第23話 お染の提案
【前回のお話】
幼馴染たちと氷川神社を訪れたりんは、そこで許嫁と寄り添う勇次を目撃してしまう。
ショックを受けたりんは本殿裏手へと走る。
なぜかりんが気になる勇次も本殿裏手へと向かった。
氷川神社の裏には新河岸川が流れている。彼はそこまで出て、辺りを見回した。りんはいない。対岸の向こう側には休田が広がっている。もしりんがいるならすぐにわかるだろう。だが、そこにもりんの姿を見つけることはできなかった。
「りん!」
叫んではみたものの、休田にこだまが虚しく響くばかり。溜め息をつきながら氷川橋の欄干に腕を置き、川面をのぞき込む。
出会った日から彼女のことを考えなかった日は一日たりともない。それどころか四六時中考えている始末だ。あまりに考えすぎて、空耳まで聞こえるようになってしまったのだろうか。
——いかれてんな、俺。
昨夜会ったばかりなのに、もう会いたい。出会ってからまだ6日しか経っていないというのに、こんなにもりんのことを想っている自分にあきれるばかりだ。
ついにぶっ壊れちまったか、と苦笑いする。そこへお染が下男を伴って追ってきた。
「お嬢さん、お神楽殿のとこで待っててくれと言ったはず……」
「だって、片時だって勇次さんと離れたくないんだもの」
氷川橋の真ん中で、お染は勇次の腕にぎゅうっとしがみついた。
橋の袂にいる下男がわざとらしく目を背ける。勇次はすぐに「人目がありますから」と彼女の腕を外した。口を尖らせるお染はあざとさが見え見えで可愛くない、どころか苛立ちさえ覚える。
「ねぇ、勇次さん。祝言いつにする? そろそろ日取り決めないと」
「そういう話は、先代の女将さんの三回忌が済んでからにしておくんなせぇ」
竜弥の母親である先代女将の命日が来月上旬に迫っている。昨年の一周忌に竜弥の姿はなかった。三回忌を迎える今年、またも竜弥が帰ってこなかったら、自分が跡取りとして姉と共に法事を取り仕切らねばならない。妓楼主の伊左衛門は我関せずだからだ。
「じゃあ、それが終わったらいつでも祝言挙げられるように、今から花嫁衣裳の仕立てをお願いしておくわね」
反物は近江屋さんに注文しようかしら、草履は山新さん、簪は……などとひとりで夢語りをしているお染を勇次は冷めた目で見ていた。
「お嬢さん、本当に俺でいいんですかい?」
「当たり前じゃない。ああ、早く勇次さんと一緒になりたいわ」
両手を組んで頬に当て、うっとりと見つめてくるお染を見据え、勇次は訊ねた。
「だったら俺と一緒に制外者になる覚悟は、もちろんおありなんでしょうね?」
彼の問いにお染はきょとんとしてから、ころころと笑った。
「あらやだ、勇次さんたら。そんなこと気にしていたの? 心配しないで。私は制外者にはならないから」
「そんなわけには……」
「おとっつぁんがね、お役人に根回ししてくれるって。だから勇次さんは何も心配しなくていいのよ」
彼女が言うには、人別帳を管理する役人に賄賂を渡し、自分を人別帳から外さないで済むよう父親が画策しているとのことだ。言うまでもなく、人一人の人生を左右する人別帳を改竄するのだから何十両で済む話ではない。大店の船問屋だからこそできる離れ業だ。
「いやいや、金の問題じゃなくて、夫婦が揃って人別帳に載らねぇってのはおかしかねぇですか?」
勇次が食い下がると、お染はにこにこしながら告げた。
「そうよ。だからおとっつぁんはね、勇次さんも人別帳に戻すって言ってくれたのよ」
「……!」
人別帳に戻してくれる——。自分が人別帳に戻れる可能性を示唆され、勇次は驚愕の眼を開いた。
お染はふふ……と笑みを浮かべ、勇次の厚い胸板に飛び込んだ。
「私と一緒になれば、勇次さんは人別帳に戻れるのよ」
その言葉に勇次は頭が混乱した。彼女を抱きつかせたまま、氷川橋の上でしばらく立ち尽くす。
——お染と一緒になれば人別帳に戻れる……のか?
思いもかけなかった誘惑に逡巡する。勇次はお染の肩に手を置いた。
貧困、一家離散、無理心中、非人溜、人身売買、遊郭、そして制外者——。筆舌に尽くし難い辛苦が走馬灯のようにぐるぐると駆け回っている。だが、今ここで考えていても結論は出せない。
ゆっくりとお染の身体を引き剥す。
「お父様がご心配なさるといけないのでそろそろ帰りましょう。扇河岸まで送ります」
駕籠舁を待たせてあるのだから彼らに任せればいいものを、何故送ると言ってしまったのだろう。少しでも心証を良くしようという下心からか。
人別帳に戻れるという衝撃的な提案に、勇次の心は揺れに揺れていたのかもしれない。
チャラチャラというベタガネの音が遠ざかってゆく。やがてそれが聞こえなくなったところで、りんは氷川橋の下から顔をのぞかせた。
土手に両手をつき、川面に自分の姿を映す。ボサボサのつぶし島田、真っ赤な頬、つぎはぎだらけの着物。
勇次の隣にいた女性は島田髷にキラキラ揺れる簪を挿していた。振袖も牡丹が見事に咲いた柄で、きめ細かな肌には白粉と紅が綺麗に乗っていた。
川面に映った自分の姿を見ていると、とてつもなく惨めな気持ちになる。
あかぎれだらけの指で唇をなぞれば、かさついて皮がめくれあがっている。こんな手で手をつなぎ、こんな唇で口づけを交わしたのか。天にも昇る夢見心地で幸せ気分に浸っていたのは自分だけだったのだ。
現実に打ちのめされたりんは、舞い上がっていた6日間を恥じた。
そうだ、たったの6日。まだ出会って6日しか経っていないのに、あんな綺麗な大人の男性が自分みたいな小汚い娘を本気で相手にするはずがなかったのだ。最初から遊びだったということに、なぜ気づかなかったのだろう。
川面に小さな円ができた。ひとつ、ふたつ、みっつ……。
勇次と出会ってから泣いてばかりいる。一緒にいるときは楽しくて嬉しくてしょうがないのに、離れているときは無性に切なくなる。人を好きになるというのはこれほどまでに苦しく、心を不安にさせるものなのか。
庄之助が嫁を娶ったときにはここまで悲しくはなかった。なのに、勇次がほかの女と一緒にいるところを見ただけで胸が張り裂けそうになる。
出会わなければよかった——。ふとそんな馬鹿げた思いがよぎる。
出会ったことによって今まで知らなかった世界を知ることができたのだから感謝しなければならないはず。彼のお陰で少し大人になれたことは喜ばしいのに、何故胸がチクチクするのだろう。何故こんなにつらいのだろう。こんな苦しい思いをするくらいなら、ずっと子供のままでいたかった。
——さちに意地悪しようとしたから罰が当たったべな。
意趣返しなどと良からぬことを企んだから、きっと氷川の神様が怒ったのだ。
惨めで、情けなくて、恥ずかしくて、りんはしばらく氷川橋の真下でむせび泣いていた。
遊郭の休みは元日と盆のみの年2回。貴重な休みを遊女たちや若い衆らは思い思いに過ごしている。
だが、抱え主側はそうはいかない。今日すでに何軒か年始回りを済ませている。帰ってからは、明日からまたしばらく続く挨拶回りに備えてのんびり体を休めていた。
「おまえさん、勇次の縁談のことですけど」
お亮が夫伊左衛門に屠蘇を注ぎながら切り出す。機嫌よく過ごしてくれている今が良い頃合いと見た。
「なんとか、お断りできませんかねぇ?」
伊左衛門の表情がやにわに曇り出した。怒り出す前にお亮が畳みかける。
「いえね、井筒屋さんのお嬢さん、制外者にはなりたくないってごねているらしいんですよ」
もちろんお亮は勇次が乗り気でないことも知っているが、それを言っては伊左衛門の機嫌を損ねてしまうことを重々承知しており、言葉は慎重に選んだ。
「勇次もだらしねぇなぁ。女一人黙らせることができねぇとはよ」
朱座の住人になるからには人別帳から外れてもらわなければいけない、と伊左衛門が怒り口調で屠蘇をぐいと流し込む。お亮は一種の賭けに出た。
「じゃあ、もし、人別帳から外れてもらえないようでしたら、破談ということでよござんすか?」
「破談? そんなわけいくかよ。井筒屋は川越五河岸ん中でも指折りの船問屋なんだ。そこと手を結べば邑咲屋の行く末は安泰ってもんだぜ」
見えかけた一筋の光が一瞬で消えた。間髪入れずに伊左衛門が続ける。
「いいか、勇次にゃ何としてでもあの我がまま娘を捕まえててもらわなきゃ困るんだ。なぁ、お亮よ、あいつの二枚目面は何のためについてんだ? こうゆうときに使うためにあるんじゃねぇのか? あの流し目をもってすりゃあ女誑し込むなんざ朝飯前だろうがよ」
自分が放蕩を続けたいがために資金力の豊富な大店と手を組みたいだけじゃないか、とお亮は叫んで投げ飛ばしてやりたい気持ちに満ち満ちた。
が、遊郭において妓楼主は絶対的な存在であり、逆らうことはあり得ない世界なのだ。苛々と手をこまねいているのも癪だが、今はまだどうすることもできない。お染との祝言の前に勇次が妓楼主になれれば良いのだが、それはまぁまず無理だろう。
くぅ……と苦虫を嚙み潰したような顔は見せず、お亮は熱燗を取りに行くと言って内証を出た。炊事場へ行くと、丁度裏口から勇次が疲れ切った顔で帰ってきたところに出くわした。
「お帰り。随分とお疲れのようだね」
「疲れたなんてもんじゃねぇよ」
勇次が台所の縁側にどかっと腰を下ろし、うなだれる。
高林先生のところからすっ飛んで帰ってきて、八幡宮へ行くのかと思いきや、突然氷川神社へ行きたいと言い出し、行ったら行ったでもの凄い人込みでもみくちゃにされ、帰りは扇河岸まで送っていった、と一連の流れを早口でまくし立てた。
「お染はずっと籠に乗ってたからいいだろうけど、こっちは行ったり来たり振り回されっぱなしだ。下男なんか最後吐きそうになってて可哀想だったぜ」
偉丈夫の駕籠舁たちもさすがにこれには堪えたらしい。だが姉に、約束を忘れていた自分が悪いのだろうと痛いところを突かれ、余計に落ち込んだ。
いやいや、そもそも約束などしていない。返信を忘れていたら向こうが勝手に約束したものと決めつけていたのだ。
「どっちにしろ忘れてたんじゃないか」
またも姉に言われてぐうの音も出ない。
「そんなことより、姉ちゃん。俺、やべぇこと聞いちまった」
うん?と徳利を並べていた姉が振り返る。大きな声では言えないので姉を手招きした。
「なんだい? 厭な話じゃないだろうね?」
「うーん、どっちとも言えねぇな」
と口ごもりながら姉の耳に顔を寄せ、お染から告げられた話を聞かせた。
次回は第24話「迷い」です。
【注】
新河岸川と赤間川は同じ川です。
赤間川は現在新河岸川と呼ばれています。
作中ではわかりやすいように、氷川神社裏の川は「新河岸川」と表記いたしました。
【一口メモ】
近江屋:寛政4年(1792年)に建てられた呉服太物店。大沢家住宅(旧西村家住宅)。現在は「小松屋民芸店」として営業中。川越には「近江屋」の屋号を持つお店が多かったとのこと。
山新:旧照降商・薬種業。創業は文政5年(1822年)。江戸時代は雪駄・下駄・傘などの販売や卸し、明治時代以降は薬も扱うようになった。屋号は「山田屋」。初代服部新助氏の「新助」を代々襲名したため「山新」と呼ばれるように。現在は服部民俗資料館として当時の展示品などが見学できる。




