第16話 りんの涙
【前回のお話】
勇次は竜弥の名を出したことで孔雀と言い合いになる。
一方りんは、朱座遊郭へ行ったことを父に責められていた。
りんが制外者について問うと、父はようやっと重い口を開いた。
「制外者ってのはよ、人別帳に載らねぇならず者のことだべ」
「人別帳に載らないならず者?」
「んだべ。穢多の役人に弾左衛門ってのがおって、そいつがまとめてる奴等の中に傾城屋はおる。だから傾城屋は穢多の下、要するに非人と同じってことだべ。非人と同じ奴なんかとおまえを娶わせるわけにはいがねぇってことだべ」
最後は、わがったか!と声を張り上げ、再びりんの頭をはたいた。
「わがんねぇべ!」
「あんだと?」
はたかれたところを手で押さえ、りんも父を睨み返した。
「なら聞くけんど、非人と同じなのになんでおらたちよりいいべべ着てるんだ? おかしいべ」
「おかしくてもなんでも制外者は制外者だべ。人別帳に載らねぇもんはお上が決めた法の外に置かれるんだ。世の中の外に追いやって虐げられるんだ」
「全然わがんねぇ。なんで同じ人間なのに虐めるのけ?」
「同じじゃなかんべ。制外者だってさっきから言ってるべ。奴らは人間じゃねぇんだ」
兼造は、はぁはぁと肩で荒く呼吸をした。りんは円らな瞳いっぱいに涙を浮かべ、父を見据えている。兼造が息も切れ切れに尚も言う。
「人間じゃねぇから人の嫌がる仕事をやってんだ」
「へぇ、人の嫌がる仕事をやってくれてんなら感謝しなきゃなんねぇな。遊郭は男の人、喜んで行ぐべ? ありがてぇな」
「屁理屈こくでねぇ!」
兼造が手を振り上げると、りんは目を瞑り両手で頭を覆った。兼造がはっとして手を止める。りんはゆっくりと手を下ろし、涙を拭った。
「人間だべ」
「ああ?」
「人間だがね。みんな普通の人だったべ。おらと同じように笑ったり怒ったりして。みんな優しい心を持った人だべ」
人買いのおじさんは、迷子の自分を案内してくれた。大見世の若旦那は、不安な気持ちを吹き飛ばしてくれた。綺麗な女の人は、おひさまみたいに暖かい眼差しを向けてくれた。そして勇次さんはいつも優しく見守って……。
「あははは!」
唐突にお志摩が下品な高笑いを響かせた。
「優しいだって? 笑わせるんじゃないよ。男がなんで女に優しくするか知ってるかい?」
眉をひそめ、りんが継母に視線を移す。突然の問いに動揺が隠せない。
「あんたはまだねんねだもんね。知らないだろうから教えてあげるよ」
お志摩はにやにやしながらりんに近づいた。濃いめの白粉と酒の入り混じった臭気に、りんはつい顔をそむける。そんな少女の初心を嘲りの眼で捕え、お志摩は可憐な顎をぐいとこちらへ向けた。
「男が女に優しくするのは下心があるからさ」
「⁉」
「男は女を抱くことしか考えてないのさ。女を抱くためならいくらだって優しくできるんだよ」
りんはわなわなと唇を震わせ、お志摩を突き飛ばした。
「母親に対して何するんだい!」
「あんたなんか母親じゃねぇ! おらの母親は死んだおっかやんだけだ!」
りんはそう叫ぶやいなや立ち上がり、戸口へと向かった。
「りん! どこさ行ぐだ! 夜に出歩いたら危ないべ! かどわかしに遭うべ!」
「お籠りだがね! おとうちゃんが病気で行げねぇから、おらが代わりに行ってくるだに!」
家で年神さまをお迎えすればいいと絞り出すような父の言葉を振り切って、りんは土間に降り草履に足を入れた。
「朱座に行ったら許さねぇぞ!」
「だがら行がねぇってさっき言ったべ!」
りんは叫びながら外へと飛び出した。それを尻目にお志摩が酒をあおる。
「ほっときな。月のない晩は男も女も出会いを求めてるんだ。女になって帰ってくりゃ、世の中の仕組みも少しはわかるだろうよ」
「おめぇって女は……」
兼造は悔しさを滲ませ、薄い布団に突っ伏した。思うように動かない病身が恨めしい。たった一人の愛娘さえ守ってやれないとは……。
己の不甲斐なさに唇を噛みしめながら、城下町に響き始めた除夜の鐘をただ聴き続けるしかなかったのである。
除夜の鐘が鳴り響く中、りんは一人、とぼとぼと歩いた。
年越しの晩は寺や神社で年籠りをしようと近隣から家長や惣領がぞろぞろ集まってくる。かどわかしに遭うから危ないと父は言うが、燈火が並ぶ通りは明るいし、これだけ人目があるのだから、何かあれば誰かが助けてくれるだろうと高をくくっていた。
——怖くなんかねぇべ。おらはもう大人だ。
自分はもう15歳。夜の一人歩きなど怖くはない。おとうちゃんなんかいなくたって生きていける。
そう自分に言い聞かせ、本応寺に向かって歩いていたときのこと。いきなり背後から男が近づき、耳元に生温い息を吹きかけてきた。ぞわっと全身に鳥肌が立つ。
「よお、お嬢ちゃん、可愛いね。一人かい? 俺らと一緒にいいことしようぜ」
その言葉とともに黒い影が5人、あっという間にりんを取り囲んだ。かどわかしだ。ばくんと心臓が一気に跳ね上がった。
――どうしよう、おとうちゃんの言うこと聞かなかったから罰が当たったんだ。誰か、誰か助けて。
助けを求めて周りを見回したが、寺社へと急ぐ人々は、誰も小娘の危機に気づかない。ばくんばくんと鼓動が大きくなる。声を上げようにも喉の奥に引っ掛かって出てこない。足がガタガタ震えているのは寒さか恐怖か。周りの景色もわからないほどに、焦りばかりが襲ってきて、もはやどうしてよいのかわからず真っ白になってしまった。
そのときだ。
「ぅげっ!」
りんを取り囲んでいた男のうちの一人が、突如悲鳴を上げてその場にばったりと倒れ込んだ。
「なんだ、てめぇ⁉」
異変に気付いた男たちは一斉に戦闘態勢に入ったが、一瞬のうちに3人が伸されてしまった。
残る一人が拳にぐっと力を込める。5人の中で一際体格が良く、強面でいかにも喧嘩慣れしているといった風情だ。
「てめぇ、朱座の野郎か」
吉原つなぎを見た男は袖を捲り上げ、対抗するかのように筋骨隆々の腕に彫られた牡丹の刺青を見せつけた。
「面白れぇ。俺様のこの牡丹、散らせるもんなら散らしてみやがれ」
勢いよく拳を振り上げた刺青男は、しかし、あっさりと回し蹴りを食らい、最後は前蹴りでとどめを刺され気絶した。
年籠りへ向かう人波の中でいきなり起こった鮮やかな乱闘劇。その場にいた野次馬どもから拍手が巻き起こった。
「お兄さん、なかなか面白い見世物だったよ」
野次馬の一人がチャリンと足元に一文銭を数枚落とす。それにならって何人かが銭を落としていった。
「なんで俺はいっつも乞胸と間違えられるんだろうな?」
お兄さんと呼ばれた男は納得がいかないといった表情で首を傾げながら、近くに居た日勧進の鉢にそれらの銭を入れてやった。その一部始終を刮目していたりんが呟く。
「勇次さん……?」
かどわかしの男たちから守ってくれたのは勇次だった。
腰を抜かさんばかりに驚いたりんは、立っているのがやっとというふうだ。勇次は片手でりんの腕をしっかり支えながら、もう片手で提灯を掲げた。りんが開かれた瞳孔でその顔を今一度確かめる。温かな灯火に照らされた男の顔は、紛うことなく勇次のものだった。
「どした? こんな月のねぇ晩に一人で歩いてたら危ねぇだろがよ」
叱るような、それでいて優しい声を聞き、りんはほーっと安堵の白い息を一気に吐き出した。緊張の糸が切れると同時に、今度は胸の奥から言い知れぬ感情が込み上げてきて、喉から鼻へつんと突き抜けていった。
「お、おい、泣くな泣くな」
勇次が慌ててりんをなだめる。一人で夜道なんか歩いていたものだから、心配で声を掛けようと近づいていったところ、いきなり男たちに囲まれたのだ。だが、助けるにしても彼女の目の前で乱暴狼藉を働いたのはまずかったかもしれない。重ね重ね嫌われてどうする。
「悪かったよ、怖がらせちまって。謝るから、ほんとごめん。だから泣かないでくれよ、な?」
謝り倒す勇次の顔を見つめ、りんが震える唇を歪ませる。
「ちがっ……ちが…うっ……がうっ……」
違う、そうじゃなくて——ちゃんと説明したいのに、堰を切ったように止め処なく溢れ流れる涙はもう止められなかった。
えぐっえぐっとしゃくりあげるりんに、勇次は首巻を外して頭からすっぽりと被せてやった。この泣き方は恐怖に怯えての泣き方ではない。ほかに何か理由があることを直感したのだ。
細っこい腕を引き、その泣き顔を誰にも見られないよう狭い路地へと連れてゆく。それから通りを向いて立ち、背中に隠した。
何があったのか理由も聞かず、りんの涙の盥が空になるまで、勇次はただそっと待ち続けた。
次回から第5章「星降る夜」に入ります。
第17話は「勇次の生い立ち①」です。
勇次の過去が明らかになっていきます。