第45話 目覚め
今回から最終章「結び玉」に入ります。
【前回のお話】
女衒の半十郎が邑咲屋にひとりの娘を連れてきた。りんである。
りんは記憶と聴力を失っていた。高熱に浮かされた勇次は絶望しかけるが、姉お亮に叱咤される。
その晩、勇次は寝苦しさのあまり目を覚ました。
細い月明かりが射し込む狭い部屋。異様な気配を感じ、ふと横を見ると黒い影が蠢いている。
——親父……?
このような夜更けに何をしているというのか。わずかな月明かりを頼りに目を凝らす。父親は寝ている妹の上にまたがっているようだ。
そのとき勇次の瞳に衝撃的な光景が映し出された。父親の手が妹の首にかけられていたのだ。
——お鈴!
叫ぼうにも声が出ない。声が出たところで妹お鈴は耳が聞こえないから気づかないだろう。助けなければ、と頭ではわかっているが体が動かない。恐怖と焦りで震えている間に、程なくしてお鈴はこと切れた。
ひと仕事終えた父がこちらを向く。次は自分の番だと悟った。どうしてよいのかわからず、目をきつく瞑った。殺人鬼と化した父の顔を見るのが怖かったのだ。
父の気配が近づいてきたのがわかった。大きな手が伸び、首にかけられた。ひやり……。真夏の熱帯夜だというのに氷のように冷たい。
勇次……とうちゃんと一緒に逝こう……。父のすすり泣く声が聞こえる。いやだ。いやだ、いやだ、いやだ……。
「俺は死にたくねぇっ!」
勇次は渾身の力を振り絞り、飛び起きた。はあっ、はあっと肩で大きく息をする。全身は汗でびっしょりだ。顔面から噴き出た汗を拭いもせず、勇次は掛布団を握りしめた。
——夢……?
すると、そのとき首筋にひやりと冷たいものが触れた。びくっと身体を強張らせて顔を上げると、そこにはりんの顔があった。
「りん……」
りんは濡れた手拭いで勇次の汗を拭いてやろうとしていたのだ。勇次は思わずりんを抱きしめた。彼の身体はガタガタ震えている。りんは驚いて一瞬身を固くしたが、すぐに震える背中を優しくさすってくれた。その手の温もりがつい今しがたの恐怖から徐々に解き放ってゆく。
目を閉じ、ほーっと大きく息を吐き出す。懐かしい匂いに呼吸を整えながら、バタバタと廊下を走る足音を聞き、我を取り戻した。
「勇次、どうかしたのかい?」
りんから離れると同時に障子が開けられた。心配そうな顔で飛び込んできたのは姉お亮だ。全身汗だくの弟を見てぎょっとする。
「姉ちゃん……」
厭な夢を見た、そう言いかけると、ちょうど竜弥も勇次の叫び声を聞きつけやってきた。
「どした、勇次?」
行燈をぶら下げ、汗まみれの顔に近づける。竜弥も尋常ではない勇次の表情にぎょっとした。
「竜弥、すまん。俺はもう大丈夫だ。泊りの客は?」
意外にも冷静な勇次の対応に、再び驚きつつ答える。
「2階は大丈夫だ。誰も気づいてない」
大門が閉まり、客も寝静まった遊郭の真夜中。寝ずの番でこんな時間に眠ることなどここ何年もなかった。だから、久しぶりにあんな悪夢を見てしまったのだろうか。
とりあえず着替えるようお亮に促され、浴衣を脱ぐ。りんは恥ずかしいのか、遠慮して部屋を出て行った。
「もしかして、またあの夢、見たのか?」
勇次の汗を拭いてやりながら竜弥が訊く。子供の頃毎晩一緒に寝ていた竜弥は、勇次がたまにうなされていることを知っていた。それを聞き、お亮もすぐに事情を察した。
「ああ……」
大人になり、寝ず番をするようになってからはぱったりと見なくなっていた悪夢。いつしか夜眠るのが怖くなっていたのかもしれない。
「勇次、おまえ、死にたくないって言ってたね」
姉が心なしか微笑んでいるようにも見える。1月の大火からろくに食事もとらず、生気の失った顔で今にも死んでしまうのではないかと思わせていた弟。その彼が、ようやく生きる気力を取り戻したのが嬉しいのだろう。
竜弥もにこにこしている。元の勇次に戻りつつある気がして、彼もまた嬉しさをにじませた。
着替えを終えたところで時宜良くりんが白湯を持って戻ってきた。ちょうど飲みごろの温度で感心する。弟が白湯を一気に飲み干したのを見て、お亮は切り出した。
「なんかさ、りんを見てるとお鈴を思い出しちまってね」
「うん。姉ちゃん、たぶんそうじゃないかと思ってた」
姉弟の会話を横で聞いていた竜弥が口を挟む。
「お鈴……って死んだ妹だっけ? 確か耳が聞こえねぇって……」
竜弥の問いに姉弟は頷いた。聴覚障碍を持って生まれた末の妹お鈴に対し、お亮や勇次たち姉兄は慈しみ面倒を見ていたから特に思い入れが強いのだ。幼いうちに母親と引き離され、父親にまで命を奪われるという悲劇を辿った幼い妹。長姉のお亮が彼女を、聴力を失ったりんに投影したとしてなんら不思議はない。
「わっちはね、結縁に思えてしょうがないんだよ」
3人がりんの顔を見る。行燈の仄かな灯りと月明かりの優しさが、彼らの表情を和らげて見せた。仏の慈悲に導かれ、りんの心も少しほぐれただろうか。
翌日お亮は、甚吾郎にだけは一連の経緯を打ち明けた。勇次とりんの関係を知っているというだけでなく、こんなとき頼りになるのはやはり甚吾郎なのだ。
遊神の孔雀にも知っておいてほしい。こちらには竜弥から伝えてもらうことにした。
「なるほど、腹違いの妹か。いい落としどころじゃねぇか」
甚吾郎が煙管を咥え、うんうんと頷く。りんは、皆にはお亮の異母妹ということにしておいて、下働きとして雇うことにしたのだ。
「実は、勇次がりんの借金を肩代わりした10両があってね。それをりんの借金に戻して証文作り変えて、邑咲屋でりんを買ったってことにしたのさ」
「上手く収まるとこに収まったってわけだ」
もし邑咲屋で引き取らなければ、りんは他の傾城屋へ売られてしまう。遊女にされるくらいなら、皆を欺いてでも傍に置いておいた方がいいとの判断だ。勇次もそれは納得した。伊左衛門の目を欺くにもそれが最良に思える。もし赤の他人であることを知ってしまったら、りんの器量からして遊女にされてしまうことは火を見るより明らかだ。それでは勇次は嫉妬に耐えられないだろう。
「で、今はりんに勇次の世話を任せてるのか」
「うん。弱ってる者の世話をするってことは、生きる気力にもつながるからね」
「たしかにな。けど、ふたりきりにして大丈夫か?」
「そこは心配してないよ。なにしろあの馬鹿、本命には超が10個くらいつくほど奥手だからね」
それより気にかけていたのはりんの貞操だ。行方不明だった期間に強姦されてはいまいかと気が気ではなかった。だが、それは杞憂だったようだ。半十郎に確認したところ、彼もそれは気になっていたようで、邑咲屋へ連れてくる前に高林先生の妻はま子に診てもらったというのだ。結果、その心配はないということだった。一先ず胸を撫で下ろしたお亮はそのことを勇次にも伝え、安心させた。
「いっそのこと、勇次の嫁にしちまえばよかったんじゃねぇのか?」
「うん、わっちもそう言ったんだけどね、勇次がまだ駄目だって」
記憶と聴力を失ったりんが、日々不安に怯えているだろうことは想像に難くない。そのような状態でいきなり嫁がされては、それこそ彼女は心を閉ざしかねないだろう。それならば彼女の心を取り戻し、しっかり気持ちが固まってからにしたい、と勇次は主張したのだ。
「りんの記憶が戻るまで待つってか?」
「ううん。記憶が戻らなくても、また心を寄せてくれればいいって」
「また惚れ直してくれるとは限らねぇのに?」
まったくねぇ、とふたりでけたけた笑い合う。いずれにせよ、お染の件もまだケリがついてないのだから動きようがない。
と、そこへ竜弥が一服しに裏口から出てきた。
「あっ、お邪魔だった?」
馬鹿野郎、と甚吾郎が竜弥の頭を小突く。竜弥はへらへら笑いながら、遊神孔雀に伝えておいた旨を報告した。
「しっかし勇次って相変わらずのカッコつけ野郎だな。若ぇ男に取られたらどうしようとか考えねぇのかな? 俺だったらとっととモノにするぜ」
ねぇ甚さん?と甚吾郎に水を向けると彼は苦笑した。傍でお亮が冷めた口調で煙草をふかす。
「ま、自分で決めたことなんだから、後で泣いたって知ったこっちゃないさ」
さすが実の姉が一番手厳しい。竜弥と甚吾郎が震え上がっていると、番頭の松吉が険しい顔つきで竜弥を探しに来た。
「あっ、いたいた、竜弥坊ちゃん。ちょっとこれ、どういうことか説明してもらえます?」
松吉は京都島原遊郭からの請求書を見せた。お亮の顔色も途端に曇る。
「は? 違う違う。これ、俺じゃねぇよ。何かの間違いだ」
竜弥はちゃんと自分で稼いだ金で遊んだと弁明した。大体、京都で遊んだのは先斗町で、島原では遊んでいない。異母兄きではないかと問うが、伊左衛門は上方を往復できるほど留守にしたことはないという。堂々巡りの議論に頭を悩ませていると、今度は遣り手婆のお亀がやってきた。
「竜弥坊ちゃん、文が届いてますよ」
「文? 俺に?」
また覚えのない証文が届いたのではないかと内心びくびくしながら文を受け取る。恐る恐る裏返す竜弥の目が、差出人の名にしばし止まった。
「陸奥陽之助? 誰だい、知り合いかい?」
横から覗き込んだお亮が訊ねる。竜弥は「さぁ?」と首を傾げながら、それを懐に入れた。それからそそくさと煙草を吸い終え、そろそろ昼見世の開店準備をしてくると言って妓楼へ入っていった。
次回は第46話「ご利益」です。




