第34話 対峙
※後書きに川越城下図を載せました。参考までに。
【前回のお話】
怒り狂った甚吾郎に、自分が出奔してからのことを聞かされた竜弥は涙を流す。
そこへ勇次がやってきて、腰を抜かしたりんを抱きしめ、ようやく二人の想いが通じ合う。
彼はりんを背負い、竜弥と小久保村へ向かって歩き出した。
竜弥が重い口を開く。
「勇次が川越に来るまでどんな生き方してたのか知りたかったんだよ」
だから品川溜にいたのか、と勇次は合点がいった。
「竜弥はお坊ちゃんなんだからそんなの知る必要ねぇだろ」
「お坊ちゃんだから知りてぇんだよ。じゃなきゃ、川越の外を知ってるおめぇにゃ一生敵わねぇだろ」
「夜船で何度も江戸へ一緒に行ってるだろ」
「そうゆうことじゃねぇんだよ」
朱座遊郭で生まれた竜弥は川越城下より外の世界を知らずに育った。そんな彼が生まれて初めて出会った異界の者、それが勇次だったのだ。
自分と同い年だというのに、この世の底辺を知っている鋭い眼光に衝撃を受けざるを得なかった子供時代。達観したような涼しい眸を向けられれば、どうしようもない焦燥に駆られる。学問も、武芸も、芸事も、自分のほうが先に習い始めたというのに、あっという間に追い越された。悔しくて悔しくてたまらなかった。
だが、勇次を嫌いになれない自分にも苛立っていたのかもしれない。遊びも風呂も寝るときも、叱られるときだって片時も離れずに一緒に過ごし、競い合った竹馬の友。そんな親友のことをもっと知りたい、追いつきたいという衝動をどうしても抑えきれなかったのだ。
勇次は呆れたように吐き捨てた。
「ばっっっっかじゃねぇの、おめぇ、そんなくっだらねぇ理由で出てったのかよ」
「馬鹿で悪かったな。俺はおめぇみてぇに頭良くねぇからよ」
竜弥が赤間川の流れを見つめながら呟く。勇次はひとつ、咳払いをした。
「おめぇが帰ってきたら半殺しにしてやろうかと思ってたけどよ、馬鹿馬鹿しいからやめた」
言いたいことは腐るほどあった。何発ぶん殴ってやろうかとも考えていた。それなのに、竜弥の顔を見た途端、怒りよりも生きていてくれたことの安堵感のほうが勝ってしまったのだ。
「さっき甚さんに殺されそうになったわ」
竜弥が甚吾郎に殴られた頬に手を当てる。口元には血の跡が滲んでいた。
恐らくとどめを刺さなかったのは、竜弥を殺してしまったら勇次が本当に邑咲屋を継がなければならなくなってしまうという懸念もあったのだろう。
だがそれよりも何よりも、勇次の代わりに本気で怒ってくれた彼には感謝しかない。
「殺されなかっただけありがてぇと思え。甚さんならまじで殺りかねねぇからな」
「だな。しっかし甚さんって、まだおめぇの姉ちゃんのこと好きだったんだな」
勇次が背中のりんに「内緒だぞ」と話しかけると、彼女はいつの間にか寝落ちしていた。勇次の顔を見た安心感からか。勇次と竜弥が顔を見合わせくすりと笑う。
「なぁ勇次、昔さ、氷川さんに大工が集まって米相場の交渉してたの、覚えてるか?」
「ああ、あったな、そんなこと」
「俺さ、大工とか百姓とか、平人でもお上を動かせるんだって、ちょっと衝撃受けたっていうか……」
そのあとに勃発した百姓一揆に竜弥は合流したのではなかったのか。確か、世直し一揆などという謳い文句で武州の百姓たちを巻き込み、数十万人にも膨れ上がった大騒動だ。
「世直し一揆のやつら、鎮められたあとどうなったんだ?」
「あ? 俺が知るわけねぇだろ」
「合流したんじゃなかったのか?」
「んなわきゃねーだろ、ばーか。10万人以上もいたら目立てねぇだろが」
この無責任な発言、少し前までなら怒っていただろうが、今回は少々引っ掛かりを覚えた。目立たなければならぬ理由があったのか。もしや、こいつは真面目に世の中を変えようなどという大それたことを考えていたのではないか。そのために自分は今何を為すべきか、自分にできることはなんなのか、それを探すために川越を出ていったというのか。
「にしても、朱座も変わんねぇな」
竜弥が溜め息みたいな白い息を吐く。
「変わっちまったら行き場のねぇ制外者はどこで生きろってんだよ」
「だからって遊郭である必要はねぇだろ」
「は?」
高沢橋を渡り切ったところで勇次が立ち止まり、竜弥を凝視した。
「な、なんだよ」
「竜弥、おめぇ…………熱でもあんじゃねぇのか?」
少し間を置き、竜弥が真顔で勇次を見つめ返す。
「勇次、知ってるか? 弾左衛門が平人に引き上げられたって話」
「ああ、ご楼主から聞いたよ」
朱座はかくし閭であるがゆえ、そのとき勇次はさほど気にも留めていなかった。傾城屋が弾左衛門の支配下であろうとなかろうと、遊神の結界に守られている限り朱座には何ら影響を及ぼすものとは思われなかったからだ。
だが、りんへの想いが深くなればなるほど、この問題が自分にとっても他人事ではいられなくなってしまった。
竜弥もまた、勇次とは違う角度からこの問題と向き合おうとしていた。京で紀州藩士の陸奥陽之助を名乗る男に出会い、自分がずっと抱いてきた違和感の正体が朧げながら見えてきたのである。
「遊神の……」
後に続く名を口にできない竜弥を勇次は逃さなかった。
「遊神がどうしたって?」
「いや、なんでもない。俺、今夜は石原宿に泊まるからここで別れよう」
竜弥は旅人宿に向かって歩き出した。茜色に溶け込む輪郭はいかにも淋し気だ。
「あんまり待たせるなよ」
その言葉に竜弥が立ち止まる。
——まだ待っていてくれたのか。
下を向き、しばらく考え込んだかと思うと彼は振り返った。
「おふくろの三回忌っていつだ?」
「来月の上旬」
わかった、とだけ答えて旅人宿『大和屋』の暖簾をくぐる竜弥の横顔を勇次は見つめた。
竜弥は何を思っているのだろうか。以前は親友の気持ちが手に取るようにわかったのに、2年半という年月がそれを鈍らせてしまったみたいだ。
ただ一つ言えることは、彼は何かに気づいてしまったのではないかということ。いつも近くに居過ぎて見えなくなっていたのかもしれない親友の心の闇。それがなんなのか、今の自分には知り得ない。
竜弥が肌で感じ取っていた時代のうねりに勇次が気づくには、今少し時間を要するのだった。
竜弥と別れ、石原宿を奥まで行くと左側に水茶屋『和泉屋』が見えてきた。暖簾は掛けられていない。
熊次郎から一連の騒動を聞いていたお陰で驚きはしなかったが、その代わり、お志摩の行方が気になった。10両などはどうでもいい。それよりも二度とりんに関わってこないでほしいと願うばかりだ。
小久保村に入ると、並ぶ百姓家の中で一際目を引く屋敷が見えてきた。そこで、りんが目を覚ました。
「あっ、おら、寝ちまったべな。もう大丈夫だに降ろしてけぇ」
「もう少し、このまま」
そのほうがあったかいだろ、と勇次の横顔が微笑んでいる。りんは両手を勇次の鎖骨の前でぎゅっと結び、こてんと頭を預けた。互いの心の温もりを確かめ合う。言葉はなくとも、すべてを許し合えたことはもうわかっていた。
「おー、富士山、綺麗だなぁ」
勇次が感嘆の声を上げ、畦道で立ち止まった。丹沢山地の少し右寄りに夕陽を置き、日本一の山容がくっきりと浮かび上がる。所々に棚引く雲も、画を引き立たせた。
いつもと同じだ——とは思いつつ、りんも夕景の富士に魅入っていた。いつもの見慣れた風景が、二人で見るとこれほどまでに美しくなるものなのか。
——おら、やっぱりこの人のことが好きだべな。
今ならはっきりとわかる。誰に訊かれても堂々と答えられる。自分の気持ちに正直になれる。
しばし二人で絶景を堪能していると、村一番のお屋敷から長い影が一つ伸びてきた。影の持ち主が歩み寄ってくる。
「庄之助さんだべ」
りんがやっぱり降りると言ったので、勇次は仕方なしに降ろしてやった。袖に手を入れ腕を組み、庄之助を待つ。彼は何故か木刀を二本持っていた。
「りん、まだその男と付き合ってたのか?」
「おらがお大師様で腰抜かしてたに送ってくれただけだがね」
「お大師様って小仙波村じゃねぇか。まさかおめぇ、朱座行ったのか?」
「花魁、初めて見たべ。えら綺麗だったぞ。この世のものとは思えねぇな」
りんが目を輝かせると、庄之助は苦笑いした。
「あのな、りん。“秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず”って言葉があってな」
「秘すれば花、秘せずは……?」
りんが首を傾げる。庄之助は諭すように語りはじめた。
「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。芸や演出は舞台が始まるまで内緒にしておけば、それを初めて観た客に感動を与えることができるってからくりだ。つまり、さしたることのないものでも、隠していればそれ以上によく見えるってことだべ。朱座もそうだぞ。普段は隠されてて見えねぇもんだから、いざ初めて見たときには大したことなくてもよく見えちまうんだ」
したり顔で解説する庄之助に疑問を投げかけたのは、りんではなく勇次だった。
「ならば、なぜ人は何度も芝居を見に行くんだ? なぜ男は何度も遊郭に通うんだ?」
その理論で言えば、一度明かした手の内は二度と賛辞を受けないことになるはずだ。なのに何故同じ演目の芝居が繰り返されたり、同じ遊郭で、同じ遊女に春を求めたりするのだろうか。
男だけではない。遊郭は煌びやかな世界や乞胸たちの大道芸などを楽しみに家族連れも多く訪れる観光施設でもある。それも一度限りではなく、あの歓楽を忘れられずに二度三度と訪れる観光客も少なくない。
答えに詰まる庄之助に勇次が問う。
「世阿弥の芸はさしたることのねぇ代物なのか? そうじゃねぇよな。1回で見飽きるような芸なら、後の世まで『風姿花伝』が受け継がれるはずねぇもんな」
「驚いたな。花伝書を知っているのか」
庄之助は勇次を刮目した。りんも瞬きせずに勇次を見つめる。勇次は庄之助に詰め寄った。
「師に問う。能に花を知る事、この條々を見るに、無上の第一なり。肝要なり。または不審なり。これ、いかにとして心得べきや」
「……っ」
「確かに秘する花は美しい。美しい花を咲かせるための工夫、それが能の極意だ。だがおかしな点もある。これはどう解釈したらいいんだ?」
じり……と一歩、勇次が間合いを詰める。
「庄之助先生、教えてくんなんし。師の答えやいかに」
「お、俺は、能は門外漢だ。そこまで詳しくはない」
「だったら何も知らねぇもんつかまえて偉そうに能書きたれんじゃねぇ!」
勇次に気圧され、庄之助は掌の汗を握りしめた。勇次が再び静かに語る。




