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第46話 ご利益

【前回のお話】

 悪夢にうなされた勇次であったが、りんが生きていることを実感して安堵する。

 お亮は、りんを下働きとして邑咲屋で雇うことに決めた。

 竜弥のもとへは陸奥陽之助から一通の文が届く。

 しゅうしゅうと長火鉢の上で湯缶が音を立てている。その傍で、りんが(つくろ)い物をしている姿がおぼろながらに見えた。


 りんと再会してから2日が経つが、まだ夢を見ているような心地がする。


「りん」


 勇次は夢かうつつかを確かめようと声を掛けた。だが、りんは返事をしてくれない。振り向いてもくれない。やはり夢だったか……と、簡単にあきらめるわけではなかった。


 今度は畳をトントンと指で叩いてみた。するとどうだろう。りんが反応し、振り返ったではないか。勇次が目覚めたことに気づいた彼女は裁縫の手を止め、膝を()り寄せた。額の手拭いを取り、たらいおけの水で洗い直す。それを立て絞りすると、勇次の首の汗を拭った。


 ほっと小さく安堵の息を吐く。悪夢を見た晩、抱きしめた温もりは嘘ではなかった。りんは生きている。記憶がなくとも、耳が聞こえずとも、今こうして目の前にいてくれることが何よりもありがたい。


 熱を出してすぐに葛根湯を飲んだせいか、身体はだいぶ楽になった。関節の痛みもかなり和らいでいる。ゆっくりと起き上がり、上半身の浴衣を脱いだ。昨夜は戸惑っていたりんも今日は慣れたようで、手拭いを何度か絞りながら身体を拭いてくれた。元来生真面目なりんとしては、言いつけられた仕事をただひたむきにこなしているだけなのだろうが、それでも実に甲斐甲斐しく看病をしてくれた。


 言い知れぬ幸せが全身に染みわたってゆく。何度この日を夢見たことだろうか。少し、いや大幅に想定とは違ったものの、こうして世話をしてもらっているこの瞬間に感動を拭えない。


 このまま手を取り押し倒してしまいたいが、そんなことをしたら彼女を傷つけることは目に見えている。記憶も聴力も失った彼女を強引に奪ったところで心を閉ざしかねないばかりでなく、ともすると嫌われてしまうかもしれない。いや、絶対嫌われる。せっかく生きて再会できたというのに、そのような間抜けな結末は何としても避けたいところだ。


 浴衣を着替えようとすると、りんはまたもや遠慮して部屋から出ていった。さすがにそこまでは恥ずかしいらしい。


 首から下げた小さな巾着を握りしめる。そこには焼け跡から見つかった氷川神社の結び玉が収められていた。


 ——とんでもねぇご利益だな。


 縁結びの妙妙たる効果は驚き以外のなにものでもない。落ち着いたらりんを連れて御礼参りにでも行ってこようか……などと考えていること自体がもう奇跡なのだ。


 着替えを終え、再び寝転び天井を見つめる。大火から今日までの出来事を振り返ってみた。


 なぜ、彼女は入間川河川敷にいたのか。彼女を発見したという女衒はいったいどこの誰なのか。そもそもなぜ大火を逃れることができたのか。発見時に『源氏物語』を手にしていたということは、一旦家に帰ったということだ。すでに燃え盛る炎の中へと飛び込んで、果たして生還することができるのだろうか……。


 ――いや、やっぱ考えるのはやめとこう。


 疑問は数えきれないほど残るが、今はこの瞳に映る現実の中にりんが居る——それだけで十分ではないか。余計なことなど考える必要はない。


 目を閉じ、静かに瞑想していると、やがてりんが卵粥たまごがゆを持って戻ってきた。再び起き上がり、半纏はんてんを掛けてもらう。熱々の卵粥を口に運びながら、しばし至福の時を過ごした。


 目尻は下がり、頬は勝手に緩みっぱなしだ。だが、それがかえってよかった。りんが少しずつ笑顔を見せはじめていたのだ。自分の看病で人が順調に回復へ向かっているのだから、やはり嬉しいに決まっている。


 卵粥をすする勇次を、りんは傍で目を凝らし見つめていた。音がない分、視覚で彼の意を汲み取ろうと必死なのだ。完食した茶碗を盆に置き、勇次はりんに向かって満面の笑みをたたえた。


「ごちそうさま」


 両手を合わせ、目を見て伝えると、りんは嬉しそうに微笑んだ。伝わるではないか。言葉はなくとも互いの気持ちを伝え合うことができるではないか。


 喜びを嚙み締めながら身体を横たえる。高熱でかなり体力を消耗したせいか、食事を摂っただけで疲労に襲われた。


 りんがそっと布団を掛ける。ふっ……と笑みを浮かべ、手を伸ばすと、りんは少し躊躇いながらもその手を両手で包み込んだ。懐かしい温もりだ。穏やかな表情のまま目を閉じる。眠りに落ちるまで、りんはずっと手を離さずにいてくれた。






 勇次が熱に倒れてから4日目の朝。前日に一日中降り続いた雨は上がり、空は青く晴れ渡っていた。


「で、なに? 結局抱かずじまいかよ。つまんねぇの」


 勇次の無精髭を剃りながら、竜弥がにやついた。剃刀(かみそり)を当てられ口を動かせないのを良いことに、次々とからかってくる。


「勇次が本命に奥手たぁ知らなかったぜ。体がまだ出来上がってねぇのなんのって言い訳しやがってよ、要はただ単に臆病なだけじゃねぇか」


 髭を剃り終え、次は髪結いに移る。勇次は待ってましたと言わんばかりに反撃に出た。


「そういうおめぇこそどうなんだよ。おめぇだってびびってなんにもできねぇくせによ」


「うるせー。俺のことはほっとけ」


「どうせ、遊神様だから手ぇ出せねぇとかなんとかぬかしやがるんだろ」


 言い返された竜弥はこれ見よがしに勇次の総髪をきりきりと縛り上げた。いててて、と勇次が鏡越しに睨みつける。竜弥は無視して桔梗紫の組み紐を結んだ。


「孔雀が人間に戻ったら結界が弱まっちまうだろ。俺は朱座のために手ぇ出さねぇんだよ、ばーか」


 確かにそれも一理ある。朱座遊郭の存在が新政府に知られ、撤去されたら制外者たちの居場所が無くなってしまう。竜弥は勇次以上に朱座遊郭という場所を大切に思っているのかもしれない。


「でも、それじゃおめぇら一生結ばれねぇだろ」


「だからほっとけっての」


 竜弥には竜弥の考えがあるのだろう。この件についてはこれ以上何も言わない方がいいのかもしれない。


「竜弥……」


「ん?」


「ありがとな」


 ぽつり……勇次が漏らす。


「あ? なにそれ、気持ちわり」


「だから……今回のこたぁ色々感謝してんだよ。竜弥がいなかったら俺、まじで死んでたから」


 無謀にも炎に飛び込み焼死していたら、りんには再会できなかったのだから感謝するよりほかはない。それに加え、憔悴して仕事を休んでいる間も自分の分まで働いてくれたのだ。おかげで営業に支障をきたさずに済んだことはかなり大きいと言える。


 勇次が素直に礼を述べると、竜弥も顔を少し緩ませた。


「勇次に借りは作りたかねぇからよ。これで2年半の分はチャラだかんな」


 ふふんと鼻を鳴らす勇次を一瞥し、櫛を鏡台の引き出しに仕舞って立ち上がる。


「昼見世はどうせ暇だから、朱座ん中でも案内してやれば? なんか思い出すかもしんねぇし」


 勇次が寝込んでいる間に広小路の染井吉野が満開を迎えた、とぶっきらぼうに教えてやる。


「散る前に早く見に行かなくちゃな」


 勇次も立ち上がった。障子を開け、4日ぶりの外気を思い切り吸い込む。どこからともなく桜の花びらが風に乗って舞い込んできた。外はいつの間にかすっかり春の匂いだ。


 板縁でしばらくふたりが青空を眺めていると、渡り廊下からりんが狭山茶を持ってやってくるのが見えた。勇次はやせ細ってしまってはいたが、髭を剃り、総髪をきりりと束ねれば凛々しい姿は健在だ。その風姿にりんが驚いて立ち止まる。眩しそうに目を細めるりんに、勇次は顔をほころばせた。りんもはにかんだように微笑み、再びこちらへと歩き出す。と、そのときだ。


 「勇次さん!」


 胡蝶がどたどたやかましい足音を響かせ2階から駆け下りてきた。板縁をこちらへ向かって走ってくる。廊下は走ってはいけない。


「よお、胡蝶。今日は一段と可愛いじゃねぇか」


 両手を広げて胡蝶を受け止めたのは竜弥だった。


「やだもう、竜弥さんじゃなくて、わっちは勇次さんに会いに来たのに」


 もぞもぞと竜弥の腕を振り解こうとする胡蝶を、竜弥ががっちり抱きしめ離さない。


「なんだよ、俺じゃ不服か?」


 にやにやしながらひょいと胡蝶を抱き上げ、あっという間に連れ去ってしまった。


「もう、竜弥さんの意地悪! 嫌い!」


「嫌いで結構。女郎に好かれようなんざ思っちゃいねぇよ」


 竜弥にぴしゃりと撥ねつけられ、胡蝶は口をへの字にひん曲げた。奥の座敷では鬼の形相で番頭新造お甲が手ぐすね引いて待っている。今日は胡蝶の苦手な漢詩の日なのだ。


 振り返った竜弥が勇次に向かって、「今のは貸しだかんな」と言っているように見えた。勇次はくすり……と笑い、りんを迎えた。

次回は第47話「桜吹雪」です。

竜弥と孔雀の関係は……。

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