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第12話 気まずい別れ方

※遊郭の闇が語られます。ご注意ください。


【前回のお話】

 りんに朱座あかざ遊郭の中を案内した勇次。

 彼女の「邑咲屋の女郎になりたい」という言葉に顔を曇らせる。

 優しかった勇次の笑顔が怖ろしい形相に変貌した。


 驚きと恐怖で、りんは目を何度も(しばた)いた。何か言おうにも声が出ない。


 厳しい顔を崩さぬまま、勇次がつないでいた手を離して(ふところ)()する。


「遊郭なんか人間の住むとこじゃねぇ。女郎なんかそれこそ家畜以下の扱いだ。麦飯と新香しか食わしてもらえねぇし、休みは盆と元日の年2回だけ。外へは一歩も出してもらえず、町に出掛けたきゃ身揚がりして借金増やすしかねぇ。だが、出掛けたところで逃げられねぇように遣り手婆か妓夫の監視付きだ。具合が悪くなっても医者に行けねぇ、薬ももらえねぇ。毎日毎晩、見ず知らずの好きでもねぇ男に抱かれまくって、(はら)めば中条(ちゅうじょう)(堕胎)、鳥屋(とや)につきゃ(梅毒に(かか)ること)行燈(あんどん)部屋に閉じ込められて、ただ死ぬのを待つだけだ」


 一息ついて寒桜の一輪を見上げた。


「遊郭ってとこはよ、楽しいのは男だけなんだよ。男にゃ極楽でも女は地獄。苦界に身を沈めて10年我慢すりゃ自由の身になれると思ったら大間違いだ」


 再びりんに視線を戻す。


「その前にほとんどがおっ死んじまう。梅毒、結核、心中、首吊り、折檻……。毎年数えきれねぇほどの女が死んでいく。それが遊郭ってとこだ」


 (おけ)屋を指差す。外に大きな桶がいくつも立てかけてあった。


「あれがなんだかわかるか?」


 (おび)える目でりんは首を横に振った。


「あれは(はや)(おけ)といってな、死体を入れる桶だ。誰かが死ぬと非人を呼んで早桶に入れさせて、夜中にこっそり運び出させるんだ。死体が何処に捨てられるかなんて誰も知らねぇ。知る必要もねぇ。そんな光景も遊郭じゃ日常茶飯事だよ。人が死んでも誰も悲しまねぇ。悲しみなんかみんな麻痺しちまってるのさ」


 そこまで言い終えると、勇次は妓楼が並ぶ暖簾を振り返った。


「さっきの人たちだって、優しく見えるが仕事となりゃ鬼の顔になる。金舟楼の若旦那は惣名主の跡取りだから特におっかねぇ。女郎が駆け落ちしようもんなら獄卒みてぇに容赦しねぇのさ。地の果てまで追いつめて、間夫(まぶ)ともども連れ帰って死ぬまで折檻だ。おめぇをここまで連れてきた半十郎さんは女衒、つまり女を物みてぇに売り買いする人買いだ。貧しい百姓の娘や牢屋から奴刑の女を連れてきちゃ傾城屋に売り飛ばす」


 それから、すうっと息を大きく吸い込み、どす黒い光でりんを捉えた。


「傾城屋の俺も同じ穴の(むじな)だ」


 そして朱座の者は皆人別帳から外された制外者——と言おうとしたところで、はっと口をつぐんだ。りんの瞳に(あふ)れんばかりの涙が溜まっていたからだ。


「もうよかんべ。わかったに。もうお女郎さんになりてぇなんて言わねぇ」


 りんは上を向いて必死に涙を(こら)えた。


「どうせ飯盛り女やらされるなら、邑咲屋さんのお女郎さんになって勇次さんのそばにいてぇって思っただけだべ」


 言うなり鍋を勇次から奪い取り、大門に向かって走り出した。勇次は小さな背中を追ってゆるゆると歩いてゆく。


 やはりそうであったか。年が明け、15歳になったらりんは飯盛り女をやらされるのだ。


 どのような事情があるというのか。干ばつ、水害、飢饉、貧困ゆえの借金苦、身内が犯した罪の縁坐……。今まで数えきれないほどの遊女と出会い、一人一人にそれぞれの事情があることは百も承知。傾城屋がそれをいちいち同情していては切りがない。


 自分だってそうだ。思い出したくない過去がある。この朱座には理由(わけ)有りじゃない者など一人もいない。朱座は、社会から弾かれ、居場所を失くした者たちが集まる吹き溜まりであり、人目を忍んで生きざるを得ない者の最後の(とりで)でもある。


 (ゆえ)に自ら望んで制外者になる者も少なくない。だから心に何も響かせないよう感情を閉じ込めて生きているのだ。


 それなのに、いったいなんなのだ、この痛みは。鋭くも鈍くもない、得体の知れぬ痛みが胸を襲う。傀儡の糸が切れたみたいに暴れ出した感情が、どうしようもなく抑えられない。


 大門を出ようとするりんを、遠巻きに見つめる。


「きゃあっ!」


 りんが突然叫び、何かに跳ね返されるように尻もちをついた。


「なんだ、小娘? 手形はどうした? 手形がねぇと出れねぇぞ」


 四郎兵衛番所に詰めていた門番が飛び出してきてりんを捕える。そこへ勇次が悠然とやってきた。


「俺の情女(いろ)に気安く触んじゃねぇ」


 ひと睨みする。嘘も方便だ。


「こりゃ邑咲屋の若頭、失礼いたしやした」


 門番は慌ててりんを解放した。勇次がりんの腕を引き上げる。


「やっぱりな。半十郎さんと一緒だったから手形もらわねぇで入ってきちまったんだな」


 半十郎はそのことを勇次に伝え忘れていたらしい。


「手形って……?」


 りんが訊き返す。鍋を拾い上げながら勇次は言った。


「女郎の足抜けを防ぐため、女は客も含めて全員手形がねぇと大門から出られねぇことになってんだ」


 女の客は大門をくぐるときに手形を受け取り、出るときに返却するという仕組みである。


「えっ⁉ でもさっき、なんか、見えない壁みたいなのにぶつかって、そのときビリっと(しび)れて吹っ飛ばされたべ」


 りんはあかぎれだらけの手をさすりさすり答えた。


「ああ、結界が張ってあるからな」


「結界?」


 言っている意味がわからないといったふうにりんは勇次を見上げた。勇次が平然と告げる。


「この結界で朱座は外から見えねぇようになってる。そのお陰でお上の目から守られてるんだ」


 ますます訳がわからない。りんは頭を抱えた。


「見えねぇ……って、じゃあ、おら、一生ここから出られねぇのけ? おとうちゃんともう会えねぇのけ? そんなの嫌だ。おとうちゃんは病で寝たきりだべ。おらがいなかったら誰がまんま食わしてやるんだ?」


「おっかさんがいるだろ」


「あれはおらのおっかやんじゃねぇ。ままおっかあだ。おとうちゃんのことなんかほっぽらかしだがね」


 なるほど継母(ままはは)だったのか。どうりで娘を心配しないわけだ。勇次は合点がいったというふうに二、三度小さくうなずいた。


 今にも泣き出しそうに歪んだ眉を見つめる。この結界に阻まれ、絶望の淵に突き落とされた遊女を数えきれないほど見てきた。だが、りんの顔を見ていると、朱座の遊女になるということはこういうことなのだ——と突き放すことはできなかった。


 ふうと肩で息を吐く。


「女がここから出る方法は手形以外にもう一つある」


「あに?」


 りんがすがるような瞳で見つめ返す。勇次はゆっくりと答えた。


「男と手をつないでいれば結界は抜けられる」


 そう言って左手をりんに差し出す。りんはさっきまでつないでいた手を見た。瞬間、勇次はその手を掴み強引に引っ張った。


「あっ!」


 という間の出来事。驚く暇もなく、勇次に手をつながれたりんは、いとも簡単に結界の外へと抜け出した。


 振り返ると今の今までいた遊郭が跡形もなく消え去っている。大門の中にある景色は野菜畑ばかり。狐につままれるというのはまさにこのことだ。


 またあの歪んだ杉林を抜け、東照宮の脇に出て——と来た道を脳内で辿っていると、勇次がりんの手を引き脇道にそれた。


「どこ行くべ?」


「近道だよ」


 気づいたときにはすでに喜多院裏のお堀沿いを歩いていた。


 勇次がどろぼう橋の(たもと)で立ち止まる。りんが左に顔を向けると休田が広がっていた。夢でも見ていたのだろうか。


 色々思案を巡らせ、ぼーっとしていたそのときだ。勇次がつないでいた手を離したかと思うと、その手で不意にりんを自分の胸に抱き寄せた。


 突然のことにりんは頭が真っ白になった。勇次がりんの頭にあごを乗せ、そっとささやく。


「怖い思いさせちまってごめんな」


 低い声にはいつもの優しさが戻っていた。


 勇次はすぐにりんから離れると、自分の首巻を外し、りんの首に巻いてやった。伽羅の甘い香りが傷ついた心を癒してゆく。


 勇次は再びお堀に沿って歩き出した。りんも後ろをついていく。建立されて間もない本行院(ほんぎょういん)に突き当たると、次第に人通りが増えてきた。朱座から一歩外の世界へ出れば、もう肩を並べて歩くことはできない。仲睦まじくおしゃべりすることもかなわない。


 2人は3歩の距離を保ったまま目抜き通りを歩いた。勇次は、建物に沿って並べられた五郎太石より中央にはみ出ないよう気をつけてやる。時折背中から、すんっすんっと鼻をすする音が聞こえてきた。


 ——あんな純情そうな娘、泣かせるんじゃないよ。


 姉の言葉が突き刺さる。結局、泣かせてしまった。激しい後悔が襲う。ならば、どうすれば良かったのか。なんと言ってやれば良かったのか。


 言い方か。そうか、言い方がまずかったのかもしれない。確かにあの言い方は大人げなかった。しかし、あのときはどうしても感情が抑えきれなかった。りんの純心と朱座の現実があまりにもかけ離れ過ぎていて、どうしようもない焦りが(せき)を切ったみたいにあふれ出てしまったのだ。


 ——勇次さんのそばにいてぇって思っただけだべ。


 同じことを考えていたと知って死ぬほど嬉しかった。自分だってりんと毎日一緒に居られたらどんなに幸せなことか。


 だけど、そばに居たいのに朱座には居てほしくない。好きになってほしいのに深い仲になるわけにはいかない。理想と現実の乖離(かいり)をこんなにも強烈に意識したのは、川越に来てから初めてだ。


 札の辻を曲がるとき、非人が物乞いをしてきた。ふっと力なく笑い、いつものように懐の財布から一文銭を数枚恵んでやる。りんはいつも彼らに対し見て見ぬふりをしていたから、勇次の態度に感銘を受けていたようだった。


 勇次は何事もなかったように西へと歩き出した。しばらく行くと赤間川のせせらぎが聴こえてきた。対岸で水車がコトコトと回っている。右に六塚稲荷神社、左には見立寺(みたてじ)。高沢橋の向こう側、本応寺の先には石原町の旅人宿が軒を連ねている。


 ああ、現実に到着してしまった……。


「もう、ここまででよかんべ」


 高沢橋の真ん中で、りんが声をかける。その声に涙の色はもうない。


 勇次が立ち止まると、りんは首巻を外し、鍋と交換した。


 目が赤い。袖口は涙なのか鼻水なのか、ぐっしょり濡れて冷たかろう。


「どうもありがとう」


 必死に笑顔を作ってぺこりとお辞儀する姿に、また胸がチクリとする。


「いや……」


 続く言葉を待たずにりんは、児玉往還を走っていってしまった。


 こちらこそわざわざ城下町の反対側まで来てもらって申し訳ない。

 里芋の煮っ転がし美味かったよ。

 次はちゃんと……。


 続きの言葉を持て余したまま、勇次は小さな背中を見えなくなるまで目で追っていた。

次回から第4章「大晦日おおつごもり」に入ります。

第13話は「竜弥」です。

生きてるかな?


【用語解説】

身揚がり:遊女が金を払って休みを取ること。

間夫まぶ:ここでは遊女の恋人のこと。

情女いろ:恋人。男性の恋人は「情夫いろ」と表記。

どろぼう橋:喜多院の裏にある橋。喜多院は天領のため悪人が逃げ込んでも奉行所の手が及ばないことからこう呼ばれた。

五郎太石ごろたいし:ここでは歩道と車道の境目に並べられている小石のこと。

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