第15話 遊神様の恋
【前回のお話】
遊郭なんかこの世からなくなってしまえばいい——。
そう言い切る竜弥の瞳が盟友・大江卓造に似ていると陸奥は思った。
一方、川越の勇次は遊神孔雀と恋話をはじめる。
勇次の声が急に聞こえなくなり、盲目の孔雀は訝った。
「でも、なんだい?」
「なんか、想像してたのとちょっと違ったっていうか。可愛いは可愛いんだけど、14歳って思ったより子供っぽいっていうか……」
胡蝶がませているだけなのだろうか、と首を捻る。
「14歳なんて1、2年もすればすぐに大人になるさ」
420年も生きている孔雀から見れば、1年や2年などそれこそ光陰矢の如しだろう。しかしそれも一理ある、とも勇次は思った。
幼いところもあれば、時折ドキッとするほど色気のある横顔を見せることがある。折れるほどに華奢で低い背丈は貧しさゆえだろう。だからといって幻滅するものではないのが色恋の妙。
乱暴な武州訛り、あかぎれだらけの小さな手、雑に結われた緑の黒髪。ボロボロの着物に染みついた土の匂いさえも、そのすべてが愛しいと思えるから不思議だ。自分が側に置いて育ててやれば、おそらく誰もが振り向く素敵な淑女に……。
「もう、気になっちゃって気になっちゃってしょうがないって感じだよ」
孔雀がくすくすと肩を震わせる。押し黙ってしまった勇次からだだ洩れする恋心を敏感に受け取ったのだ。
「光源氏にでもなったつもりかい? ならば差し詰めその娘は若紫だね」
孔雀の茶化しに勇次は「俺、浮気なんかしねぇし」と口を尖らせた。
「まぁ、でも、14歳じゃまだ体も出来上がってねぇだろ? だから無理はしたくねぇんだよな」
「へぇ、これまたずいぶんと大切に想ってるじゃないかえ」
勇次はへへっと首に手をやった。
「勇さんをそこまで本気にさせるなんて、その娘、よっぽどいい色を持ってるんだろうね、瞳に」
「色? ああ、そういえば……」
りんの瞳を思い出す。そういえば、彼女の瞳に色を見たことがない。勇次は首を捻って唸り声をあげた。ここまで自分を虜にさせる女の瞳に色がないなんてことがあるのだろうか。
勇次の異変に気付いた孔雀が、心配そうに問いかける。
「まさか、色がないとかありえないよねぇ。だってこんなにも勇さんを夢中にさせるんだもの」
今までは意識して見たことがなかったせいかもしれない。今度はよく確かめてみよう。
——いや、待てよ。
と、そこで思考が逆戻り。今度とはいつのことなのか。次はいつ会えるのか。次の約束もせず、ただ泣かせただけで別れてしまったではないか。
泣かせた。そうだ、泣かせてしまったのだから嫌われたかもしれない。もしそうだとしたらもう二度と会ってはくれないだろう。
焦りにも似た感情が湧き上がり、突如不安に駆られる。
「いいなぁ、勇さん。想い人がいるって毎日が楽しいだろ?」
「いやぁ、案外しんどいな」
「それも含めての色なのさ。朝起きたら見るものすべてに色がついているって素晴らしいじゃないか。羨ましいよ」
「……」
再び黙ってしまった勇次に気づいた孔雀が慌てて気遣う。
「ごめんよ、勇さん、からかってるんじゃないんだよ。わっちは勇さんの世界に色が付き始めたのが嬉しくって……」
「おめぇはどうなんだよ?」
勇次の声色が変わった。彼の言いたいことはすぐにわかった。孔雀がとぼける。
「わっち? わっちがどうしたって?」
「待ってるんだろ?」
孔雀が一番触れられたくない心の淵。わかってはいても勇次はその名を口にせずにはいられなかった。
「竜弥のこと、ずっと待ってるんだろ?」
「勇さん、あのね……」
「あいつが出ていってもう2年半だ。いつまで待ってる気だ? 5年か? 10年か?」
雪之丞が品川溜で目撃したという竜弥。半年経ってしまった今はもう品川にはいないだろう。生きてまた何処かで放浪しているのか、それとも野垂れ死んで捨て場に葬り去られてしまったか。そんな、いつ帰ってくるとも知れぬ男のことをいつまで待ち続けているというのか。
「遊神のおめぇにとっちゃ5年も10年も一瞬かもしれねぇが、人間にとっちゃ大きな時間だ。それだけ時間がありゃ所帯持って、ガキ作ったっておかしかねぇ」
孔雀は黙って紅の唇を噛みしめた。
「山下屋さんの御曹司、律義者だって聞くじゃねぇか。顔だって優しそうでさ、悪くなかったぜ。奥手だが誠実なあの人ならきっとおめぇを大切に……」
「勇さん!」
孔雀が声を荒げ、勇次の言葉を止めた。
そんなことはわかっている。たかだか二十余年しか生きてこなかった人間ごときに言われずとも、わかっているのだ。それがわかっていながらどうしようもできない想いだから、これほどまでに苦しんでいるのではないか。
「それを言うなら勇さんこそ許嫁とさっさと一緒におなりよ。先代の女将さんの一周忌が終わるまで祝言挙げるの待っててもらったんだろ? それもとっくに済んだんだからとっとと嫁に来てもらえばいいじゃないか。なんのかんのと口実付けて引き延ばしちゃってさ。漢らしくないったらありゃしない」
絶句する勇次を無視して孔雀は一気に続けた。
「美人なんだろ? もうすぐ19歳。行き遅れたら可哀想じゃないか。船問屋のお嬢様なんて釣鐘や太鼓叩いても見つかりゃしないよ。大店と手を結べば邑咲屋も安泰だ」
「ありゃ元々俺の許嫁じゃねぇ。竜弥のお下がりだ。あの野郎が勝手に出ていきやがったせいで俺にお鉢が回ってきただけだ。だいたいあの女は好かねぇんだよ。言葉の端々から俺ら制外者を見下してんのが見え見えだぜ」
孔雀の猛反撃に負けじと勇次もまくしたてる。孔雀もまったく怯まない。
「勇さんにべた惚れなのに見下すのかい?」
「それとこれとは話が別らしいぜ」
ふうと孔雀が呆れたように肩を下ろす。勇次は立膝を寝かせ、腰を落とした。
「……悪かったよ」
りんと出会ってから初めて本気で人を想う心を知り、それと同時に思い悩む苦しさも知った今、孔雀の想いの丈がわかるようになってしまったのだ。それでつい余計なことを——。
「自分の恋が思い通りにいかないからって八つ当たりはよしとくれ」
言葉とは裏腹に八つ当たりではないことは、当の孔雀が一番よく知っている。勇次のことは少年時代からずっと見えない目で見てきた。そんな男の成長を、誰よりも喜んでいる自分がいる。
「だよな、ごめん。俺、馬鹿だよな」
「勇さんだけじゃないよ。恋すると誰もが馬鹿になっちまうものさ」
わっちもね、と目を細めた孔雀の顔にようやく笑みがこぼれた。420年生きてきた遊神だとしても、こればかりはどうにもならないものらしい。
大晦日、遊郭では妓楼主から遊女たちへ御簾紙と玉煙草が贈られ、花魁から妓楼主へは着物が2枚贈られる。身内の勇次は内証で妓楼主伊左衛門、お亮と共に来客の相手をしながら田楽と豆腐汁を振舞っていた。
年越し蕎麦は若い衆や中郎、下女に至るまで振舞われ、皆、朝まで寝ずに過ごす。年越しに寝てしまうと白髪になり皺が増えるとまことしやかに信じられていたこの時代、特に遊女たちにとって見た目の老化は一大事。やいのやいのと眠ってしまわぬよう日の出まで騒いでいるので、実に華やかで賑やかな年越しであった。
それは貧しい百姓の娘とは縁のない世界。里芋の入ったかけ蕎麦をすすり、小さな炎を灯し続ける囲炉裏を家族で囲んでいる。新月の年越しは凍えるような寒さを残したまま過ぎようとしていた。
「りん、すまねぇべな。15歳の祝いに着物のひとつも買ってやれねぇでよ」
最後の里芋をりんに食べさせてもらうと、綻びだらけの着物を見つめて兼造は肩を落とした。父は小さくなった。幼い頃に肩車をしてくれた大きな背中は見る影もない。
「おとうちゃん、おら、着物なんかいらねぇべ。おとうちゃんが元気になってくれたらそれでよかんべ」
りんはにこっと父に微笑んだ。愛娘の優しさに父が涙ぐむ。だが、父娘水入らず、穏やかに、というわけにはいかなかった。その場には継母お志摩もいたからだ。
「あの傾城屋の色男に買ってもらえばいいじゃないか」
どきり……と、りんが身を震わせた。抱き寄せられたときの温もりが一瞬にして甦る。甘くて優しい伽羅の香り。つないだ大きな手は思いのほか柔らかく、あかぎれだらけの冷えた手を優しく握りしめてくれた。
いつもと違う娘の様子に兼造はすぐに気づいた。
「りん、おめ……まだその男と付き合ってるのけ?」
「付き合ってるわけじゃなかんべ。助けてもらったお礼をしに行っただけだべ」
言ってからしまったと口を塞ぐ。が、時すでに遅し、父は怒りの形相で娘を睨みつけた。
「おめぇ、朱座に行ったのけ?」
「行ったら悪いのけ? 男の人はみんな行ぐべ。おとうちゃんだって行ったことあるべ?」
「生意気言ってんじゃねぇ!」
兼造は開き直るりんの頭をはたいた。
「もう二度と行ぐんじゃねぇぞ」
「……行がねぇよ」
りんは唇を噛みしめ涙を堪えた。自分の軽率な一言で勇次を怒らせてしまったのだ。どのような顔で会えというのか。いや、おそらくもう二度と会ってはくれまい。
「おやめ。年越しの晩に親子喧嘩なんかしてたら、年神さまが来なくなっちまうじゃないか」
お志摩が吐き捨てる。それからつまらなそうに酒臭い息をまき散らした。
「りん、本当に何もないのかい? 上手いことやれば結納金ふんだくれるのにさ」
「端金のために大事な娘を傾城屋なんかにくれてやれっか」
兼造がお志摩を睨みつける。妻を亡くした寂しさからとはいえ、なぜこのように強欲な女を後妻に迎えてしまったのか。悔やんでも悔やみきれない。
「制外者なんかにりんはやらねぇだに」
兼造はお志摩を睨んだまま言い切った。りんが首を傾げ、父に問う。
「なぁ、おとうちゃん、こないだから気になってたけんど、その、にんがいもんってあんだんべ?」
父の眼に嫌悪と侮蔑の色が満ちる。りんはごくりと息を呑んだ。
次回は第16話「りんの涙」です。
【参考文献】
『遊郭と日本人』田中優子さん著(講談社現代新書)