第21話 元旦の憂鬱
今回から第6章「氷川橋」です。
ここから物語は後半に入ります。
【前回のお話】
互いの想いが重なった勇次とりん。
りんが帰宅したのを見届けた勇次は、すっきりとした気持ちで年を越した。
川越五河岸の一つである扇河岸から川越城下町へ入るには、烏頭坂を登らなければならない。急峻ではないが、緩やかな上り坂が長く続く。ここは、江戸から運ばれてきた物資を川越に届ける運び屋泣かせの難所でもあった。
「早く早く! もっと速く走れないの? 急いでちょうだい!」
重ねて言うが、烏頭坂は運び屋泣かせで有名な難所なのだ。
が、それを知ってか知らずか、いや知らぬはずはない若い女が、よりによって難所烏頭坂で駕籠舁を急かしている。その後を下男らしき者がぜいぜいと必死の形相で走っていた。
「お、お染お嬢様、もう少しゆっくり……」
「だめよ! 早く行かなきゃ!」
下男の状態などおかまいなし。力自慢の大男たち駕籠舁もさすがに足の運びが鈍ってきている。それでも彼らを労わることなく、お染お嬢様は急かす。彼女の頭の中は一人の男のことでいっぱいなのだ。
「だって、早く勇次さんに会いたいんだもの」
だったら化粧になんか時間を掛けずにとっとと身支度を終わらせて出掛ければよかったものを……と下男はげんなりした。駕籠舁も、あと半里もこのお嬢様のわがままに付き合わなければならないのかとうんざりしている。
一方、駕籠舁と下男が自分のせいで振り回されているとは露知らず、勇次は番頭の松吉とともに、かかりつけ医の元へと年始の挨拶に向かっていた。
「勇次、なんだ、おまえさん、随分爽やかな顔してるじゃないか」
この日の青天のように晴れ晴れとした表情の勇次。それに気づいた松吉が茶化す。勇次は白々しく天を仰いだ。
「いやぁ、今年の元旦は天気が好くて良かったなぁと思って」
昨夜の出来事を思い出すたびに顔がにやけてしまう。この晴れ渡った元旦の空のように、心もすっきりとしているのだ。やはりつい顔に出てしまうのは否めない。
そうだ、自分はこういう恋愛がしたかったのだ。見るもの聞くものすべてが春に彩られ、相手のことを考えただけで幸せな気持ちになる——そんな本物の色恋が。
「よっぽど良いことがあったんだろう。小太郎の10両をチャラにしてやるくらいだもんな」
昨夜りんと別れた後、氷川神社で熊次郎と話し合い、息子小太郎が背負った慰謝料10両を帳消しにしてやることでケリがついた。その分勇次の借金が増えるだけなのだが、何があったのか、どのような話し合いが為されたのか、深くは追及しない松吉の度量には感謝である。
そうこうしているうちにかかりつけ医の家に到着した。
「高林先生、今年もどうぞよろしくお願いいたします」
二人揃って深々と頭を下げ、お年賀の菓子折りを恭しく渡す。
高林先生とは、小仙波村の開業医・高林健三のことである。朱座の連中は「たかばやし」と言うのが面倒だという実に安直な理由から彼のことを親しみを込めて「こうりんせんせい」と呼んでいるのだ。
本来ならば気安くお近づきになれる医師ではない。若い頃から漢方を学び、その後西洋外科医術を習得、25歳のときに小仙波村で西洋医として開業している名医である。以前は川越藩主・松平直克の侍医も務めていたほどだ。そのような華麗な経歴からかなりの財を成していたようで、今年は林野を買い、茶園の経営を計画しているらしい。
そんな立派なお医者様がなぜ邑咲屋のかかりつけ医なのか。厳密に言うと、高林先生は別に邑咲屋だけのかかりつけ医というわけではない。朱座遊郭の梅毒患者を診てくれる唯一の医者でもあったのだ。
名医ではあるがお高く止まっている人物ではなく、梅毒患者のみならず、ほかの病人や怪我人も気さくに診てくれる。ただ、傾城屋の抱え主は、遊女ら雇われ人が病気になっても医者に診せたがらないため、それほど世話になっているというわけではなかった。
しかし勇次は、子供のころからことあるごとに高林先生の世話になっていた。先輩の若い衆にしごかれたり、竜弥と喧嘩したりしていつも生傷が絶えなかった彼は、そのたびに喜多院の境内隅っこで密かに泣いていた。そこへ優しく声を掛けてくれたのが高林先生だったのである。
「あの泣き虫がこんなに立派な若頭になるとはなぁ」
「お恥ずかしいかぎりです」
感慨深げに目を細める高林先生の言葉に、勇次は照れ笑いしながら頭に手を当てた。
小仙波村に来たのは勇次が先だが、高林先生は、それまで殺伐とした空気の邑咲屋で過ごしていた勇次に癒しの光を与えてくれた存在となった。だからこうして毎年元日の挨拶は欠かさないのだ。
二人は座敷に通された。制外者は玄関敷台より上には上がらせない家がほとんどであるのに対し、高林先生は身分の隔てなく接してくれる。
「ところで、揚羽の具合はどうかね?」
高林先生の問いに反応したのは番頭の松吉だった。
「あまり芳しくはないようで……」
伏し目がちに苦笑する。揚羽は邑咲屋の遊女で、梅毒患者でもあった。
梅毒に罹った遊女は行燈部屋という暗い部屋に閉じ込められ、そこから出ることは許されない。食事は一日一回、粗末な物を与えられるのみ。濃厚接触さえしなければ感染することはないと高林先生も言っているのだが、やはり誰も近づきたがらないようで、彼女の世話はごく一部の者に限られていた。
そのごく一部の者の一人が松吉であった。彼は揚羽と将来を誓い合った仲なのだ。もちろん、遊女と若い衆の色恋沙汰はご法度のため、年季が明けるまで松吉が彼女を待ち続けているというのが現状だ。
そんな松吉の姿勢をいつも傍で見ている勇次は、彼のことを「漢だな」と密かに尊敬していた。
揚羽は梅毒の潜伏期間を経て二度目の発症をした患者だ。おそらく命が助かる見込みはない。高林先生に時々診てもらってはいるが、西洋の薬は高価すぎて手が出ず、栄養指導と気休めの鎮痛薬をもらうに留まっている。
それでも治癒の希望を捨てず、彼女を看病しながら年季が明けるのを待ち続けるという並大抵ではできない覚悟に「漢」を感じるのだ。
しばし3人で談笑していると、高林先生の妻はま子が一人娘の秀子と共に狭山茶と茶菓子を持ってやってきた。年はりんより少し下くらいかな、などと頭の中で巡らせながら勇次は秀子に微笑みかけた。最近はなんでもりんと結びつけてしまう。
年頃の秀子は勇次を前にして顔を赤らめた。
「これ、秀子。勇次は駄目だぞ。勇次には許嫁がいるのだからな」
「お父さま、私は別にそんなつもりじゃ……」
父親にたしなめられると秀子は真っ赤になって奥へ引っ込んでしまった。勇次は苦笑いしながら、ふと首を捻った。
——ん? 許嫁? あれっ、なんかあったような……。
何か大事な用があった気がするのだが、いっこうに思い出せない。思い出せないのなら大した用ではないのだろう。まぁいいかと狭山茶に手を伸ばしたときだった。
「若頭っ! てぇへんです!」
泡食って駆け込んできたのは邑咲屋の若い衆権八だった。
「おいこら、パチ、ご挨拶もなしに失礼だぞ」
「いや、でも、井筒屋さんのお嬢様が今……」
権八が説明するには、許嫁のお染が、勇次と八幡宮で待ち合わせをしていたのに待てど暮らせど来ない、と邑咲屋にどえらい剣幕で押しかけてきたということらしい。
「八幡さん……? あ……あーーーーー!」
すっかり忘れていた。暮れはりんのことで頭がいっぱいで、お染から付け文を貰っていたことがすぽんと抜け落ちていたのだ。
勇次は口を押え、眼を泳がせた。行かなくてはという建前と行きたくないという本音が頭の中でせめぎ合っている。
行かなくては、ああでも行きたくない、てか会いたくない、なぜなら好きではないから。
この際はっきり言おう。き・ら・い。
「勇次、私の方はいいから早く行って差し上げろ。太客のお嬢さんなんだろう?」
いくら恩ある高林先生の勧めでも嫌なものは嫌。権八の拝むような顔はどうでもいいが、躊躇する勇次に松吉が追い打ちをかける。
「そうだぞ、勇次。井筒屋さんは邑咲屋の大事な太客なんだ。そのお嬢様を蔑ろにするわけにはいかないんだぞ」
もはや四面楚歌。わかってますって、と心の中で叫んでいるのだが体が拒絶している。
——ちょっと待て。
心だけでなく体も拒否反応を起こしているということは、もう駄目ではないか。このままずるずると引き延ばしていても何も変わらないのならば、いっそのこと今日会ってきっちり縁談を断るというのはどうだろう。
——うん、そうだ、そうしよう。
ポンと膝を打ち、畳に手をついて深々と頭を下げる。申し訳ありませんが……と高林先生に向かって懇切丁寧に謝罪の意を伝え、お暇することにした。
元日の田園は静かなものである。兼造も昨夜のことには一切触れず、穏やかに雑煮をすすっていた。
夜更けに帰宅したりんが素直に謝ってきたものだから、兼造も強くは言えず、何事もなかったように振舞っているのだ。
本当は聞きたいことは山ほどある。昨夜はどこにいたのか、庄之助には会えたか、それともほかの誰かと一緒にいたのか……。
だが、伽羅の香りを仄かに纏って帰宅した愛娘に真実を告白されるのが怖い。りんは何も言わずに黙って雑煮を食べている。お志摩も珍しく大人しくしている。こんなときは決まって詮索するくせに、今日に限って何も聞かない。正月だからか。それとも、女の勘とやらで何かを嗅ぎ取っているのだろうか。
「ところでお志摩、その着物あんした? えら高そうだがね」
後妻がいつもより少々物が良い着物を身に着けていることに兼造はふと気づいた。
「ああ、これかい? 水茶屋のほうが儲かってるからね、それで正月用に新調させてもらったよ。別に、自分の稼ぎで何買ったっていいだろ」
お志摩はツンとそっぽを向いた。兼造は嘆息を漏らし、愛娘のつぎはぎだらけの着物を横目に入れた。
水茶屋を手伝っているのだから、正月くらい新しい着物を買ってやればいいのに、とも思ったが、自分の甲斐性の無さにも腹が立ち、お志摩に文句を言う資格はないと口をへの字に結んだ。
3人で無言のまま囲炉裏端で雑煮をすすっていると、トントン、と誰かが戸を叩く音が聞こえた。りんが「はぁい」と戸口を開ける。そこには、幼馴染の村娘3人が立っていた。
次回は第22話「氷川神社参拝」です。
【ご注意ください】
小仙波村の開業医高林健三氏と妻子(はま子、秀子)は実在の人物ですが、勿論実際はこの物語とは一切関係ありません。




