表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/48

第17話 勇次の生い立ち①

今回から第5章「星降る夜」に入ります。


【前回のお話】

 年越しの晩に父と大喧嘩したりんは勢い余って家を飛び出した。

 一人とぼとぼ歩いていると見知らぬ男たちにからまれてしまう。

 彼女を助けてくれたのは勇次だった。

 この時代は日没を一日の終わりとして数えるため、一年も大晦日(おおみそか)の日没で終わる。夜の(とばり)が下りるとともに新しい年の始まりを迎えるのだ。


 人々は一晩中まんじりともせず、家に籠って年神様をお迎えするか、あるいは家長や惣領などは寺社で日の出まで年籠りすることになる。


 その一方で、城下では掛け取りに奔走する商人たちの姿も少なからず見かけたりする。掛け取りとは、掛け売りを回収すること。商家では都度支払いを求めず、盆暮れの年2回にまとめて集金するのが常だ。


 だからといって、必ずしもすんなり支払ってくれる相手ばかりではない。そのような輩には多少強引な手を使ってでも集金するのだ。その様から人々は彼らを「債鬼(さいき)」と呼び、この時期はやくざよりも恐れられていた。


「兄さん、甘酒ふたつおくれ」


 チャラチャラと雪駄のベタガネを鳴らし、本応寺の参道で甘酒を売っていた男に勇次が白い息を吹きかける。男は香具師(やし)「黒駒組」の元締め熊次郎の息子小太郎だ。


 半纏(はんてん)の下から覗かせる吉原つなぎを見て、周りにいた香具師たちに戦慄が走った。朱座(あかざ)の傾城屋が吉原つなぎで城下町をうろつくときは大抵ツケの回収だからだ。


 傾城屋の集金は商人の何倍も怖ろしい。金が払えなければ真冬の寒空の下だろうが真夏の炎天下だろうが真っ裸で顔の部分だけ()りぬかれた早桶にぶち込まれ、札の辻に何所何所(どこどこ)の誰誰と書かれた張り紙付きで(さら)される。生理現象などはおかまいなし。大抵は身内が代わりに支払いに来てようやく放免となるが、そうでなければ……以下略。


 とにかく債鬼どころの騒ぎではない。百体の酒呑童子が両手にリボルバー持って進撃してくるくらいの恐怖なのだ。このときの小太郎もご多分に漏れず蒼褪めた。


「ひっ、勇次。もしかして例の……?」


 玉代は都度支払われるが、それでもツケで遊んで帰る客も大勢いる。金払いの悪い客は身を持ち崩す前に付け馬で支払わせるが、そこで回収しきれなかった分を大晦日で一気に取り返すのだから、早めに大門を閉めたとしても、遊郭の若い衆にゆっくり休んでいる暇などなかった。


「わかってんじゃねぇかよ。約束の10両、きっちりいただきに来たぜ」


 にこりと微笑む瞳の奥が鋭く黒光る。小太郎は射撃の練習台にされた日のことを思い出し、震え上がった。


「お、親父んとこ行ってくれ。今、氷川さんで団子売ってるからよ。俺ぁ今、持ち合わせがねぇんだ」


「いい年こいていつまでも親父さんにケツ拭かせてんじゃねぇぞ」


 勇次は眉を吊り上げ小太郎の襟をぎりりと掴み上げだ。小太郎は涙目でぶるぶる震えている。いつもなら蹴りの一つや百発入れて顔の形が変わるまでボコボコにしてやるのだが、りんの前であまり手荒な真似はしたくない。


 掛け取りの期限は元旦明け六ツまで。こちらも同様だ。氷川神社へはそれまでに行けばいいかと、一先ず引き下がることにした。香具師一同、ほっと胸を撫で下ろす。


 これは俺の奢りだ、と小太郎が差し出した甘酒をちらと見る。勇次は指を2本立て、無言の笑顔で圧をかけた。小太郎が慌ててもう1杯用意する。


 2杯分の甘酒を受け取り、背中に隠していたりんにひとつ持たせた。それから(ひと)()を避けて境内の隅っこへ行き、大きめの縁石を選んで彼女を座らせる。近くの枝に提灯を引っ掛け、りんの右隣に腰を下ろしたところでふうと大きく真っ白な息を吐いた。


 本応寺本堂裏手の雑木林では、同じように若い男女が何組も身体をくっつけ合っている。りんは鼓動を高鳴らせたが、わざと関心なさそうな素振りで甘酒をふうふうと冷ました。


「りん」


 名前を呼ばれ、ドキッとする。いつから名前で呼んでもらえるようになったのだろう。嬉しさと恥ずかしさの同居する小さな胸が、とくんとくんと脈打っている。互いの身体は一寸ほどの隙間しかない。貸してくれた首巻からは伽羅が優しく香っている。


 除夜の鐘で声が聞き取りづらいせいか、勇次の顔がやたら近い。緊張で身を固くしたりんは甘酒を見つめたまま、はい、と小さく返事した。


「俺が(こえ)ぇか?」


「ううん。お金を返さない方が悪いんだ」


 りんが顔を横に振りながら、強い瞳を向ける。泣き腫らした目が痛々しい。


「けんど、乱暴するとこはあんまり見たくねぇべな」


「わかった、気をつけるよ」


 勇次が苦笑いするとりんに笑顔が戻った。


「あ、けんど、さっきは助かったべ。ありがとうございました」


 ちょこんとお辞儀をする姿を見て勇次もホッとした。


「そっか。なら、よかった。怖がらせちまったかと思ったよ」


「大丈夫。勇次さんが優しい人だって、おら、知ってるだに」


 彼はいつも叱ってくれる。叱ってくれるのは、思いやってくれている証拠だ。


 ——おとうちゃんもそうだべか……。


 物憂げに甘酒をじっと見つめる赤いほっぺ。勇次は先ほど抱いた直感を投げかけた。


「なんかあったか? 俺で良ければ聞いてやるぞ。吐き出したらちっとは楽になるかもしれねぇ」


 りんは優しい笑顔にまたも泣きそうになった。下心なんて嘘だと信じたい。


 拳を作って口を押さえ、その隙間からぽつりと漏らす。


「おとうちゃんと喧嘩した」


「なんでまた? あんなにおとうちゃんのこと大事にしてたじゃねぇか」


「……」


 それ以上は言えなかった。まさか制外者(にんがいもの)のことで言い合いになったなんて、とてもではないが伝えられない。


 何かを察したのか、勇次はふっと笑みを浮かべ、甘酒を見つめた。それ以上は追及せず、立ち昇る湯気の行方を目で追う。


「仲いいんだな。喧嘩できるおとうちゃんがいるなんて幸せじゃねぇか」


 喧嘩した後に落ち込むのは、それだけ相手を思っているということ。そんな相手がいるだけで幸せだということに彼女はまだ気づいていない。


 りんは勇次の横顔を見た。長いまつ毛の隙間から、寂しい色の光が漏れている。


「勇次さんだっておとうちゃんと仲いいべ? みんなそうだべ?」


 無垢な瞳でりんが投げかけた。彼女が両親から愛情いっぱいに育てられたであろうことは察するに余りある。


 考え込むように押し黙ってしまった勇次に、りんは不安を覚えた。


「勇次さん……? おら、なんか、気に(さわ)るようなこと言ったべな?」


 勇次はりんに顔を向け、左右に振りながらにこっと微笑んだ。


「おらも話聞くべ。勇次さん、聞いてくれたに、今度はおらが聞く番だ。なんでも話してけぇ」


 (けが)れのない少女の瞳——。やはり色は見つからない。それなのに、何故もこんなに惹き込まれてしまうのか。


 勇次は一呼吸おいてから口を開いた。


「俺は、親父に殺されかけたんだ」


「!」


 白い吐息と共に吐き出された残酷な告白が、一瞬にして無垢な少女を戦慄へと引きずり込んだ。


 言葉を失ったりんは、しばらく身動きできないでいた。


「びっくりしすぎて涙止まったろ」


 右の口角を上げてにやりと笑うその姿からは悲愴感がまったく伝わってこない。いつもの冗談なのだろうか。


「そんなこと……」


「あるんだよ、それが」


 笑みを崩さず言い切る彼に、りんはまたも絶句する。


 勇次は無意識に次の言葉を発していた。


「聞くか? 俺の身の上話」


 何故、話す気になったのか自分でもわからなかった。思い出したくもない過去のはず。自分が姉と川越に来るまでのことをすべて知っているのは女衒の半十郎だけだ。彼以外には自ら話したことはない。それを何故——。


 まだ出会って5日、二人きりで話すのはたったの2回目だ。なのに、遠い昔から知っていたような不思議な感覚に溺れてゆく。


 りんが真剣な眼差しで(うなず)いた。


 それを待っていたのかもしれない。勇次はゆっくりと切り出した。






「上州の前橋ってわかるか?」


「前のお殿様が治めてるとこだべ。そこの道をうんと行った先だいね」


 りんは旅人宿が並ぶ児玉往還を指差した。


「そう。俺はその前橋で貧しい百姓の小倅(こせがれ)として生まれたんだ」


「えっ、勇次さん、百姓だったのけ?」


 全然見えないといったふうに目を丸くするりんを見て、勇次はふっと鼻を鳴らした。


「その頃の上州は、利根川の工事はまだまだ続いていたが、利根川の氾濫で使い物にならなくなっちまったお城を再建できるとこまで漕ぎつけてた。それでも大雨が降りゃ水は溢れる。俺んとこの畑はちいせぇからよ、すぐに駄目んなって、年貢を納めるのもやっとこせだ。このままじゃ一家心中するしかねぇって思ったんだろうな。親父のやつ、あろうことかお(かいこ)さんに手ぇ出しやがった」


 上州は生糸の名産地。農家は農作業の傍ら養蚕(ようさん)を兼業しているところも多くあった。


「お蚕さんの餌が桑の葉っぱだってのは知ってるよな?」


「うん」


「その桑の木が丈夫だから、日照りが続いても何とかなるとふんだのかもな。金がねぇからあっちこっちで借金こさえてさ。でもな、お蚕さんてのは育てるのが難しくてな。温度と湿度を上手くしてやらねぇと孵化(ふか)する(めぇ)に病気であっという間に逝っちまう。なのに親父は飼育が下手くそでよ、何百匹、いや何千匹殺したかわかりゃしねぇ」


 それでも蚕は生糸生産まで漕ぎつければ莫大な儲けが期待できる。一獲千金を夢見て父は性懲りもなく養蚕に手を出し続けた。


「結局、お蚕さんは全滅。残ったのはでっけえ借金だけ。毎日毎晩おっかねぇやくざが取り立てに来てよ、俺と妹は(むしろ)被ってぶるぶる震えてた。それに比べたら、さっきの俺なんか可愛いもんだぜ」


 ふふんと笑う。りんは勇次から目を逸らさず、黙って話を聞いていた。


「でもって、おふくろとすぐ上の姉ちゃん二人は借金の(かた)に連れてかれた。そのあとどうなったかは知らねぇ」


 風の噂では熊谷の岡場所に売られたとか。


「一番上の姉ちゃんは嫁に行ってて無事だった。あ、ほら、こないだ一緒にいた女の人、あれがそうだ」


「えっ? あの綺麗な人、勇次さんのお姉さんなん? えら綺麗だに見惚(みと)れちまったべ」


 生まれたときから見ているから綺麗かどうかなんてわからない、と勇次は一蹴する。


「年が離れてるからおしめ代えてくれたこととか、寝小便したこととか、ことあるごとに言われるんだぜ。よくいじめられたし、やり返そうもんなら百万倍になって返ってくるし、すっげぇ性格悪ぃの」


 ぷぷっとりんが思わず吹き出す。勇次はそれを見て少し肩の力が抜けた。


「でもその負けん気の強さで引っ込みでもねぇのに花魁にまでのし上がったんだ。そこは認めるわ」


 りんは感嘆の吐息を漏らした。白く残った吐息を見ながら、勇次が話を戻す。


「そんなある夏の晩のことだ。寝苦しくて目を覚ました俺は、見ちまったんだよ」


「あにを?」


「親父が妹の首に手ぇかけてるとこさ」


 りんは再び絶句し、片手で口を押えた。

次回は第18話「勇次の生い立ち②」です。

勇次の過酷な幼少期が続きます。


【用語解説】

付け馬:遊郭で遊んだ客が金を払えなかった場合は家までついていって料金を回収すること。


【一口メモ】

前橋藩は江戸時代に利根川の洪水でお城が浸水してしまいました。そのため川越藩に吸収されてしまったのです。

利根川の工事が進み浸水被害も治まったので、慶応3年(1867)に7代藩主松平直克が前橋へ戻り、前橋藩は再興されました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ