第19話 初恋の相手
【前回のお話】
勇次はりんに、自分が非人だったことを明かす。
誰にも教えたことのない話だったが、りんは嫌な顔一つせず一生懸命話を聞いてくれた。
静かな小久保村に除夜の鐘が響き渡る。その音を聴きながら、二十代半ばの男が一人、貧しい百姓の家を訪ねた。
「兼造さん、ちっとんべぇ、いいかい?」
引き戸を開け、顔を覗かせる。奥からお志摩が出てきた。
「おや、名主様のところの庄之助さん。こんな夜更けにどうなすったんですかえ?」
「やあ、お志摩さん。あけましておめでとう。今年もよろしくお願いしますよ」
訪ねてきたのは小久保村名主の惣領庄之助だ。本応寺へ年籠りに行く途中、兼造の見舞いがてら、新年の餅を持ってきたという。
彼が新年の挨拶をすると、お志摩も「こちらこそ」と愛想良く会釈した。それから家に上げ、兼造が臥せっている床へと導いた。いそいそと茶の用意をする。
「こりゃあ、庄之助さん。こんなみっともねぇ姿で申しわけねぇな」
「よかんべ、兼造さん。そのまま寝ておいてくらっしぇ」
互いに新年の挨拶を終えると、庄之助は正月用の餅を渡しながら「朝になったら食べてくらっしぇ」と微笑んだ。お志摩が喜んで手を叩く。
「ところで、りんは? 姿が見えねぇようだが」
庄之助が辺りをきょろきょろと見回す。狭い家なので留守にしているのはすぐにわかった。兼造が無言で目を逸らす。茶を運んできたお志摩が代わりに口を挟んだ。
「今頃、どこかの男とお楽しみじゃないかえ?」
くっくっくっと擦れた含み笑いで肩を震わす。兼造はお志摩を睨みつけ、あっちへ行ってろと追い払った。お志摩は笑いながら、はいはいとその場を離れた。
「兼造さん、りんに何かあったのけ?」
庄之助は尋常ではない空気を察知した。問われた兼造が、実は……と、娘と言い争いになったことをかいつまんで説明すると、それまで黙って聞いていた庄之助は驚きの声を上げた。
「あんだと? 一人で出てったのけ? こんな月のねぇ晩に一人でお籠り行くなんて危ねぇな」
「りんは死んだ女房に似て頑固だに、言い出したらきかねぇんだ」
「まさか、本当に男に会いに行ったのけ?」
眉間に皺を寄せて庄之助が問うと、兼造は「そうじゃねぇ」と答えたが、その声に被せるように囲炉裏端で火にあたっていたお志摩が大声で言い放った。
「傾城屋の男にのぼせあがってんのさ」
「傾城屋? まさか、朱座じゃなかんべな?」
兼造は庄之助の疑問に「知るか」と短く吐き捨てた。そこへ、お志摩が熱燗を持ってやってくる。
「これがまたとびきりの色男でさ。しかもりんにやたら優しいんだよ」
「あんだと?」
「まったくねぇ、下心見え見えだっての。男ってわかりやすい生き物だよねぇ」
お志摩はげらげら笑った。このような貧しい百姓の娘を羽振りの良い男が本気で相手にするわけがない。慰み物にされて捨てられるのが落ちだ。
だが、それならそれで結構。うちの娘を傷物にしたと大騒ぎして慰謝料をたらふくふんだくってやればいい。そのためには名主の惣領である庄之助を味方に引き入れておく必要がある。名主ならば役人にも顔が利く。人間、誰しも権威に弱いものなのだ。
お志摩は咄嗟に悪知恵を働かせた。案の定、庄之助はまんまと乗っかってきた。
「よし、俺がりんを連れ戻してくるべ。兼造さん、ちっとんべぇ、待っててけぇ」
兼造は布団に病身を横たえたまま、拝むような眼を庄之助に向けた。
それに呼応するかのように飛び出していく庄之助の背中を見送りながら、お志摩は薄笑いを浮かべていた。
年明けの真夜中は、真冬の張り詰めた冷気に包まれている。凍えるような寒さが、甘酒で温められた身体から次第に体温を奪っていった。
りんが薄い半纏の中で身を縮こませ、握りしめた両手にほーっと息を吹きかけた。足はさっきから草履を脱いでつま先をこすり合わせ続けている。
「寒ぃだろ。今日はもう帰れ。風邪引いちまうぞ」
勇次の気遣いにりんは頭を振った。
「大丈夫だがね。早く続き、聞かせてけぇ」
「じゃあ、出会い茶屋行くか? 一緒に布団入ればあったけぇぞ」
ぎしっ……と、りんの表情が固まった。勇次が吹き出す。
「冗談だよ。元日はどこも休みだ」
けらけら笑うとおもむろに立ち上がり、枝に引っ掛けておいた提灯に手を伸ばした。
「おら、寒くねぇだに。まだ、帰らねぇべ」
りんが駄々をこねる。勇次はわかったわかった、と笑いながら提灯を彼女の足元に置き、折ツルを弓から外して火袋を下げた。幸いにも風のない晩だった。蠟燭の仄かな温かさがか細い足首を包み込む。
「勇次さん、あんしてそんなに優しいべな?」
あれほどの凄惨な苦労を重ねていながら卑屈になるでもなく、何故他人に優しくできるのだろう。
「優しいかぁ? 香具師の連中の態度見たろ? みんな俺見てびびってやがったじゃねぇか」
しゃがんだ勇次がりんを見上げると、彼女は、そうじゃなくて、と首を横に振った。
「ままおっかぁが言ってたべ。男の人が女に優しくするのは下心があるからだって」
りんの真剣な顔を見て、勇次はしゃがんだまま大笑いした。
「そりゃそうだ。ままおっかぁの言うことは間違ってねぇ」
「……勇次さんもそうなん?」
りんは少し悲し気な目を向けた。勇次は笑顔のまま、
「あたりめぇだ。俺だって男だぞ。男の頭ん中はもれなく女とやることでいっぱいだ」
と言って、本堂裏の雑木林を顎でくいと指し示した。いつしか除夜の鐘が鳴り終わり、茂みの中から微かな喘ぎ声が漏れ聞こえてくる。
りんは顔を真っ赤にし、慌ててうつむいた。勇次が立ち上がる。
「じゃなきゃ傾城屋なんか商売あがったりだ」
一瞬醒めたような口振りに聞こえたのは気のせいか。彼は先程より少し距離を取ってりんの横に腰を下ろした。
「けどな、ままおっかぁは大事なことがわかってねぇ」
りんが顔を横に向け、勇次を見つめる。
「男はな、本命にゃ簡単に手が出せねぇってこと」
勇次もりんの瞳をじっと見つめ返したあと、ゆっくりと蠟燭の炎に視線を移し、長いまつ毛にその光を灯した。
「男ってのは臆病な生き物だからよ、うっかり手ぇ出して嫌われたらどうしようって考えちまうのさ」
再び視線を戻し、穢れなき瞳を真っ直ぐ見据える。
「だから本命だけにゃとことん優しくするんだ。嫌われねぇようにな」
綺羅り……。瞳の奥の光を捉えた。りんの熱い眼差しを確信する。
今宵こうして偶然再会できたのも何かの縁だ。いや宿命だ。神様仏様ありがとう。いつぞやはこき下ろしてごめんなさい。よし、今ならやれる、じゃなくて言える。前回言えなかった言葉。嫁に……いや、その前に言わなくてはいけないことがあるだろう。「す」から始まって「き」で終わる、例の二文字が。
しゃっ、と気合を入れて背筋を伸ばす。せーの、で言おう。せーのっ——。
「りん」
その声にりんが顔を上げた。勇次も振り返る。自分ではないその声の主に出鼻を挫かれ、見るからに不快感を表した。
「庄之助さん」
りんが咄嗟に立ち上がる。すぐ傍に立っていたのは、名主の惣領庄之助だった。
——初恋の相手かよ。
勇次は目を閉じ、頭を抱えた。何故、毎度毎度大事なところで邪魔が入るのだろう。縁がないのか。結ばれぬ宿命なのか。やはり神も仏もない。謝って損した。
庄之助がりんに問いかける。
「りん、こんな人気のないところであにやってるべ?」
「なんもしてねぇべ。お話ししてただけだがね」
りんの答えに、勇次はうんうんと頷いた。そうだ、まだ何もしていない。したかったけど、その前にてめぇが邪魔したんだろが、と心の中で恨み節。
頭を抱える勇次の横顔を、庄之助が提灯で照らした。
「おまえ、誰だ? りんに何した?」
だから、何もしていないと言っとろうが。そのうちしたいと思っているだけだ――。
切れそうになる気持ちをぐっと堪え、やおら顔を上げる。
「見ず知らずの野郎におまえ呼ばわりされる覚えはねぇな」
切れ長の涼しい目元を見せつける勇次に、庄之助が一瞬怯んだ。お志摩から色男とは聞いていたが、想像以上の男振りに驚きを隠せない。まさかこの男が——。
「初対面で失礼だがね、庄之助さん」
りんにも食って掛かられ、庄之助は提灯を下ろした。
「これはすまなんだ。俺は小久保村の名主の息子、庄之助という者だ」
庄之助の礼儀正しい姿に拍子抜けしながらも、勇次は立ち上がり彼と対峙した。
「俺は、小仙波村朱座遊郭の邑咲屋で若頭やってる勇次ってんだ」
庄之助はさほど驚きもせず、やはりと言った表情で吉原つなぎに目を遣った。
「傾城屋か」
「それが何か?」
袖に手を入れ腕組みし、平然と言い返す勇次に、庄之助は少々面食らったようだ。
何をそんなに開き直っているのか。人別帳から外され、一般社会から疎外された者が、平人の自分に対して何故これほどまでに堂々としていられるのか理解に苦しむ。
「ほかに聞きてぇことがねぇなら俺はもう行くぜ。仕事がまだ終わってねぇんでな」
勇次は提灯の火袋を引き上げ弓を持つと、お返しとばかりにそれを庄之助の顔付近に掲げ、不敵な笑みを浮かべた。粋な仕草で袖口を口元に当て、
「朱座へお越しのときにゃ是非邑咲屋においでなんし。特別にお友達価格でご奉仕いたしんす、だ・ん・な」
と、色っぽい流し目とわざとらしい廓詞でおちゃらける。それから庄之助の肩をポンと叩き、りんを振り返った。
「じゃあな、りん。風邪引くなよ」
爽やかな笑顔を残し、後ろ手を振りながら颯爽と去ってゆく。
「あっ、待ってけぇ、勇次さん!」
その背中を追いかけようとするりんの腕を、庄之助がぐいと引っ張った。
「りん、あんなのと付き合うんじゃねぇ。あれは制外者だべ。関わっちゃなんねぇ奴等だ」
りんはその言葉に反応し、きっ……と庄之助を睨んだ。
「制外者ってあんだべ? 勇次さんは人だ。おらたちと同じ人間だ」
なおも振り払おうとする小さな手を押さえ、庄之助が諫める。
「おめぇは騙されてるんだべ」
「騙したのは庄之助さんだがね!」
突然向けられた怒りの眼差しに、庄之助は困惑した。
「騙した? 俺が? 誰を?」
「おらのこと騙したべ。お嫁さんにしてくれるって言ったくせに、ほかの女の人と夫婦になったべ。庄之助さんは嘘つきだ」
庄之助は呆れたように天を仰ぎ、白い息を吐き出した。
「おめぇが子供の頃の話だべ。そんなこと本気にしてたのけ?」
「子供になら嘘ついてもいいのけ?」
「……!」
りんの瞳から光が消え、代わりに悲しみの色が広がった。
「子供だから本気にするんだ。子供だから大人の言葉を信じるんだべ」
返す言葉が見つからない庄之助に、りんは強い瞳で更なる言葉をぶつけた。
「勇次さんは絶対に嘘つかねぇ」
冗談を言ったり、からかったりすることはあっても、相手を傷つける嘘だけはついたことがない。たった3回しか会ったことはないが、自分にはわかる。勇次は嘘がつけない人間だ。
りんは庄之助の手を思い切り振り解き、駆け出した。
「あっ、りん! 行っちゃなんねぇ!」
行くなという言葉とは裏腹に、ぶつけられた言葉が重しとなって足にのしかかり、小さな背中を追うことができない。あんなに従順だった少女はどこへ行ってしまったのだろう。
庄之助はその場に立ち尽くし、己の無力さにただ絶望していた。
次回は第20話「重なる想い」です。
ちゃんと通じ合います。