第20話 重なる想い
【前回のお話】
勇次が身の上話のつづきを進めようとしたところで、りんの初恋の相手が現れる。
勇次は興醒めし、りんを残してその場から立ち去ってしまった。
りんがその後を追いかける。
りんは本応寺の参道を走り出て児玉往還をキョロキョロ見回した。左手に高沢橋を今まさに渡り切らんとする紫の髪結紐が見える。
「勇次さん!」
一生懸命追いかける。その声に気づいた勇次が振り返った。
「りん、だからっ、夜中に一人で出歩いたら危ねぇって言ったろ。庄之助さんと一緒に帰れ」
「やだ。勇次さんと一緒にいる。続き聞くべ」
りんは、はあっはあっと息を切らしながら食い下がる。
「俺はこれから氷川さん行って熊さんに会わなきゃなんねぇんだよ」
「じゃあ、おらも氷川さん行く」
「女連れで仕事なんかできっか」
「さっき、やったべ」
……。勇次は目を閉じ、後ろに倒れそうになった。けっこう賢いかも、と妙に感心する。
「お仕事の邪魔はしねぇ。その間おら、結び玉探してるべ」
「結び玉?」
りんがにっこりとうなずく。近頃、友達の間で、氷川神社の境内で綺麗な小石を拾って大切に持っていれば素敵な相手と結ばれるというのが流行っているらしい。
勇次は、けっと呆れ返った。
「しょうもねぇことやってねぇで帰れ。親父さんが心配してるぞ」
はっ……として、りんはうつむいた。父親のことを引き合いに出されては返す言葉がない。
「……わかったべ。一人で帰るべ」
首巻を外し、勇次に押し付ける。勇次がそれを受け取るとりんは踵を返し、橋を渡って石原宿方面へと歩き出した。ああもう、ちきしょう……と勇次は舌打ちし、彼もまた踵を返した。
惚れた弱みだな、と我ながら呆れる。後ろからりんに首巻をかけてやると、彼女は振り返り、にこっと笑った。こいつは川姫か、いや符麗卿か。この魔力に魅入られた馬鹿な男は、しかし、思いがけず嬉しげな笑みを浮かべていた。
「勇次さん、お正月はなにしてるのけ?」
こんな無防備な笑顔を向けられたらなんでも許せてしまう。ましてや、嫌いになどなるわけがない。
「遊郭は2日からもう見世を開けるんだ。三が日は、俺はご楼主のお供でお年始回り。それに今年は禿が一人振袖新造に上がるから、4日から挨拶回りが7日間続く」
聞かれもしないのにやたら詳しく予定を教える。りんは、ひぃふぅみぃと指を折って数えた。
「11日まで会えないのかぁ……」
白い吐息とともに寂しさを漏らすかんばせが愛おしい。また会ってくれるのか、と勇次は内心小躍りした。しかし、そんな心中はおくびにも出さず、カッコつける。
「11日は紋日って言ってな、太客や馴染み客が集まる日だから客の対応で忙しいんだ。次会えるのは早くて12日だな」
りんの表情がさらに沈む。それに気づいた勇次が顔をのぞき込もうとすると、りんは慌てて明るく振舞った。
「じゃあ12日、飯盛旅籠で待ってるべ。おら、今年から飯盛り女やることになってるだに」
「……何日からだ?」
「うーん、わがんねぇ。呼ばれたら行ぐべな」
努めて作ろうとする笑顔が健気で、胸が痛くなる。
「親父さんはそのこと知ってるのか?」
ううん、とりんは首を横に振った。継母が勝手に決めてきたことで、父親には心配かけたくないから内緒にしている、と力なく笑う。
父が病に倒れてから、自分一人で田畑を維持することはもう無理なのだ。だから、飯盛り女をやって父の薬代を稼がなければならないのだと言った。
石原宿は黒駒組の庭場だ。勇次がりんと出会ったとき、熊次郎はすでにこのことを知っていたのだろう。
勇次は、そうか、大変だな、としか言えなかった。現時点で不確かな約束はしたくない。
「あのお志摩ってのは何者なんだ?」
「何者って……うーん……」
りんは首を捻った。よくわからないけど、と前置きしたうえで、お志摩が兼造の後妻に収まった経緯を振り返った。
お志摩が小久保村に来たのはほんの数か月前。りんの実母の一周忌が終わってすぐの頃だという。
兼造の畑のすぐそばで行き倒れていたところを彼が介抱したのがきっかけで二人は急接近し、夫婦になったとか。兼造はりんの母親を亡くして相当憔悴していたらしいから、心の隙間にお志摩がつけ込んだともいえよう。
兼造の畑は石原宿の奥にあるため、その一角をつぶして水茶屋を作ったのもお志摩の発案だ。兼造が体調を崩し始めたのは本当に最近、寒くなりはじめた頃のこと。そして現在に至る。
——なんか引っ掛かるな。
それが何なのかはわからないが、話を一通り聞いた勇次の胸にもやもやとしたものが残った。
「あ、もうすぐうちだべ。ここまででよかんべ」
石原宿を抜けて休田が広がってきたところでりんが立ち止まり、百姓家が並んだ一番端にある自分の家を指差した。素朴で小さな家からは弱々しい灯りが漏れている。
「今度会うときは、おら、いい女になっててびっくりするべ」
りんは泣かないようにおどけてみせた。本当は、初めての客になってほしいと言いたかった。でも勇気がなくて言えなかった。
「絶対に会いに来てけぇ。ちゃんとおらのこと呼び出しするんだぞ。約束だべ」
必死の笑顔で、あかぎれだらけの細い小指をピンと立てる。勇次はその小指に自分の小指を絡めながら、二度ほど頷いた。りんも満足したように頷き、首巻を外した。
「……りん、おめぇ、俺が汚ねぇとか思わねぇのか?」
勇次が受け取った首巻を見つめ、訊ねる。
「汚い? どこがだ? おらより全然綺麗だがね」
不思議そうな表情でりんは首を傾げた。勇次が躊躇いがちに鼻を掻く。
「だってよ……その……非人?で、汚れ仕事やってたことあるし……」
りんは何を言っているかわからないといったふうに目をぱちくりさせて勇次を凝視した。
「それは昔の話だべ。そんなこと言ったら、おらなんか子供のころ肥溜めに落ちたことあるべ」
あはははと笑い出し、おあいこだべ、と屈託ない瞳を向ける。勇次もぶはははと吹き出し、声を上げて笑った。
静まり返った休田に、二人の楽し気な笑い声だけが響く。ひとしきり笑い合った後、落ち着いたところで勇次が先に口を開いた。
「朱座は非公許の遊郭なんだが、非公許遊郭は日本に3か所しかなくてな、別名“かくし閭”とも呼ばれてるんだ」
勇次が脈絡なく語り出したものだから、りんはきょとんとした。
「忍者の隠れ里みたいなのじゃなくて?」
「じゃなくて、結界で隠してあるから“かくし閭”だ」
「かくし……ざと」
「かくし閭の“さと”って字、わかるか?」
勇次がにこにこ問いかける。りんは得意げに答えた。
「馬鹿にするでねぇ。手習塾で教わったべ。日に土の縦棒を長くしたやつだがね」
ううん、と勇次が首を横に振る。なら故郷の郷だと言い直すと、勇次は再び首を横に振った。「ほかにあったべな?」とりんは頭を捻ったが思い浮かばない。勇次は正解を教えてやった。
「門がまえに風呂の“呂”と書くんだ」
りんが自分の掌に、言われたとおりに指で書く様子をじっと見守る。
「門がまえの“門”は遊郭の大門を意味してるんだ。でもって“呂”は……」
「こんな漢字、初めて見たべ。門がまえに“ロ”がふたつ」
ろ、ろ……とぶつぶつ呟き、りんは掌に何度も重ね書きした。
「それな、“ロ”じゃなくて“口”なんだ」
「口? どっちでも同じだべ」
勇次は、違う、とまたも首を横に振った。
「口がふたつ重なってるだろ?」
言われてりんが考える。
「口がふたつ……」
はっ!と顔を上げた瞬間、ふたつの唇が重なった。
冷えかけたうなじに添えられた大きな掌からは、優しい温もりが伝わってくる。伽羅の甘い香りに軽い眩暈を覚えつつ、りんはそっと目を閉じた。
農村の家々はどこも年神様を迎えるために籠っていて、辺りは人っ子一人いない。さっきまで曇りがちだった夜空は無数の星たちで埋め尽くされている。
二人は満天の星に見守られ、繰り返し繰り返し、ただひたすら唇を重ね合わせた。何度も、何度も、何度も。
幾度、互いの感触を確かめ合っただろう。今は二人だけに許された刻の流れに従いたい。
うなじに添えた手にも、自然と力が込められる。角度を変えるたびに、鼻にかかるような吐息で聴覚を刺激され、またそのたびに狂いそうになる想いを必死で堪えた。
いっそこのまま何処かへさらっていってしまおうか。いや、そうもいくまい。
勇次は名残惜し気に唇を離し、余韻に浸るかのごとく目を閉じたままおでこ同士をくっつけた。
うなじを支えていた掌を紅潮した頬へと滑らせ、静かに瞼を開く。潤む瞳に宿った光を見つめながらおでこを離し、やがて穏やかな微笑を湛えた。
「15歳の祝いだ」
瑞々しく柔らかな頬からゆっくり手を離そうとすると、細い両腕が歓喜とともに硬い体躯にするりと絡みついた。背筋をぎゅっと掴んだ小さな手に我慢ができず、離しかけた手で抱きしめる。
やせっぽちの小柄な身体。提灯を持っていなかったら両手で抱きしめていた。そうしたらきっと折れてしまっていただろう。そんなことを思わせるほど繊細で、可憐で、儚げで。
壊れてしまわぬよう、ぎりぎりの力でりんを抱きしめながら瞬く星空を見上げた。真冬の澄み切った夜空一面に散りばめられた星の群れが頭上から降り注ぐ。
川越に来てからこれほどじっくり空を眺めたことがあっただろうか。それとも単に気づかなかっただけなのか。
——川越の空ってこんなに綺麗だったっけ?
今、ようやく気づいた。不夜城の煌めきが、こんなにも美しい星たちをかき消していたのだ。
崩れたつぶし島田に顎を乗せ、厚い胸板に埋められた呼吸を刻み込む。そのあと一度だけ深呼吸してから肩をポンと軽く叩き、背中の小さな手を解いた。
「親父さんと仲直りしろよ」
優しく背中を押してやる。りんはしっかりと頷き、「ありがとう」と笑顔を見せると、小走りで畦道を抜けていった。
休田の向こうに佇む素朴な家の戸口から明かりが漏れ、すぐ消えた。それを見届けた勇次は身体の向きを変え、歩き出した。
自分にしてやれることは何があるだろう。考えに考え、ただただ考えながら歩き続ける。
いや、もう結論はとっくに出ているではないか。一周回って辿り着いた答え。今しがたの自分の振る舞いがその答えだ。
高沢橋で立ち止まり、提灯を翳して赤間川に自分の顔を映した。まだ残る感触を守るように首巻で唇を覆う。首巻に移った土の匂いが懐かしくて、切なくて、愛しくてたまらない。
「川越に来てよかった……。いやー、ほんっとよかったわ」
川面に映る顔はやけにすっきりした表情だ。それを見て、うん、と何かを決意したように顔を上げ、一歩を踏み出す。
そのまま氷川神社へ向かって歩いていくと、提灯に照らされた鳥居が仄かに浮かび上がってきた。
「さて、と。もうひと仕事だ。頑張れよ、俺」
拳にぐっと力を込め、気合を入れ直す。明治2年は明けたばかりだ。
ようやく折り返し地点まで来ました。
評価ポイントいただければ幸いです。
次回から物語は後半に入ります。
次回は第6章「氷川橋」第21話「元旦の憂鬱」です。
幸せ気分に水を差す人が……。
【用語解説】
川姫:高知県・福岡県・大分県に伝わる美女妖怪。川辺に住み、その美貌で男たちを虜にし、精気を吸い取るという。
符麗卿:中国明代の奇譚集『剪灯新話』の中の『牡丹燈記』に登場する美女幽霊。日本の怪談『牡丹燈籠』のモデルになった。




