表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/48

第25話 雨に打たれて

※残酷な描写があります。ご注意ください。


【前回のお話】

 村の名主家へ奉公することになったりんは、勇次への想いを断ち切ろうとする。

 その頃、竜弥は三河国の飯盛旅籠にいた。

 勢いよく開け放たれた障子の前で、一人の女が包丁を持って立っていた。


 何事かとほかの部屋にいた客たちが廊下に顔を出す。びびる飯盛り女の横で竜弥は何食わぬ顔で羽織を羽織った。遊郭では珍しくもない出来事、竜弥にとっては慣れっこの光景だ。


「ふん、そんなもん持って、どうせ張ったりだら」


 震える声で飯盛り女が言い返す。襟を整えながら竜弥はかすれた声でささやいた。


「あの女、本気(まじ)だぜ。見てみな。刃が上向いてる」


 刃が下を向いているときは一時的に頭に血が昇っているだけであるが、上を向いているのは意外と冷静で明らかな殺意がある。


 ——危ねぇな、あの女。


 竜弥の忠告に飯盛り女が震え上がる。彼女に「ここから動くな」と命じ、竜弥は包丁女に向かって歩き出した。


「どきん! 往生こくに!」


 やあっ!と大声を張り上げて女が竜弥に襲い掛かる。竜弥は易々と女の包丁を握った手を掴んだ。()じり上げられた女の手から包丁が滑り落ちる。それと同時に竜弥の拳が女のみぞおちに入った。


 がっくりと女がその場に崩れ落ちる。これでしばらくは大人しくなるだろう。あとは旅籠の手代を呼んで後を託せば……と考えていたそのときだ。


 何を思ったか飯盛り女が包丁を拾い上げ、倒れた女の背中に突き刺した。


 ——しまった!


 さすがの竜弥も油断していたようだ。まさか飯盛り女がこのような大胆な行動に出るとは想定外。2年半現場から離れていたせいで勘が鈍ったか。


 見ると刃の向きは横を向いている。竜弥は悩まし気に顔を左右に振った。


「抜くな。そのままにしとけ。いいか。役人が来たら、ハゲた小太りのじいさんが逃げてった、とでも言っとけ。わかったな」


 気が動転している飯盛り女に耳打ちし、刺さったままの包丁から彼女の手を剥してやる。これ以外に彼女を救ってやる手立ては生憎(あいにく)持ち合わせていない。


 竜弥は素早く窓を開け、高欄をまたぎ、(ひさし)の上に飛び乗った。ちょうど同心と岡っ引きが旅籠に駆け込んでくるのが目に入った。窓の外からそっと部屋の中を垣間見る。


「これは何事だ⁉ 下手人はどこ行った?」


「こ、こぶとりじいさんがハゲてた……」


 飯盛り女の答えに、竜弥は庇からずり落ちそうになった。しかし――。


「下手人はこぶのある坊主だ! 追え!」


 役人が岡っ引きに命じる。馬鹿ばっかで助かった、と竜弥は胸を撫で下ろした。それから旅籠から岡っ引きが走り出していくのを見届け、飛び降りると、彼らとは反対方向に向かって逃げていった。


 それにつけても、女の思考回路は幾つになっても解せない。遊郭に生まれ、数多の女に囲まれて育った竜弥ですら、時々女のことがわからなくなる。相手の女を抹殺したところで男が手に入るとは限らないのに。いや、十中八九、入らない。


 雨はまだ降っているが、とりあえず三河国から出ることにする。予定より一日早い出立になってしまったことは気に入らないが、こうなってしまった以上は仕方がない。


 「ちっ」と舌打ちをし、竜弥は降りしきる雨の中、びちゃびちゃと消えていった。






 夜半から降り出した雨が、しとしとと傘からはみ出た肩を湿らせる。


 孔雀が濡れないよう、勇次は自分が濡れるのも(いと)わずに傘を彼女の方へと寄せた。


 3日の明け六ツ(午前6時頃)、大門の向こう側の現世うつしよへと帰ってゆく綿貫徳隆の背中を見送りながら、二人しばらく雨にそぼ濡れていた。


 徳隆は狭山の豪商山下屋の御曹司だ。三が日は年賀の挨拶に来る客人の応対で多忙にもかかわらず、無理矢理時間を捻出し、登楼してくれた。胡蝶の振袖新造昇進に掛かる費用もすべて負担してくれた。邑咲屋にとってなくてはならない太客である以上に、孔雀を大切にしてくれる男でもあるがゆえ感謝しなければならない。


 それはわかっているのだが……。


「孔雀、おめぇ、人間に戻りたいって思ったことねぇのか?」


 勇次の問いを孔雀は一笑に付した。愚問とでも言いたげだ。


「何度もあるさ。けど、わっちら遊神がどうしたら人間に戻れるか、勇さんだって知ってるだろ?」


 ああ、と勇次が頷く。遊神が人間に戻る方法はただ一つ、真に惚れ合った相手と契りを交わすこと——。


「でもさ、男と女ってそう易々と上手くいくもんじゃないんだよねぇ」


 400年以上も生きていれば、そのような感情を持つ相手に出会わないはずがない。だが、相思相愛だと思っていた相手と契りを交わしても、人間に戻れた(ためし)はなかった。それは真に惚れ合っていなかったということなのだろうか。


「真に惚れ合うってどういうことなんだろうな?」


 勇次が首を傾げる。孔雀も首を傾げた。


「すべてを投げ出せる……ってことかな?」


「命も、か?」


 たぶんね、と孔雀は微笑んだ。


 駆け落ちや心中をする者たちは命も惜しくないほど互いを想い合っているということか。来世で結ばれることをどれほど固く誓い合ったとしてもその保証はないというのに、遊郭では心中事件が後を絶たない。ましてや片方だけが生き残ってしまったら末路は悲惨極まりないものだ。


「俺は死にたくねぇな。死んじまったら相手を守れねぇだろ」


 ぽつりと漏らす勇次の肩に孔雀が手を置き直す。


「その子、そんなに守りたい相手なのかい?」


 この世に未練などなく、いつ死んでもいいというような空気をまとっていた勇次が、たった10日足らずで声色に劇的な変化をもたらした。それは(まご)うことなく、りんと出会ったからに他ならない。


「会ってみたいねぇ、勇さんが真に惚れた、そのりんって子に」


「見えねぇんだから会ってもしょうがねぇだろ」


「馬鹿におしでないよ。見えないからこそ人間の本性がわかるのさ」


 確かに、と勇次は苦笑いし、問い返した。


「じゃあ、おめぇは竜弥のどこに惚れたんだ?」


 竜弥は誰もが認める容姿端麗の色男だ。夜空に一際目立つ極北の星のように、男女の別なくすれ違った者が皆振り返り、二度見するほどの色彩を放っている。生まれついての一番星を持っているとしか思えない。


 その華のある美しさを瞳に映すことなく、孔雀は竜弥に惚れた。勇次はその理由(わけ)を訊かずにはいられなかった。


「声……かな?」


 孔雀が呟く。確かに竜弥の声は色のあるかすれ声が特徴だ。


「声だけか?」


 続く問いかけに少し考えてから答える。


「生意気で、意地悪で、わがままで、口が悪くて……」


 いいとこねぇじゃねぇか、と勇次が笑うと、うん、と孔雀は続けた。


「負けず嫌いで、頑張り屋さんで、泣き虫で、寂しがり屋で……」


 勇次は頷きながら聞いていた。


「ねぇ、知ってるかい? 竜さん、子供の頃ね、学問も武術も芸事も、あとから来た勇さんにすぐ追い抜かれちまって、何やっても(かな)わないって、わっちのとこ来て毎日泣いてたんだよ」


 初めて聞く竜弥の裏の顔だ。だが、妙に納得する。


「あいつ、俺には弱みを見せたがらなかったからな」


 おまけに母親が勇次の方を可愛がっているのではないかと心配していたらしい。そんな様が愛しくて慰めていた少年が、声変わりし、次第に泣かなくなってきたことに孔雀はやがて気づいた。そして、いつしか男として意識するようになったのだという。


「遊女たちにぶっきらぼうなのは照れ隠しなのさ。本当はいつも遊女たちの身を案じている心根の優しい人なんだよ」


 竜弥は雇われ人たちにも厳しかったから内部では嫌われていた。跡取りという立場がそうさせているのだろうことは勇次も勘付いていた。自分も同じ立場になってさらに竜弥の苦悩を理解できたのだ。


 そんな立場上、遊女との色恋沙汰はご法度という掟を破るわけにはいかない。傾城屋の抱え主の中には遊女に手を出す不届き者もいるが、竜弥は存外真面目な性格なので禁を犯すことはできない人間だった。


 故にどれほど孔雀に愛されたところで、彼女と契りを結ぶことはできなかったのだろう。


 ——苦しかっただろうな。


 彼女の愛に応えたくても応えられない心苦しさ、自分では人間に戻してやれないもどかしさに耐え兼ね、彼は出ていったのだろうか。


「わっちのせいだね」


「うーん。上手く言えねぇけど、微妙に違う気がする」


 とは言ったものの、この違和感をどう説明したらいいのかわからない。もちろんそれもあるだろうが、それだけではない気がするのもまた事実。


「なら、やっぱり3年前のあれかねぇ?」


 3年前のあれとは、水戸の遊説(ゆうぜい)使だったという一見(いちげん)の客が登楼したときのことだ。勇次はあまり印象に残っていなかったが、その客が語る坂本龍馬という土佐者の話に、竜弥が強烈に食いついていたのはよく憶えている。


「あの客が坂本龍馬とかいう男を初めて見たとき、この男は海を越えて異国に飛び出して行きそうだと直感したって言ってたな」


 ほかの者は坂本のことを「事情迂闊、何も不知(しらず)とぞ」と酷評していたが、その客一人だけが坂本の瞳の奥にただならぬものを感じたと言っていた。


「竜さん、まさか土佐まで行ってやしないよね……」


 独り言みたいな孔雀の問いに、勇次は答えられなかった。そんな勇次の様子に気づき、孔雀が水を向ける。


「勇さんのほうはどうするんだい?」


 人別帳に戻るためお染と夫婦になるのか、それとも——。


「りんに制外者になってくれなんて言えねぇよ」


 口ではそう言いながら、あきらめきれない自分もいる。


「悩めばいいじゃないか。悩んで悩んで悩んで。そうしないと自分の本当の気持ちなんて見えてきやしないよ」


「本当の気持ちか……」


 勇次は傘から滴り落ちる雨垂れを見つめた。


「あ、本当の気持ちはとっくにわかってるか」


 孔雀に見透かされ、またも苦笑する。


 本当の気持ちは自分でもわかっていた。だが、りんを自分の世界に引きずり込んで良いものか、その葛藤に苦しんでいるのだ。


 二人はそれきり何も話さなかった。踵を返し、そぼ降る雨の中、邑咲屋へと帰っていった。

次回から第7章「照降雨てりふりあめ)」に入ります。

第26話は「裏腹な心」です。

素直になれないときって、あるんですよねぇ。


【一口メモ】

振袖新造の衣装代などお披露目費用は姉女郎がすべて負担します。

花魁といえどもその費用をすべて捻出することはできないので、太客に出してもらっていました。

そんなわけで花魁になってもなかなか借金は減らなかったようです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ