座位の勇次と目線が近い。


 ——うわぁ、まじ可愛い。


 雪のように真っ白で絹のごとく滑らかな肌。野苺みたいに紅くぷっくりとした唇。林檎の頬っぺたは愛嬌満載。つぶらできらきらした瞳には今にも吸い込まれそうだ。しかしここは大人としての余裕を見せねばなるまい。


 おくれ毛を直す振りで一度視線をそらし、


「豆菓子は好物だ。ありがたくいただくよ」


 きりりと眉を上げてりんの瞳を見つめ返す。りんもじっと勇次の瞳を見つめていた。しばしの間、二人見つめ合う。


 ——ん?


 しばらく見つめ合っているうちに、勇次はある違和感に気づいた。


 今まで出会った女たちは、勇次に見つめられるともれなく恥ずかしさのあまりすぐに目をそらしていた。なのに、この娘は恥ずかし気な素振りを微塵も見せず、しっかりと見つめ返してくるではないか。


 ついに根負けしたのは勇次の方だった。豆菓子に手を伸ばす振りをして、りんより先に目をそらす。


 ——負けたのか? え? この俺が負けた……?


 初めての敗北に動揺を隠すことで必死だった。りんはまだ自分を見つめているようだ。いかん、心臓がバクバクしてきた。何故、百戦錬磨の自分がこのような百姓の小娘相手に動揺しなければならないのだ。この娘はいったい何を考えているのか。


 りんはこのときこう考えていた。


 ——まつ毛……長い……。ううっ、触ってみてぇべ。けんど触ったら怒られるべな?


 勇次の伏せたまつ毛が気になって気になって仕方なかったのだ。


 と、突如、彼のまつ毛を食い入るように見ていたりんが、ひぁっ!と悲鳴を上げて()け反った。


「どうしたんだい、うるさいね!」


 女将のお志摩が奥から叫ぶ。勇次も何事かと顔を上げた。


「今、あのお侍さんがおらの尻をつねったべ!」


 りんは尻を押さえ、後ろを通り過ぎた侍を指差した。


「尻つねられたくらいでがたがた騒ぐんじゃないよ。これだから生娘は面倒なんだ」


 自分の娘が尻をつねられたというのに、なんという言い草だ。勇次は嫌悪で眉をひそめた。侍が再びりんの尻に手を伸ばす。


「そうだぞ、茶汲み女のくせに尻のひとつやふたつつねられたって減るもんじゃなし」


「いやっ!」


 りんは咄嗟に侍の手を振り払った。


「何をいたすか、この無礼者! 成敗してやる、そこに直れ!」


 侍が腰の物に手をかけ怒鳴る。その場が一瞬にして騒然となったが、りんは負けじと言い返した。


「お侍さんが悪いんだべ。謝るのはお侍さんの方だ」


「なんだと、この小娘が! もう許さん!」


 侍が刀を抜いたその瞬間、湯呑み茶碗が(つか)に直撃した。パリーンッ! 湯吞み茶碗は激しい音を立てて土間に落ち、幾つかの破片となって飛び散った。


「貴様……」


 刀を止められた侍が眉を逆立て睨んだ相手は勇次だ。


(わり)(わり)ぃ。手が滑っちまった」


 にやにやしながら勇次は悠然と立ち上がり、りんを背中に隠して前へ出た。


「お客さん、危ねぇべ。川越のお侍はみんな神道(しんとう)()念流(ねんりゅう)、習ってるだに」


 背中越しの心配をよそに、勇次は鼻で笑う。


「神道無念流ねぇ。か(よえ)ぇ小娘に刃を向けるなんざ、川越藩士も地に落ちたもんだぜ。大川先生も横沼で泣いてらぁ」


「なにぃ?」


 侍の顔が怒りで震えているのがわかる。りんは熊次郎に助けを求めるような眼差しを向けた。だが、熊次郎は肩をすくめるばかりで立ち上がろうとしない。


「ちょっとちょっと、店ん中で暴れないどくれよ。ほかのお客さんに迷惑だろ」


 見かねたお志摩が止めに入るが2人は目もくれない。侍が「黙れ!」と一喝すると、彼女は「外でやっとくれ」と()()(くさ)れて奥へ引っ込んでしまった。


 りんがおろおろする前で勇次は構わず続ける。


「侍がこれじゃ幕府軍が負けるのも無理ねぇな。幕府と縁切った初雁のお殿様はさすがだ。おめぇらじゃ新政府軍にゃ勝てねぇってこと、よーくわかってらっしゃる」


「貴様! 川越藩士を愚弄するとはなにごと! 貴様から成敗してくれる! 覚悟!」


 侍が刀を振りかぶった。りんが反射的に目を瞑る。


 ——もう駄目だ、お客さんは斬られちまった。おらのせいだ、おらがあんなこと言わなければ……。


 だが後悔したところでもう遅い。すべてをあきらめ恐る恐る目を開ける。と同時に、瞳に飛び込んできた光景が彼女を吃驚させた。


 勇次の背中越しに見えたのは、刀を振り上げたまま身動き取れずにいる侍の姿だったのだ。


 見ると、勇次の左手が刀の柄を押さえ、右手は脇差の切っ先を侍の喉輪に突きつけている。


 ——いつの間に⁉


 一瞬の隙を突いて侍の脇差を逆手で抜き、喉元へ持っていったのである。しかももう片方の手で振り落とそうとする腕を止めながら。


 りんが驚愕の(まなこ)を見開いていると、背後から熊次郎の声が聞こえた。


「そいつぁ昔、(とおり)(まち)の道場に通ってたことがあるんだ。そこいらの侍なんかよりよっぽど腕は立つぜ」


 続けて勇次は喉輪に突きつけた脇差を刀の刃に押し当て、くるりと軽く(ひね)った。腕ごと捻られた侍がたまらず刀を落とす。間髪入れずに勇次の蹴りが侍の顔面に炸裂した。


 侍は吹っ飛び、背中から土間に叩きつけられた。それを見て、今度は勇次が脇差を振りかぶる……と、そのときだ。


「だめぇっ!」


 りんが後ろから抱きつき、勇次の動きを封じようとしたのだ。


「殺しちゃ駄目だ! お客さん、人殺しになっちまうべ!」


「……」


 勇次は侍から目を離さずに振りかぶったまま一旦動きを止めた。侍は恐怖でぶるぶると震えている。情けない。これが徳川260年を支えた武士の成れの果てなのか。


 はーっと大きく嘆息する。そして無表情で脇差をドスッと振り下ろした。


「あっ!」


 りんが勇次の身体にしがみついたまま驚きの声を上げる。


 だが、見ると脇差は侍の股座(またぐら)に突き立てられていた。ほっと胸を撫で下ろす。侍は泡を吹いてそのまま気を失ってしまった。


 勇次がぐるりと店内を見回す。固唾を呑んで見守っていた侍客たちは助太刀する気を消失し、静かに下を向いた。


 熊次郎が刀を抜き上げ、勇次に渡しながらりんに語りかける。


心配(しんぺぇ)するな。こいつぁ人殺しをしたことねぇのが唯一の自慢なんだ」


「つまんねぇ奴を記念すべき第1号にしたくねぇだけだよ」


 勇次は素っ気なく吐き捨てながら刀を腕に乗せ、片目を瞑り目利きする。


「刃こぼれがひでぇや。まったく手入れしてねぇな。これじゃ迷惑料になんねぇよ」


 脇差の方はなんとか売れそうだ、蕎麦でも食ってくれ、と熊次郎に2本とも預ける。


「で、おめぇはいつまで抱きついてんだ?」


 言われてはっと気づいたりんは、慌ててしがみついていた腕を解こうとした。が、それより一瞬先に勇次が細い腕をがっと掴む。


「は、放して……。堪忍してくらっしぇ……」


 ハの字に歪んだ眉がまた可愛い。「冗談だよ」と声を立てて笑いながら放してやり、懐から手拭いを取り出した。割れた湯吞み茶碗の破片を拾い上げる。


「このまま南町の直し屋に持ってけば俺のツケで直してくれる」


 南町の直し屋は邑咲屋の馴染み客だ。自分の名入りの手拭いを見ればすぐにわかるはず。


 おもむろに立ち上がり、柔らかな笑顔で手拭いに包んだままの破片をりんに手渡した。


 自分の肩ほどの小さな身体。「ありがと……」と上目遣いで見上げるその顔をのぞき込む。


「今度は前から抱きついてくれると嬉しいなぁ」


「やだ、お客さん、もう堪忍してくらっしぇ」


 真っ赤になって慌てる姿に、自然と目じりも下がる。


「もう、侍相手にあんな無茶するんじゃねぇぞ。命がいくつあっても足りねぇからな」


 うなずきながら尖らせる唇にはもう腰が砕けそうだ。


「お客さん、強いんだな。どこの人なん?」


「うーん……、小仙波……のほう?」


「小仙波かぁ。町の向こう側だいねぇ。あ、おら、お大師(だいし)様(喜多院)に一度行ったことあるべ」


 小さい頃おとうちゃんとおっかやんと3人で紅葉狩りして、自分と似ている五百羅漢様を探したけど見つからなくて……などと目を輝かせて楽しそうに話す。


 勇次はそれに答えようと、うちはお大師様のすぐ裏で……と言いかけたが、無意識に言葉を呑み込んだ。


「りん! 茶碗片付け終わったらさっさと仕事に戻りな!」


 丁度そのとき、お志摩の怒鳴り声が聞こえてきた。


「は、はぁい」


 りんはぺこりとお辞儀すると、そのまま厨房へと引っ込んでしまった。勇次も今日は帰ることにした。熊次郎に侍の片づけを託し、暖簾を出る。


 もっと話がしてみたい。あんなきらきらした瞳で笑顔を向けられたらなんでも話してしまいたくなる。


 夏は氷川さんの風鈴の音が心地良いな。

 小川(おが)(ぎく)のうなぎは美味いぞ。

 吞龍(どんりゅう)さんの境内には芝居小屋があって……そうだ、花見ついでに一緒に観に行くか。

 いや、吞龍さんの桜もいいがお大師様の桜も綺麗だぞ。

 今度は桜の季節に来い——。


 話のネタは山ほどある。なのに何故、自分は朱座の住人だとはっきり言えなかったのだろう。

次回は第7話「竜弥の消息」です。

この人のことも忘れないでください。


【用語解説】

大川先生:大川平兵衛。川越藩の剣術師範。神道無念流を指導する。入間郡横沼は郷里。晩年を過ごした横沼の道場には門弟として尾高惇忠や渋沢栄一などがいる。


【一口メモ】

振袖新造になれなかった遊女(留袖新造)は15歳でデビューします。

遊郭で育った勇次にとってはそれがスタンダード、15歳は立派な大人なのです。

ちなみにこの時代は皆、お正月に一つ歳を取ることになっていました。

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