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非公許遊郭かくし閭(ざと) 巻の壱《制外者編》  作者: 阿羅田しい
第7章 照降雨(てりふりあめ)
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第26話 裏腹な心

今回から第7章「照降雨てりふりあめ」に入ります。


【前回のお話】

 三河国の飯盛旅籠で事件に巻き込まれた竜弥は、一日早い出立を余儀なくされる。

 一方の朱座遊郭では、勇次と孔雀が竜弥の話をしていた。

 正月3日。冷たい霧雨が音もなく肩を濡らす午後、湿った下駄の音が札の辻で止まった。


 雪駄直しの男が近くの軒を借りて「でいでい」と(うた)いながら客を待っている。


「よかったぁ。雨だからいねぇかと思ったぜ」


「そろそろ来る頃じゃねぇかと思ってな」


 雪駄直しは深めに被った編み笠を少しだけ上げ、細い目をのぞかせた。勇次が差し出した雪駄を受け取ると、裏をちらりと一見(いっけん)しただけでベタガネが少々ずれているようだと言った。


「明日から7日間、振新のお披露目があるからよ、それがねぇと困るんだよ」


 新年を迎え15歳になった胡蝶の新造出しは、引手茶屋と往復するだけの花魁道中とは違い、遊郭街を一周しながら挨拶回りをする。花魁道中だけでも往復で一刻かかるのに、郭内一周ともなれば半日がかりの大仕事。続けて太客や馴染み客を迎えての宴会と、一日がかりの忙しさが7日間続く。


 道中は履き慣れた雪駄で歩くつもりであったが履き心地に違和感を覚え、こうして雪駄直しのところへやってきたのである。


「最近はベタガネを外す客が増えてきてよ……」


 道具箱から(くじ)りを取り出しながら雪駄直しはこぼした。滑るだの道が傷つくだの、挙句にゃチャラチャラ(うるさ)くてガラが悪ぃだのと、そんなの今に始まったことじゃねぇやい、と(いきどお)る。


 火消しや職人たちが愛用していた雪駄は「粋」という日本文化の一つでもあったが、明治維新で異国の価値観に感化され、次第に姿を消してゆくことになる。


 勇次は「まぁまぁ」と彼をなだめ、道すがら買った焼き芋を1本くれてやった。あちちと眉をひそめながらも雪駄直しは嬉しそうに受け取った。


「半(とき)ほどかかるがいいかい?」


 雪駄直しの問いに勇次は「もちろん」とにっこり微笑んだ。その間、そこら辺をぷらぷらしてくると言い残し、西へと向かう。


 無意識か意識的か、気づくと高沢橋の(たもと)まで来ていた。いいや、意識してのことだろう。それが証拠に焼き芋を4本も買ってしまった。内1本を雪駄直しにくれてやったから残りは3本。


 一旦立ち止まり、赤間川の向こうに見える石原宿を望む。りんには12日に会いに来ると約束をしたが、やはりそれまで待てずについ足が向いてしまったのだ。


 家は教えてもらったので、そちらへ向かって再び歩き出す。雨だから畑にはいないかもな、ならば家の中にいるか、それでは会えないな、などと勝手な思いを巡らせながら歩いていると、年越しの夜に別れた辺りにいることに気づいた。


 雨の畦道で一人、焼き芋の入った袋を抱えて立ち尽くす男の姿はさぞや滑稽(こっけい)なことであろう。


 番傘を持つ手が冷たい。やっぱり馬鹿だ俺は、と自虐気味な笑みを浮かべて踵を返そうとしたそのとき、村落で一際小さな家から出てくるりんの姿を見止めた。


 ——神様!


 天は我を見放してはいなかった。両手が(ふさ)がっているので心の中で二礼二拍手一礼、そして神恩感謝と3回唱える。


 彼女は家から離れた共同井戸へと向かっているようだ。驚かせないよう近づいた。


「りん」


 井戸をのぞき込むりんに傘を差しかけてやる。と、彼女は驚いたように振り返った。やはり驚かせてしまった。


「勇次さん、あんしてここに?」


 次に来られるのは12日とのことだったはず。すっかり油断していたりんは完全に動揺した。


「札の辻まで用があって来たんだけどよ、急におめぇの顔が見たくなってな」


「顔……」


 りんは咄嗟に両手で顔を隠した。勇次にはこんな仕草も可愛くて可愛くて仕方がない。だが、りんは違った。真冬の乾燥した空気でガサガサの頬と荒れ放題の唇、こんな顔で今まで会っていたことが恥ずかしくてたまらない。


 ああ、乱れた髪を隠す手拭いを置いてきてしまった。どうしようと困り果てていると、頬を覆っていたあかぎれだらけの手に温かい袋が押し当てられた。


 焼き芋の芳醇な香りにつられて両手を少し下ろす。そーっと目だけをのぞかせると、いつもの穏やかな笑顔がそこにあった。


(ぬく)とい……」


 優しい温もりに思わず本音がこぼれる。


「冷めねぇうちに食え」


 年が明けても変わらない優しさ。だが、今のりんにはそれさえも痛い。


「いい。腹減ってねぇだに」


 ふいっと顔を背ける。と同時に腹がきゅるきゅると鳴った。勇次がくすくす笑う。りんは顔を真っ赤にして背を向けた。


「どした? 元気ねぇな。また親父さんと喧嘩したか?」


 心配そうにのぞき込む勇次の顔がますます見られない。


 勇次は、口吸いしたばかりで照れてるのかな、ぐらいにしか思わずさほど気にも留めなかった。うつむくりんに「親父さんと食え」と焼き芋の袋を強引に持たせる。


 袋の中の焼き芋は3本。家族分の気遣いにりんの胸は熱くなった。顔を伏せたまま勇気を出して告げる。


「もう、優しくしないでけぇ」


「ん?」


 怪訝な面持ちで勇次が腰をかがめる。近づく顔となるべく目を合わせないよう、りんは続けた。


「やっぱり、勇次さんとおらじゃ釣り合わねぇべ」


「あ? おめ……なに言ってんだ?」


「だっておら、チビスケだし、白粉(おしろい)塗ってねぇから顔汚ねぇし、綺麗な振袖着てねぇし、(かんざし)も挿してねぇし……」


 自分でも何を言っているのかわからなくなってきたが、元日に氷川神社で勇次に寄り添っていた女性が記憶を(かす)め、あらぬことを口走っていた。


「意味わかんねぇ。りん、なんかあったのか?」


「別になにもなかんべ。ただそう思っただけだがね」


 えへへ、と無理に笑顔を作り、帰ろうと足を踏み出したりんの腕を勇次が捕まえる。


「おいおいおい、ちょっと待てって。今日のおめぇ、なんか変だぞ。俺、なんかしたか? なんかしたんなら教えてくんなきゃ謝りようがねぇだろ」


 戸惑う勇次に、りんはようやく向き合った。


「あんまり優しくされると勘違いするべ。勘違いしたら恥じこいべ」


「何が勘違いなんだよ?」


 掴まれた腕を振り解く。


「触らないでけぇ。おらに触りたかったら飯盛旅籠でお金払ってくらっしぇ」


「……⁉」


 勇次は予想だにしなかった展開に一瞬言葉を失った。が、すぐに気を取り直して食い下がる。


「随分つれねぇなぁ。こないだと全然態度が違ぇじゃねぇかよ。理由(わけ)を話せ、理由を」


「……」


「黙ってたんじゃわかんねぇぞ」


 りんは黙りこくったまま勇次の顔を見ようともしない。勇次はふうっと白い息を吐いた。


「わかったよ。じゃあ、もう飯盛旅籠以外じゃ会わねぇよ」


 目をぎゅっと瞑ってりんはゆっくりと頷いた。


「本当にそれでいいんだな?」


 勇次が念押しすると目を開け、今度は唇を噛みしめて頷いた。りんは最後まで目を合わせようとせず、一人走り去ってしまった。


 追いかけようにも驚きのあまり足が動かない。悄然と小さな背中を見送っていると、りんの周りに村娘が数人集まってきたのが見えた。近くのクヌギに身を隠す。雨がいつの間にか止んでいたことに気づき、傘を閉じた。木陰からそっと顔を出し彼女らを垣間見る。きゃあきゃあ騒ぐ姿はまだあどけない少女だ。


 ——釣り合わねぇ……か。


 りんの言葉の意味を考える。身分だろうか。いや、彼女は見た目のことを言っていた。ならば年の差だろうか。確かにりんから見たら自分はおっさんだ。うん、釣り合わない。


 ——えええ?


 愕然とその場にしゃがみこみ、うなだれる。


 ――いや、でも、まぁ、そうなのか、しかし、待てよ、いや、やっぱり……。


 うーんと唸ってみても正答は見つからない。次第に遠ざかってゆく少女たちのはしゃぎ声を背中に聞き、勇次はしばしその場で落ち込んだ。






 りんを取り囲んでいたのは元日に氷川神社へ連れ立って行った村娘たちだ。どうやらりんが勇次と話している場面を目撃していたらしい。


「りん、今の人、氷川さんにいた人じゃなかんべ?」


「おら、知らねぇ。道訊かれただけだに」


「嘘だぁ。焼き芋もらってたべ」


「道教えてやったお礼にくれただけだべ」


 じゃあちょうだいちょうだいと娘たちが焼き芋に手を伸ばした。


「だめっ!」


 りんは反射的に焼き芋を抱きしめた。びっくりする娘らを見てはっとする。勇次が自分のためにくれた焼き芋を誰にも触られたくなかったのだ。自分の気持ちに戸惑いながらも父用に1本だけ残し、あとの2本を彼女らと分け合った。


「さっちゃん、その(こうがい)、綺麗だべな」


 りんと同い年のきぬが焼き芋を頬張りながら、さちの島田髷に挿してある笄を目ざとく見つけた。さちがしたり顔でにやっと笑う。りんも彼女をまじまじと見つめた。笄だけではない。髪もいつもよりきれいに結い直してあるし、着物も野良着ではなく小紋の小袖だ。


「実はさち、去年の暮れから飯盛り女やってたんだべ」


 なつがさちの代わりに答えた。きぬは、ええっ!と驚愕の声を上げりんにしがみついた。りんは焼き芋を喉に詰まらせそうになった。


 さちが「お客さんが買ってくれたべ」と自慢げに鼻をつんと上に向ける。聞けば、客に買ってもらったのは笄だけで、小袖や髪結いの代金は飯盛り女で稼いだ金で購入したとのこと。着物は中古だから値の張るものではない。


「そんなに儲かるべな?」


 きぬが目を真ん丸くする。さちは白粉と紅も買えるべと一笑した。


「あんたらも綺麗になりたかったら飯盛り女やればよかんべ」


 そろそろ仕事だからと言って立ち上がり、石原宿の方へと去っていくさちの後ろ姿を3人が見送る。


 貫太とはやはり1回きりで終わったのだろう。飯盛り女になったのは寂しさを埋めるためなのか、それとも綺麗になって見返してやりたいとの悔し紛れからか。


 いずれにせよ、さち一人がどんどん大人になっていくようで距離を感じた。


「けんど、おらは嫌だな。知らねぇ男の人に股触られるの」


 なつが呟く。きぬも、んだべ、と大きく頷いた。りんはドキドキ騒がしい小さな胸を必死で押さえている。想像しただけでもおぞましい。


 しかし、と氷川神社での出来事を振り返る。あの日、3人から教えられた男女の行為。勇次に寄り添っていた美しい女性。2人がそのような関係になっているなんて考えたくもない。


 りんは心の奥から湧き上がってくる得体の知れない感情に気づいた。それはとても醜くて、嫌悪すべき黒淵。引きずり込もうとする何ものかに必死で(あらが)おうとするも、とてつもない力で捕えられている。自分の力ではどうにも振り払えないほどの巨魁(きょかい)


 恐怖のあまり思わず焼き芋をぎゅっと握りしめる。りんの異変になつが気づいた。


「りん、あんした? 顔色悪いべ。もう帰った方がよかんべ」


 うん……と頷き、りんは帰ることにした。1本だけ残された焼き芋はすでに冷めていた。






「なんだい、暗い顔して。また振られたのかい? もうすぐ夜見世開ける時間なんだから、そんな顔で客引きなんかされちゃ困るよ」


 帰ってくるなり裏口の縁台で頭を抱え込んだ勇次に、姉お亮が情け容赦ない言葉を浴びせた。

次回は第27話「厳しい現実」です。

勇次の悩みは続きます。

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