第41話 詠み人知らず
今回から第10章「言い伝え」に入ります。
【前回のお話】
川越城下の大火翌日、焼け跡からりんの着物の残骸と彼女に贈った結び玉を見つけ、勇次は崩れ落ち、号泣した。
ぺぺん……ぺぺん……ぺぺん……。まるで爪弾いているかの如く優しげな撥捌き。その情感に満ちた音色に乗せ、甘くかすれ気味の歌声が花魁孔雀の座敷から流れてくる。
「桜花……時は過ぎねど……見る人の……恋ふる……盛りと……今し……散る……らん……」
その場に居ずとも涙を禁じ得ない。こぶしを利かせ過ぎず、淡々と、しかし情緒溢るる美声に聴き惚れ、涙する。孔雀の浮かべた涙を拭い、綿貫徳隆が竜弥に問いかけた。
「切なくも美しい……。詠み手はどなたですか?」
歌い終えた竜弥はゆっくりと撥を弦に挿した。
「詠み人知らず。万葉人です」
即興で万葉歌を三味線に乗せて歌い上げる才に徳隆は惚れ惚れと感嘆した。
「竜弥さんは歌がお上手なんですね。声も素晴らしい」
竜弥が笑みを浮かべ、うつむく。勇次に唯一勝てるのは歌だけだ。それ以外のすべてにおいて張り合ってきた竹馬の友は、今——。
「若頭の具合、早く良くなるといいですね」
「お気遣い、痛み入ります」
悲嘆に暮れる孔雀に代わり、竜弥が徳隆に酌をする。孔雀のみならず、邑咲屋の誰もが勇次の身を案じていた。
「情女が死んだって?」
「こないだの火事に巻き込まれたそうだよ」
妓楼内はその噂で持ちきりだ。川越城下が炎に包まれ、多大なる被害をもたらした大火から10日が過ぎようとしている。朱座遊郭の広小路ではすでに早桜が散り始め、山桜、枝垂桜と次々に蕾が綻びゆかんとしていた。
だが、勇次はりんを亡くした悲しみから未だ立ち直れず、自室に籠ったままだ。食事は部屋の前の廊下まで運ばれ、食べ終えるとまた廊下に戻されている。食べると言ってもほとんどが喉を通らないらしく、完食されずに食べ残す日々が続く。彼の姿を見ることは滅多になく、時たま厠へ行く姿を見かけた者の話では、憔悴しきった形が痛ましく見ていられないほどであったという。
「若頭のあんな姿、初めて見たぜ」
魂が抜けたようだ——というのはああいうことを言うのだろう、と誰もが彼の心情を推し量った。邑咲屋は火が消えたみたいに暗くなっている。遊女、若い衆、下働きの者に至るまで皆、あらためて勇次の存在の大きさを思い知らされたのだ。
孔雀もまた、最初こそ竜弥との再会を喜んではいたが、そのような勇次の様子を耳に入れるにつけ、次第に喜べなくなっていった。それどころか申し訳なさが先に立ち、道中の肩貸しやお座敷遊びなど、竜弥と同じ空間にいることさえ罪悪感を抱いてしまう。
竜弥もそれは同じ思いだった。だから逆に、こうして冷静に太客の相手をしていられるのかもしれない。そうでなければ、嫉妬に悶えてしまうところである。
「山下屋さん、この度は大火の御見舞金、心よりお礼申し上げます」
神妙に頭を下げる竜弥は、2年半前では想像もつかないほど大人びていた。先日の大火災の見舞金を川越藩に密かに送ってくれたことへの謝意を述べるなど、以前の竜弥では考えられなかったことだ。2年半という時間は彼にとっても、また邑咲屋にとっても無駄ではなかったようである。
「もう一曲、お聴かせいたしましょう」
竜弥が撥を抜き、弦に指を置いたときだった。
「ひいぃぃぃぃぃぃ!」
ほかの部屋から遊女の金切り声が聞こえてきた。何事かと反応した竜弥が即座に立ち上がる。ちょいと失礼いたします、と徳隆に断ってから、撥を持ったまま座敷を飛び出した。
「どうした!」
「あっ、竜弥さん! 穂垂るの客がいきなり暴れ出して……」
新人の妓夫が酷く慌てた様子で階段へと向かった。
「若頭呼んできます!」
それを権八が引き留める。権八に腕を掴まれた新人は目をぱちくりさせて彼を見た。
「いいから見てなって」
権八が新人を連れて竜弥の後を追うと、彼はすでに穂垂るの部屋の障子を開けていた。中を見ると、客である侍が穂垂るに向かって刀を突きつけている。二階回しの妓夫は、騒然とするほかの客たちをなだめに走った。万が一に備えて元力士の富蔵が竜弥の背後に控える。
「お客さん、困りますねぇ。ほかのお客さんがびっくりしちまいますよ。その物騒なもん、しまっておくんなせぇ」
比較的落ち着いた口調で竜弥が侍に語り掛ける。だが、侍が刀を鞘に納める気配はない。それどころか訳の分からないことを口走った。
「この女が口吸いをさせないのが悪いのだ」
「いやだ! わっちの唇は誰にも渡さねぇ!」
竜弥は眩暈がしそうになった。自分からしてみればどっちもどっち。勝手にしてくれ、と言いたいところだが、刃傷沙汰は迷惑この上ない。血の雨が降れば畳を取り換え、壁と柱はすべて塗り替えなければならない。なにより遊女の命は只ではないのだ。竜弥の頭の中で瞬時に算盤が弾かれた。
必ずしも景気が良いとは言えないこのご時世、無駄金は使いたくない。明治維新で侍客が減った昨今、彼らは大事にしたいところだが、だからといってどのような客でも受け入れれば良いというわけではない。
——うん、いらない。
すっ……と左足を前に出し斜に構え、今一度侍に告げた。
「お客さん、遊女が嫌がることを無理強いするのは野暮ってもんですよ」
侍の顔色が一変した。
「なにぃ? 貴様、拙者を愚弄するか」
「滅相もござんせん。お客さんは登楼が初めてのご様子。通の遊び方を教えて差し上げたまで」
「なんと無礼な! 成敗してくれる! そこに直れ!」
頭に血が昇った侍は穂垂るに向けていた切っ先を竜弥に向け変えた。待ってましたとばかりに竜弥の目がきらりと光る。侍が振りかぶった瞬間を見逃さず、目にも止まらぬ早業でその柄を掴み、撥を喉輪に突きつけた。
「えっ? 見えなかった……」
新人の妓夫が目をくるくるさせる。瞬きしたつもりはなかったのに、竜弥の動きをまったく捉えることができなかったのだ。
「若頭と互角にわたり合えるのは竜弥さんだけだ」
権八が教えてやる。さらに、竜弥さんの真骨頂はここからだ、と囁いた。新人はごくりを息を呑み、心臓を高鳴らせながら次の動向を見守った。
「馬鹿な男だ。武士にはもう一本刀があることを知らぬのか?」
言うやいなや侍は脇差に手を伸ばした。
「馬鹿はおめぇだ」
「なに?」
侍が竜弥の目を見た瞬間、竜弥の膝が侍の股間を突き上げた。
「◎※△☆✽□◇‼」
侍が悶絶してその場に崩れ落ちる。その光景を刮目していた新人妓夫はあんぐりと口を開けたまま絶句していた。
「竜弥さんは卑怯なんだ……」
権八が残念そうに首を振り振り溜め息をつく。こういうところはまったく変わっていない。今まで何人の若い衆が彼の犠牲になったことか。自分もその犠牲者の一人である。ただし若頭の勇次さんだけは彼の手の内を知っているからやられたことはない、と早口で解説する。だがほかの者はわかっていたとしても避けようがないから覚悟しておくように、と付け加えるのも忘れなかった。
「とっても性格が悪いから気をつけるんだぞ」
と言ったところで竜弥がくるりと振り向いた。一瞬で権八に緊張が走る。彼の緊張感が新人にも伝わり、ふたりその場に直立不動となった。
「おう、パチ、こいつどうする?」
「へい! 簀巻きにして遊女川に沈めてきます!」
「あのな、それじゃ死んじまうだろ。すっぽんぽんにして札の辻にさらしとけ。ついでに髷も落としとけよ」
「えっ? そんな甘々でいいんですかい?」
竜弥にしては寛大な処置だ。権八は不思議そうに首を傾げた。
「ばーか。侍ってなぁな、矜持の塊みてぇな生き物なんだ。鼻っ柱折られるのは死ぬより屈辱でよ、髷落とされて公衆の面前ですっぽんぽんなんて恥ずかしくて切腹しちゃうぜ」
特にこいつみたいに、明治の世になっても武士であることに誇りを持ち続けている人間はな、とゲラゲラ笑いながら侍から刀2本を取りあげる。自分たち傾城屋が手を汚す気は毛頭ない。ああ恐ろしい人だ……と背筋を凍らせ権八は刀を受け取った。
富蔵が泡を吹いて気絶している侍を軽々と肩に担ぎ、黙々と1階まで運んでゆく。そのとき竜弥は、階下からその様子を見ていた勇次に気づいた。
「きったねぇ顔」
竜弥が階段を降りながら勇次に毒気づく。勇次は無精髭を隠そうともせず、手摺に寄り掛かったまま竜弥を待った。
東に浮かぶ二十六夜月と行燈だけを頼りに勇次の顔を見る。痩せた、というよりこけた感じ。虚ろな眸から光は失せ、長い睫は憂いに満ちている。そう簡単に悲しみが癒えるはずはない。
「あの侍、見たことある」
勇次の声を聞いたのは10日ぶりだ。竜弥が驚きの眼で訊き返す。
「どこで?」
「石原宿の水茶屋。りんがあいつに斬られそうになってたのを助けてやった」
「まじか……」
「あのときは守ってやれたのに……」
そう言ったきり勇次は再び部屋に向かった。竜弥は今にも消え入りそうな背中を見つめた。小紋の小袖を何日も着たままなのか、襟首が少々へたっている。大火の当日にりんが縫い上げたという小袖。庄之助が届けてくれた日からずっと袖を通しっぱなしなのだろう。
いたたまれずに目を逸らす。その背後から番頭新造のお甲が声を掛けてきた。
「今宵はお座敷の方はおしまいだそうです」
竜弥に三味線を渡すとお甲は再び2階へと戻っていった。孔雀と徳隆の床の用意をするであろうことはすぐに察しがついた。きりきりと痛む胸を抑え、竜弥はお甲を呼び止める。
「穂垂る……だっけ、さっきの川越芋。今夜はもうちっと優しい客をつけてやれって、二階回しのやつに言っといてくれ」
穏やかだが寂し気なかすれ声が階下へと消えてゆく。お甲は横顔だけを見せ、真は優しい人なのに……と心の中で呟いた。
ペペん……ぺぺん……ぺぺん……。うら寂しい三味線の音が邑咲屋の一階板縁から聴こえる。それに合わせたかすれ気味の甘い歌声に、登楼客も遊女も一様に聴き惚れる。
「桜花……時は過ぎねど……見る人の……恋ふる……盛りと……今し……散る……らん……」
まだ散る時ではないけれど、愛でてくれる人がいるうちに散ってしまおう……。
「春さらば……かざしにせんと……我が想ひし……桜の花は……散りに……ける……かも……」
勇次が再び部屋に閉じこもってから大門が閉まるまで、竜弥は歌い続けた。
次回は第42話「五百羅漢」です。
悲しみは簡単には癒えそうにありません。
【本文引用の万葉歌】
桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ 作者不詳 (巻十 春雑歌 1855)
春去らばかざしにせむと我が想ひし桜の花は散りにけるかも 作者不詳 (巻十六 由縁有る雑歌 3786)
【参考文献】※敬称略
『万葉集』 鶴久・森山隆編(桜楓社)
「新編国歌大観」準拠版『万葉集』上下巻 伊藤博校注(角川文庫)




