最終回 振り出し
※最後に挿絵(後ろ姿)があります。
【前回のお話】
竜弥は孔雀に、自分が必ず人間に戻してやると告げ、抱きしめた。
勇次はりんに朱座遊郭内を案内しようと出かける。
団子を2本注文し、野点傘の下に移動する。緋毛氈を敷いた縁台にふたり並んで腰掛けていると、しばらくして団子と狭山茶が運ばれてきた。りんは緊張気味に背筋を伸ばしている。
最初は遠慮していたりんであったが、勇次が串を持たせてやるとおちょぼ口で齧った。その瞬間、目を真ん丸くして頬っぺたを押さえ、勇次に歓喜の表情を見せた。
「そうかそうか、美味いか」
勇次も相好を崩して円らな瞳を見つめる。きらっきらした満面の笑みを湛え、団子を頬張る桜色の頬っぺたが愛おしくて仕方がない。団子を食べるのも忘れ、ここでも幸せを噛みしめた。
——そうだ、これだ。俺はこの笑顔が見たかったんだ。
はらり……。桜の花びらが湯呑みの中に舞い降りる。そのひとひらを見つめているうちに、今まで言えなかった二文字が自然と口をついて出た。
「りん、好きだよ」
優しい眼差しでささやく。りんが聞こえないのを良いことに、恥ずかしげもなくさらりと言えてしまった。
何かに気づいたようにりんが顔を向ける。どきりとした。実は聞こえていたなんてことはないだろうか。勇次はどきどきと高鳴る鼓動を押さえ、首を傾げた。すると、りんは皿に乗ったままの団子の串を手に取り、勇次に差し出した。お、おう……と受け取る。一口頬張り、にっこり微笑んでやると、彼女も嬉しそうに笑ってくれた。
勇次は今、猛烈に感動していた。言葉はなくとも意思疎通できることがただただ嬉しい。
さて、次の段階へ進むにはどうしたらいいだろう。この気持ちを伝え、いずれ一緒になってほしい旨を理解してもらうには、どのような手段があるだろうか。やはり文か。いやそれは苦手な分野だ。では歌が得意な竜弥に頼むか。いやそれも駄目だ。奴にはあまり弱みを見せたくない。そうでなくても今回散々情けない姿をさらしてしまったのだから。
そこでふと考える。そもそもりんは文字を覚えているのだろうか。本が大好きだと言った彼女が文字の記憶まで失くしていたとしたら実に不憫なことである。
憐れみと慈しみの入り混じった眼差しでりんを見つめる。春の長閑な風が桜の花びらをりんの鬢に乗せた。彼女はそれに気づかず、狭山茶をすすっている。口角には醤油だれがちょこんとついていた。
——かっ、かわいい……。
初めて彼女を見たときの衝撃が鮮明に甦る。一生こんな気持ちで傍に居たい。誰にも邪魔されたくはない。このままふたりでずっと……。
「若頭!」
気持ちが高まると必ずぶち壊す奴が現れる。勇次は怒りに震え、権八を睨みつけた。
「パチ……てーめーこのやろーーー。今な、俺は人生を賭けて……」
「若頭、てぇへんです! これ!」
権八はおかまいなしにぜいぜいと息を切らして片手を伸ばした。その手には1通の文が握られている。
「なんだこりゃ?」
受け取った文を開き、目をやる。
——無血の革命を遂げん 竜弥——
しまった……と立ち上がった瞬間、未の中刻を知らせる時鳴鐘が川越城下に鳴り渡った。
「やられた!」
川越夜船の出港は未の中刻。今から追いかけても間に合わない。確信犯か。
「くっっっそーーーーーー竜弥の野郎……まじぶっ殺す」
わなわなと怒りに震えながら文をぐちゃぐちゃに丸め、権八の口に押し込む。
なにが「無血の革命」だ。結局傾城屋から逃げたいだけではないか。あいつは底抜けの大馬鹿野郎だ。今度こそ帰ってきたら許さない。どう料理してくれよう。早桶にぶち込むか、遊女川に沈めるか、それともリボルバーで蜂の巣にして札の辻にさらしてくれようか。
「やっぱり跡目を継ぐのは若頭しかいませんね」
口から文を取り出し、権八が勇次の顔色を窺う。それを聞き、勇次は脱力して縁台にどっかりと腰を下ろした。頭を抱える勇次の袖を誰かがくいくいっと引っ張る。はっと顔を上げると、りんが不安そうな顔でこちらを見ているではないか。
「ああ、ごめんごめん。おめぇはなんにも心配するこたぁねぇからな」
今、不安にさせてどうする。咄嗟に笑顔を作ると、りんは少しほっとしたようだった。
「あの……若頭、大変言いにくいのですが……」
「なんでぃ?」
もう今さら何を言われても驚かない。
「今日のお練り、肩貸しは……?」
勇次は深い溜め息をつき、両手で目を覆った。最近はすべて竜弥に任せっきりだったからすっかり忘れていた。竜弥と孔雀の一糸乱れぬ連携ぶりが好評を博していただけに、他の遊女が花魁に昇格するまで自分の出る幕はないと思っていたのだ。
「俺がやるしかねぇだろ」
権八には申の刻までには帰ると告げ、先に引き取らせた。団子屋の店主に狭山茶のお代わりを頼む。花びらの浮かんだ湯呑みに茶が注がれる。浮き沈みしながらくるくると踊る花びらを見つめて思った。
結縁と呼ぶにはあまりにも神秘の巡り合わせである。1月16日の大火でりんは焼死したものとし、人別帳から外された。あれほど悩んだ身分差が、呆気なく解消されたのだ。
しかし、諸手を挙げて喜んでいいものだろうか。戸籍上は死んだ者とされているが、実際には生きている。りんは帳外、つまり制外者になってしまったのだ。
求婚したとき、彼女は確かに制外者になると言ってくれた。だが今は状況が違う。自分の意志ではないのだ。心ならずも社会からの爪弾き者にされてしまった彼女の立場を思うと、複雑な気持ちは拭えないのである。
それでも——と考える。りんを守り抜くという決意には微塵の揺らぎもない。彼女が制外者としてこの朱座で生きてゆくことを余儀なくされたのなら、何を迷うことがあろうか。自分もともに制外者としてこの朱座で生きてゆくことにひとつとして躊躇はない。
——こうなったら跡取りでもなんでもやってやらぁ。
勇次は首から下げていた小さな巾着袋を外した。中から結び玉を取り出し、りんの手に乗せてやると、彼女は眩しそうにそれを眺めた。柔らかな春の陽射しに捉えられ、結び玉がきらり……癒しの光を放つ。まるで透き通った心に色を付けたかのようだった。
再び結び玉を巾着袋に仕舞い、りんの首にかけてやる。彼女はびっくりして返そうとしたが、勇次はそれを押し留めた。
「これは俺がおめぇにやったものだ。おめぇに持っていてほしいんだよ」
勇次の真摯な眼差しに、りんも何かを汲んだようだ。戸惑いながらも彼の気持ちを尊重してくれた。首から下げた巾着袋を懐に仕舞い、両手を重ねて着物の上から大事そうに押さえる。これがなんなのか、これの意味することはなんなのか、わかるはずもないけれど、彼女ならこれを必ずや大切にしてくれるだろう。
りんの顔にうっすら笑みが浮かんだ。
「おめぇは強いな」
不条理にも天涯孤独の身になったのみならず、心身に障碍を負ってしまったというのに、だ。ほかに行く当てがないとはいえ、遊郭などという悪所で生きることを受け入れ、尚且つ見ず知らずの病人の世話までする。それもけして手を抜かず、献身的に。
「大した女だよ。さすが俺が選んだだけのことはある。惚れ直したぜ」
いや、何を自惚れているのだ。もう一度惚れ直してもらわねばならないのはこちらのほうではないか。かつてりんは自分と釣り合う人間になりたいと言っていた。しかし今は逆である。自分がりんの強さに追いつかねばならないのだ。再び生きる活力を与えてくれたのは、ほかでもない、りんなのだから。
——俺もまだまだだな。
空を見上げ、立ち上がる。春の雁は何処へ帰ってゆくのだろうか。日はだいぶ長くなったが、傾きはじめると風はまだ冷たい。花冷えの夜を迎える前に、遊郭街も一息入れようとしていた。
——竜弥……、今度はもっと早く帰って来いよ。
竜弥は初めから、孔雀の顔を一目見たら再び川越を出て行くつもりでいたのだろう。そこへ大火に遭遇してしまい、すぐには旅立てなかった。勇次の快癒を待ってからの旅立ちは、彼なりの斟酌なのかもしれない。
くしゅん、とりんがくしゃみをした。4日間の看病で罹患させてしまっただろうか。慌てた勇次は咄嗟に手を差し出した。親友と別れた寂寞はもちろんあるが、今、守るべきは目の前の命だ。
「りん、おまえはひとりじゃない」
自分もひとりではない。りんがいる。姉がいる。朱座遊郭——制外者の仲間がいる。
そして、どんなに遠く離れようとも信じ合える友がいる。
りんが勇次の手をじっと見つめる。心の揺れを見せはしたが、嫌がっている様子ではない。どちらかといえば、外で男と触れ合って良いものかどうか迷っている風だ。紅潮した頬がそれを教えてくれている。
りんは決心したようにやおら頷くと、おずおずと小さな手を大きな手に乗せた。思いもかけず柔らかな温もりに安堵の吐息を小さく漏らす。
「りん、一緒に帰ろう」
ぎゅっと握りしめた白い手を引き上げ、勇次は歩き出した。りんも半歩下がって歩き出す。
桜の花びら舞い上がる朱座遊郭。ふたりは微笑み合いながら、のんびりと手をつないで帰っていった。
(『非公許遊郭かくし閭 巻の壱《制外者編》』 完)
『非公許遊郭かくし閭 巻の壱《制外者編》』はこの回をもちまして完結となります。
最後までご覧いただきありがとうございました。
現在『巻の弐《タイトル未定》』を準備しております。
公開までしばらくお待ちください。
それまでの間は、他作品を断続的に公開していく予定です。
こちらのほうもご覧くださると有難く存じます。
*活動報告に勇次・りん・竜弥のイメージ画を掲載しております。
孔雀は間に合わなかったので後日掲載いたします。
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よろしくお願いいたします。




