第40話 焼け跡
【前回のお話】
父に勇次との仲を許されたりんは幸せに包まれていた。
翌日そのことを庄之助に報告するが、帰り際に小久保村で発生した火事に気付き、自宅へと急ぐ。
朱座遊郭のほうでも火事に気付き、勇次はりんを助けに向かったが、彼女には会えなかった。
暮れ六ツを過ぎ、日が落ちきった頃、邑咲屋に勇次と竜弥がようやく戻ってきた。
勇次は竜弥に背負われぐったりとしている。勇次の姿と2年半ぶりの竜弥の顔を見て、妓楼内はどよめいた。
そんな中、お亮は涙を浮かべて真っ先に弟へと駆け寄った。
「勇次!」
「大丈夫だ、お義姉さん。今、高林先生に診てもらってきた。ちょっと煙を吸い込んだだけだから心配いらねぇって」
ほーっと大きく息を吐き出し、お亮は安心したように膝をついた。
「竜弥、ありがとう。あんたがいてくれて助かったよ。それで、りんは?」
「今日は会えなかったから、明日お救い小屋を当たってみるよ」
それなら、りんの顔を見知っている甚吾郎にも協力してもらおう、ということになった。半十郎はこのところ留守にしているらしい。妙海は……酔っぱらいではあまり戦力にはならないだろう。
とりあえず勇次を部屋まで連れていき、布団に寝かせる。意識があるのかないのか、彼は目を瞑ったまま無言で天井を向いていた。
紋日ではあったが、狭山入間川村の太客綿貫家へ、大火で城下町には入れない旨をしたためた文を急ぎ届けさせる。馴染みや一般客も今日は少ないだろうということで、夜見世の方は番頭の松吉に任せ、お亮は竜弥を内証に導いた。
障子を開け、居間に入った瞬間、竜弥は両手で顔を覆った。お亮に背中を支えられ、仏壇の前に正座する。母の位牌を正視できず、線香をあげるのも忘れ、ただうなだれたまま手を合わせた。
声を押し殺し震える背中に、お亮が静かな声で叱責する。
「女将さん、最期まであんたのこと気にかけてたんだよ。まったくこの親不孝者が。傾城屋だからって必ずしも忘八にならなくたっていいってのに」
「お義姉さんにも迷惑かけちまって申し訳ねぇ」
「わっちのことはどうでもいいんだよ。そんなことより、女将さんがどんな思いで勇次に頭下げたのか、よくよく考えることだね」
それだけ告げると、お亮は揚台に戻っていった。内証にひとり残された竜弥は、初めて顔を上げた。母の位牌を目にした途端、大粒の涙がとめどなく溢れ、ぼろぼろと零れ落ちてゆく。
勇次の身を案じるお亮の姿から、母が自分をどれだけ心配していたかが察せられた。弟でさえあれほど取り乱すのだから、ましてや腹を痛めて産んだ我が子ならばなおさらのこと。
竜弥はひとり、母の位牌の前でむせび泣いた。自責の念に駆られ、しばらくそこで泣いていた。
「日が暮れてからの呼び出しなんて、まったく律儀なんだか融通が利かないんだか」
花魁孔雀の手を引きながら、遣り手婆お亀が愚痴をこぼす。
「文句言っちゃいけないよ。今宵はご城下の火事でお客が少ないんだ。登楼してくださるだけでもありがたいじゃないか」
孔雀が見えない目で天女の微笑を向ける。
綿貫家に断りの文を届けてはいたが、徳隆はすでに出発した後だった。途中で引き返すでもなく、わざわざ遠回りをして律儀に朱座遊郭まで来てくれたのだ。この誠実をどうして無碍になどできようか。
番頭新造お甲とお亀に支えられ2階から降りてきた孔雀は、いつもとは違う玄関の匂いに気づいた。
どこか懐かしい匂いに、とくん……と鼓動が波立つ。一歩ずつ階段を降りるにつれ、それは次第にどくんどくんと騒がしくなっていった。
お甲が孔雀の白い手を取り、前へと差し出す。その手を肩貸し役の掌に乗せると、孔雀の鼓動は一気に跳ね上がった。
「竜さん……?」
竜弥は無言で孔雀の手を握りしめた。何も映さないはずの瞳に竜弥の顔が浮かび上がる。瞬間、その瞳からぶわっと涙が溢れ流れた。
「遊神様、白粉が流れてしまいますよ」
お甲が袖で孔雀の涙をそっと拭う。竜弥は何も言わず、肩に乗せた手拭いの上に白い手を置かせた。しばしの間、その手の上に自分の手を重ねる。孔雀の涙がおさまるまで、微動だにせず温もりを伝え続けた。
やがて落ち着きを取り戻した孔雀が、八寸の高下駄に足を入れる。竜弥はそれを見届けると手を離して袂に入れ、前で重ねた。
「さぁ、行こう、孔雀」
自分の名を呼ぶ愛しきかすれ声。この2年半、1日たりとも忘れたことはない。胸いっぱいに広がる感慨に浸りながら、孔雀は声を弾ませた。
「あいよ、竜さん」
朱色の暖簾が上がり、花魁孔雀が登場する。いつもの肩貸し役とは違う顔に観衆は一瞬どよめいたが、すぐにそれは歓声へと変わった。夕方の火事で登楼客はいつもより少ないものの、沿道からはそれを補って余りあるほどの拍手が巻き起こっていた。
「お練ぇ~りぃ~」
金棒引きの権八が高らかに声を上げる。シャンシャンと鳴り響く鈴の音を合図に、孔雀が外八文字の一歩を踏み出した。
一糸乱れぬ歩調で竜弥も足を出す。2年半の空白を感じさせぬほど、ふたりの呼吸は一つになっていた。
火災は夜中には鎮火していたようだ。夜が明けると、勇次と竜弥はすぐさま城下町へと向かった。
蔵造りの建物を残し、灰塵と化した目抜き通りでは焼け出された人々が呆然と彷徨っている。
ふたりは寺院や学問所などに急遽設置されたお救い小屋を手分けして方々探し回ったが、りんの姿はどこにも見当たらなかった。あとからふたりを追ってきたお亮と甚吾郎とも合流したが、やはり結果は同じだった。
悄然と小久保村に向かった4人は、そこで熊次郎を見かけた。彼は泣いていた。胸騒ぎを覚えふらつく勇次の肩を竜弥が支える。甚吾郎が熊次郎に駆け寄った。
「熊さん、どうした? 何があった?」
熊次郎はゆっくりとある方向を指差した。それを見た4人が一斉に息を呑む。熊次郎が指差した先には炭化した焼死体が筵を掛けられ横たわっていたのだ。
「たぶん……兼造だ」
熊次郎が力なく告げた。その場に衝撃が走る。
「りんは?」
竜弥の手を離れ、勇次は熊次郎に寄っていった。
「それが見当たらねぇんだよ。庄之助の話じゃ火事に気付いた途端、家にすっ飛んでったらしいんだが、その後の消息がさっぱりつかめねぇ。どこへ逃げてったんだか」
ふらり……勇次はりんの家があった場所へと足を向けた。焼け焦げた家屋の臭いが鼻をつく。今日一緒に麦踏みしようと約束した畠が何処なのかすらわからない。
まだ燻ぶり続け、業火の跡が生々しく残る焼け跡を覚束ない足取りで歩き、りんの家があったであろう場所で立ち止まる。そこでは不浄同心やその手下の者たちが火災現場を丹念に調べていた。火元を探しているのだ。
勇次は定まらぬ焦点で家屋の焼け跡を見つめた。布団らしきものが焼け焦げている。そのすぐ傍らに目を遣ると、そこだけ人型の跡が燃えずにくっきりと残っていた。おそらく兼造は、布団から這い出たところで煙に巻かれ、力尽きたのであろう。
するとそのとき、後をついてきた姉お亮が声を上げた。
「あれ、小袖じゃないかえ?」
姉の指し示すところへ勇次も目を向けた。焼けた布の切れ端が炭となった柱に引っ掛かっているのが見える。確かめるべく焼け跡に足を踏み入れようとするも、不浄同心の巳之助に止められた。まだ実況見分が終わっていないという。
甚吾郎は巳之助に袖の下をそっと渡した。巳之助は金舟楼の馴染み客なのだ。巳之助は素知らぬ顔をし、手下たちに他所の焼け跡を調べてくるよう命じた。その隙に勇次とお亮が焼け跡に立ち入る。
「これ……わっちがあげた唐桟だ」
「姉ちゃん……冗談やめろよ」
「冗談なもんか。これはわっちのお気に入りだったんだ。これは間違いなくわっちがりんにあげた川越唐桟だよ」
震える唇を噛み締めるお亮の横で、勇次の膝が崩れ落ちた。
「嘘だ……嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ!」
勇次は無我夢中で灰を掻き分けた。炭化した梁、柱、床板——どれがどれだかわからない。触れたそばからぼろぼろと崩れてゆく。それでもただ夢中で焼け跡を掻き分けた。
「りん! どこだ! 返事をしろ! りん!」
彼の叫び声を耳にし、小太郎となつがその場に駆け付けた。ふたりも竜弥たちと一緒にその様を刮目する。皆が見守る中、勇次は必死で焼け跡を探し続けた。
だが、その痛ましい姿に耐えきれず、ついに竜弥が勇次の背中に飛びついた。
「もう、やめろ!」
勇次の動きが止まった。両手で灰を掴み寄せながら全身を震わせている。
「もう……いい……」
竜弥が震える身体を抱きしめる。
「朱座に帰ろう。俺も帰るから」
そう告げ、勇次の顔を覗き込んだ。見ると勇次は一点を見つめ、じっと止まっている。どうしたことかとその様子を見ていると、彼はおもむろに握っていた手を開いた。
開かれた掌の上には、灰にまみれた小さな石ころが一つ、乗せられていた。
「それがどうかしたか?」
竜弥が訊ねると、勇次はかすれた声で呟いた。
「結び玉……氷川さんの」
それを聞き、なつが突然泣き崩れた。
「りん、それ、嬉しそうに見せてくれた。勇次さんがくれた宝物だって。巾着に入れて首から下げて、肌身離さず持ってたべ。自分は日本一の果報者だって……」
瞬間、勇次はその場に突っ伏した。
「ぅあああああああああああ‼」
人目も憚らず号泣する。その場にいた誰もが言葉を失った。
声を上げて泣き叫ぶ勇次に掛けてやる言葉など、誰にも見つかりはしなかったのだ。
次回から第10章「言い伝え」に入ります。
次回は第41話「詠み人知らず」です。
ハッピーエンドへ向かうための試練がしばらく続きます。
ご注意ください。
【用語解説】
不浄同心:同心のこと。罪人と接するため「不浄役人」などと蔑視された。『川越城下かさね図』(文星舎)には江戸町と南町の間に「附渡不浄同心五人屋敷同心町」とある。




