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第36話 幸せな後ろ姿

今回から第9章「果報者」に入ります。


【前回のお話】

 庄之助との勝負に勝った勇次は、りんに求婚した。

 返事は急がなくていいと言い残し、小久保村を後にする。

 昨日から降ったりやんだりの小雨模様がようやく回復した。頃合いを見計らって、甚吾郎が金舟楼の裏口から顔を出す。3回目の刻み煙草を丸めたところで、ようやっとお亮も邑咲屋の裏口から出てきた。


「ああ、甚さん。昨日はすまなかったねぇ。お陰様で助かったよ」


 甚吾郎は、たった今出てきたような顔で手を上げた。


「おう、いいってことよ。しかし、昨日はまた随分派手にやり合ってたな」


「甚さんが止めに入ってくれなかったらどうなってたことやら。本当に恩に切ります」


 お亮が頭を下げたのには理由がある。


 勇次がりんに求婚した2日後、色よい返事をもらえたと喜び勇んで帰ってきたのは昨日のことだった。


 勇次は帰ってくるなり妓楼主伊左衛門に、お染との縁談を断ると言い出したのだ。無論、伊左衛門は烈火のごとく怒り出した。りんに危害が及ぶことを危惧した勇次とお亮は、彼女のことを口が裂けても言わなかった。それが怒りに拍車をかけたのだ。


 とにかくお染は嫌だの一点張りで、話は堂々巡り。特に、今まで妓楼主を適度に転がし、逆らう素振りなど見せなかった勇次が口答えをしたものだから、伊左衛門は訳がわからず気が動転し、狂ったように暴れ出した。


 昼見世と夜見世の間の時間帯だったから営業に支障なかったのが不幸中の幸いではあった。しかし妓楼内は騒然とし、騒ぎを聞き駆け付けた甚吾郎の執り成しにより、ようやく収拾がついたというわけだ。


「ま、そのお陰でうちの人、ヘソ曲げて予定より早く旅に出てくれたからよかったけどね」


 お亮は清々したという顔で煙管の灰皿に刻み煙草を詰め込んだ。甚吾郎が火を貸す。


 彼女にとっては亭主の機嫌よりも弟の身の振り方が最優先。お染から提案された人別帳に戻る方法を蹴ってでも、りんと一緒になることを選んだ弟の決断をまずは褒めてやりたい。


「竜弥はまだ帰ぇってくる気ねぇのか?」


 竜弥が再び跡取りとしてお染と縁組してくれれば丸く収まるのでは、と甚吾郎は考えた。だが、お亮は首を横に振る。


「竜弥もお染のことは気に入らないみたいだからね。ほら、勇次と違ってあの子、気に入らない女にはとことん冷たいだろ? だから帰ってきたところでどの道上手くいかないと思うよ」


 遅かれ早かれ、井筒屋との縁談は破談になるだろうとお亮は予測する。


「それに勇次の話じゃ、竜弥も色々思うところがあるみたいだからあんまり追い詰めないでやってくれって」


 甚吾郎が「竜弥が?」と確認すると、うん、とお亮は頷きながら煙を(くゆ)らせた。幼い頃より片時も離れず育った親友だからこそわかり合える感情があるのだろう、と。


 甚吾郎もそれには納得した。あのふたりには、他者では理解できないほどの絆を感じることがある。出会うべくして出会ったふたり、互いを引き寄せ合うようにして引き寄せられたふたりなのかもしれない。


「ところで勇次の方はどうなんだい? あちらの親御さんにはお許しをもらえたのかえ?」


 お亮はまたも首を横に振った。


「まぁ、一筋縄じゃいかないのは本人もわかってるみたいでさ、気長に待つつもりみたいだよ」


 まだ若いということもあるが、どうもりんは「制外者」について深く理解できていないらしい。今まで制外者と接点なく過ごしてきたのだから仕方のないことなのだが。


 勇次もその点はりんのことをよくわかっていて、故に気長に待つ覚悟を持っているのだ。


「で、今日はどちらで逢引きだい?」


 甚吾郎がにやにや詮索する。お亮は引き気味に答えた。


小川(おが)(ぎく)だよ。金貸してくれって。見栄張っちゃってさ。ほんと馬鹿だね、男って」


「あそこの鰻は一年中美味(うめ)ぇんだよな」


 甚吾郎が馬鹿面でよだれをすする真似をする。俺たちもたまにはどうだい?と誘うと、「今度ね」と軽くいなされた。


「さすがにあの身形じゃ申し訳ないからね、わっちの川越唐桟と帯を一式譲ってあげたのさ。まったく世話が焼けるったら」


 ちょっと袖を詰めてやって、丈は長いから裾をからげ紐で引き上げれば……などと話すお亮はまんざらでもなさそうだ。故郷で亡くした末の妹をりんに重ねているようにも見える。明日は自分も一緒に挨拶へ行くのだと、少し背筋をしゃんとして嬉しそうに打ち明けた。


 久々に明るい顔のお亮を見て、甚吾郎は安心したように目を細めた。






 一方、石原宿。大和屋の2階で窓をほんの少しだけ開け、その隙間から道行く人を垣間見る飯盛り女がいた。


 児玉往還を行き交う旅人に混じり、若い男女が1、2歩ほどの距離を保ちながら小久保村に向かって歩いてゆくのが見える。男は時折、女を気遣うように振り返っていた。


「なに見てんだ?」


 布団の中から竜弥が飯盛り女さちに声を掛ける。彼は布団から這い出て、さちの頭越しに窓の外を覗いた。彼女の視線が捉えていたのは、勇次とりんの後ろ姿だった。


「あのふたりがどうかしたか?」


 素知らぬふりをして訊ねる。さちの瞳は嫉妬の色を成していた。


「あの()、知ってる。りんっていうんだ。えら貧乏のくせに、あんしてあんなにいい着物着てるんだ? 髪も綺麗に結ってあるし、おらの笄より高そうな簪挿してるべ。しかもあの男、氷川さんで会った二枚目だがね。知らねぇなんて嘘ついて、おらたちを騙したんだべ」


 竜弥は事情を知っていた。何故なら、りんの髪を結い直してやったのは誰あろう竜弥自身だからだ。髪結いの得意な彼に勇次が頼んだのだ。


 珊瑚玉の簪はもちろん勇次から贈られたもの。川越唐桟はお亮のお下がりだということも聞いている。髪結いも着付けも、すべてこの部屋で行われた。竜弥と勇次はたまに遊女の着付けを手伝うこともあったので、小袖の着付けなどはお手の物だ。


 昼夜帯は角出しで粋に仕上げた。駒下駄は山新(照降商=履物屋)のもので、これもすべからく勇次の見立てだ。身形を整えてやるとりんは、いかにも川越美人といった艶姿に変身した。


 だが、嫉妬の炎を燃やすさちにそれらを話せば火に油を注ぐであろうことは明白。


 さちは窓を閉め、無言の竜弥に抱きついた。


「ねぇ、わっちの情夫(いろ)になっておくれよ」


 竜弥は興醒めしてさちの腕を解いた。(さらし)を巻きはじめると、再びさちに抱きつかれた。


「りんの情夫なんかより、あんたの方がいい男だもん」


 ぶち切れそうになる。おまえに勇次の何がわかるというのだ、と怒鳴りつけてやりそうになるのを必死で堪えた。


「俺、嫉妬深ぇ女、嫌ぇなんだよ」


 感情を押さえながら再度さちの腕を離す。女の嫉妬は恐ろしい。ときには刃傷沙汰にまで発展する。現にほんの10日程前、三河国の赤坂宿で目の当たりにしたばかりだ。


 だが、着物を羽織る竜弥にさちはしつこく後ろから抱きついてきた。


「あんたが情夫になってくれたら嫉妬なんかしないで済むからさ。だから、お願いだよ」


 おそらく昔の竜弥だったら背負い投げしていたことだろう。しかし彼は、この2年半苦労を重ねたことで少し大人になっていた。


「他人を羨む人間ってなぁな、一つ満足してもしばらくたつとまたもっともっとって、さらに欲しがるもんなんだよ」


 さちの腕を掴んで身体から引き剥がし、燃え尽きた線香を顎で指し示す。


「もう仕舞ぇだ。帰ぇれ」


「あと1本……一切(ひときり)お直し……」


「いらねぇよ。とっとと出てけ。出てかねぇなら張っ倒すぞ、この附子」


 気に入らない女にはとことん冷たい竜弥である。世が世なら盛大に叩かれていたであろう不適切発言も平気で吐けるのだ。


 それはさておき、さちを追い出した竜弥は帯を締め終えると半纏を羽織り、散歩に出た。雪駄をチャラチャラ鳴らしながら煙管をふかし、高沢橋まで来たところで欄干に肘をつく。赤間川に映った自分の顔に、げんなりと煙交じりの溜め息を吐きかけた。


 勇次は身を固めようとしているのに、自分はいったい何をしているのだろう。実家に帰る決心もつかず、かと言ってやっと見つけた方向性も自分一人でやり遂げる自信がない。遊郭などこの世からなくなってしまえばいいと豪語したくせに、あちこちで飯盛り女と遊んでばかりいる。我ながら節操のなさに呆れるばかりだ。


 腑抜け面を赤間川に映し、煙草をまた一口吸い込み転がした。


「ちょいと兄さん、火ぃ貸しとくれ」


 聞き慣れた声に顔を上げる。背後に立っていたのは、りんを送ってきたばかりの勇次だった。


 やっぱりおめぇか、と彼の煙管に雁首を近づけてやる。勇次は上機嫌のようだ。


「どした、竜弥、時化た面しやがって。ちったぁ帰ぇってくる気になったか?」


「なんねぇよ。甚さんにあそこまで言われて、どの面下げて帰ぇれってんだ」


 その面でいいじゃねぇか、と勇次が肩に腕を回す。


「竜弥、おめぇ、いい顔になったぜ」


 竜弥は本当にいい顔になった。年末に伊左衛門のツケの催促が山のように来たのとは対照的に、竜弥のツケが一つもなかったことから察するに、実家を頼らず人足や髪結いなどで食いつないでいたのだろう。


 生まれたときからお坊ちゃまとかしずかれ、ぬるま湯の中で育ってきたただの優男が、世間の荒波に揉まれたことにより精悍(せいかん)な顔つきの男前に変貌して帰ってきたことが勇次には誇らしかった。


「昔の生意気面もいいけどよ、ちっと陰のある雰囲気出す方が女にゃモテるぜ」


 左の泣きボクロをつつき、世の中の()いも甘いも知った味のある顔になったと褒めてやる。だが、竜弥は不貞腐れたままだ。「これ以上モテたってしゃあねぇだろ」とつつかれた指を握り、端正な(かお)を向ける。


「勇次、おめぇ、変わったよな。こないだお大師様で2年半ぶりに会ったってぇのに、俺にゃ目もくれねぇで一目散にりんに駆け寄ってきゅっと抱きしめてぶちゅうううってなんだそりゃ。俺ぁ寂しかったぜ」


「ぶちゅうはしてない」


 勇次が冷静に握られた指を解く。してほしかったのか?と竜弥の頭をがっちり掴んで口づける真似をしてやると、竜弥はふいと顔を背けた。


「おめぇはいいよな。体中から幸せがだだ洩れしてやがる」


「これでもけっこう凹んでんだぜ」


 ぽつり……勇次が溜め息とも煙ともつかぬものを吐き出した。竜弥から手を離し、欄干に背をもたれる。


「そっか……。制外者だもんな、俺ら」

第37話「覚悟」です。

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