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第10話 結界の中

【前回のお話】

 大富豪の御曹司を太客に付けることに無事成功した勇次と花魁孔雀。

 翌日、りんが勇次を訪ねて喜多院に迷い込む。

 りんは半十郎に連れられ、朱座遊郭へと向かった。


 喜多院の山門を出て右手、仙波東照宮の前を通り過ぎ、中院の手前で再び右に曲がると防火用の杉林に入る。その杉林の中を通り抜ける半十郎の背中を、りんは必死についていった。


 まだ巳の刻(午前9~11時頃)だというのに、辺りがだんだん暗くなってゆく。天に向かって真っ直ぐ伸びているはずの杉の木が、心なしか歪んでいるようにも見える。


 りんはドキドキしながら、半十郎を見失うまいと必死に歩いた。


 ほんの一町(約110メートル)余りの距離なのに、長い迷路を辿っているかのような感覚に襲われる。周りの景色はすでに何も見えない。色は杉の葉の緑からやがて茶褐色に変化していた。まるで異界に迷い込んでしまったかのようだ。


 しばらくすると、茶褐色に歪んだ景色が徐々に色付き始めた。それと同時に木々の歪みも取れてゆく。


 と突然、瞳の中に一筋の光が差し込んできた。目を凝らしてその光の出所を辿る。


 するとどうだろう、今し方までぼんやりとしていた景色がはっきりと輪郭を顕わにしたではないか。


 そのとき、はっと見開いた瞳に飛び込んできたのは信じがたい光景だった。


 気づくとりんは大きな門の前に立っていた。


 えっ?えっ?と焦りながら辺りを見回す。どこを見ても喜多院はおろか東照宮も中院も見当たらない。辺り一面は休田ばかり。大門の向こう側に見えるのはただのほうれん草やカブなどの野菜畑だ。それ以外は何もない。


 自分の置かれている状況が呑み込めず、呆然と立ち尽くすりんに半十郎が声をかける。


「さ、着いたぞ。ここが朱座だ」


「朱座……って、何もなかんべ」


 朱座は遊郭だと聞いた。実際に遊郭に訪れたことはなくても、派手な提灯(ちょうちん)や妓楼が立ち並ぶ煌びやかな世界だと聞いたことはある。そこまでではないとしても、さすがに野菜畑を遊郭だと言われれば狐に化かされたとしか思えない。


 りんは少し怒ったように半十郎を睨んだ。だが、半十郎は微笑むばかり。りんは何が何だかわからずに促されるまま大門をくぐった。


 そこでまたまた彼女は驚かされることになる。


 大門をくぐった瞬間、瞳に映されたのは、まさに噂に違わぬ遊郭の世界だったのだ。


 真っ赤な提灯、真っ赤な楼閣、広小路の真ん中には寒桜と色とりどりに咲き誇る四季折々の花たち……。そこは常春の極楽浄土か、はたまた不老長寿の桃源郷か。


 ——今、師走だべな……?


 真冬だというのになぜこんなに季節はずれの花が咲き乱れているのだろう。りんの頭の中はぐちゃぐちゃに混乱を極めた。


 目にも鮮やかな異世界に目を奪われ絶句するりんの背を、半十郎が押す。


「こっちだ」


 りんは導かれるまま歩みを進めた。半十郎は遊郭で一際大きな妓楼『金舟楼』の脇を抜けていった。狭い路地をりんも続く。


 そこへ一人の男が金舟楼の裏口からひょいと顔を出した。


「あれ、半十郎さんじゃないかえ。どうしたんだい、こんな朝っぱらから」


 朝っぱらと言ってももう巳の刻ではないか、変なことをいう人だ、とりんは首を傾げた。だが、遊郭の朝が遅いことを彼女は知らない。


「おう、甚吾郎、おはようさん」


 出てきたのは金舟楼の若旦那・甚吾郎。一服しようと煙管片手に出てきた彼は、すぐに半十郎の後ろに隠れていたりんに気づいた。


「えっ? ちょっと待って半十郎さん、なに、その可愛い生き物」


 驚いたようにりんの顔をのぞき込む。りんは恥ずかしそうに顔をそむけた。


「え? なに? なに? えれぇ上玉じゃねぇか。新しい子、売りに来たのかい? いっつも邑咲屋ばっかじゃなくてよ、たまにはうちにもくれよ」


「おめぇさんとこは十歳(とお)以下の娘しか()らねぇだろ」


「こんな上玉なら話は別だ」


 すぐに引っ込みにして育ててやるだのなんだのとのたまう。


 すると隣の見世の裏口から、川越唐桟(とうざん)を粋に着こなす三十路(みそじ)女が煙草を吸おうと出てきた。


「なんだい、甚さん、朝っぱらから騒々しいねぇ。おや、半十郎さんも、こんな時分に珍しい」


 顔を見せたのはお亮だ。彼女もすぐにりんに気づき、顔を見るなり眼の色を変えた。


「ちょっと、ちょっと、なんだい、この可愛い生き物は」


 あんぐりと口を開け、まじまじとりんの顔を見つめる。


 よし買った、否うちが買う、いいや駄目だ、この娘はうちのもんだ、おめぇんとこはこないだ一人買ったばっかだろ、とお亮と甚吾郎の間で揉め始めた。


 それを見たりんが(おび)えた表情で半十郎を見上げる。


「おら、売られるのけ?」


 半十郎は慌てて2人の間に割って入った。


「おいおい、誰が売りもんだって言ったよ。この子は勇次の客だ」


 はぁ?と2人が同時に振り向く。


「もう、あの馬鹿は本当に別れ方が下手だねぇ」


 どうせ別れ話がこじれて乗り込んできたんだろうとお亮が額に手を当てる。りんは違う違うと手を振った。


「勇次に礼をしに来たんだと」


 半十郎が代わりに説明する。


「礼? その鍋がかい?」


 お亮と甚吾郎は興味津々で鍋に目をやった。ああ、と気づいたりんが鍋の(ふた)を開ける。


「良かったらどうぞ」


「いいのかい?」


 甚吾郎が真っ先に手を伸ばし、鍋に詰められた里芋の煮っ転がしをひょいと口に入れた。


「!」


 甚吾郎が目を丸くしてお亮を見る。はしたないねぇ、と呆れながらお亮も里芋を頬張った。


「!」


 お亮は目を丸くして半十郎を見た。どれどれと半十郎も里芋を口に入れる。


「!」


 半十郎も目を丸くして2人を見た。食べ終えたお亮がりんに顔を向ける。


「なんて美味しいんだい。所沢の里芋より美味しいじゃないかえ?」


「これはおらんとこの畑で採れた里芋だがね」


 南町の路地裏に菓子職人が集まっている一角があって、里芋と引き換えに売り物にならない飴の切れ端をもらい、砂糖代わりに味付けしたのだと言う。


「あんた、料理上手なんだねぇ」


 お亮がニコッと笑いかける。りんはその笑顔を見つめ、ほーっと感嘆の息を漏らした。


「えら綺麗な人だいねぇ。遊郭にはこんな綺麗な人がおるべな。おら、こんな綺麗な人、初めて見たべ」


 お亮が最高級の花魁だったとは露知らず、心なしか勇次と同じ伽羅の香りも漂わせる彼女をうっとりと見惚れる。


「あらやだっ、なんて正直な子なんだい。いい子じゃないか。あの馬鹿にゃもったいないよ」


 お亮は歓喜のあまり甚吾郎の肩をバンバン叩いた。痛ぇよと甚吾郎が顔をしかめながら()く。


「で、あの馬鹿はまだ寝てんのか?」


 あ、忘れてたとお亮が手を打ったところで、不機嫌そうな声が聞こえてきた。


「なんだなんだ? 朝っぱらからがちゃがちゃがちゃがちゃうるせぇなぁもう。女郎ども、まだ寝てんだぞ。起きちまったらまたぴーちくぱーちくうるさくてかなわねー……」


 ……と大あくびしながら邑咲屋の裏口から出てきたのは勇次だった。


 明け方近くまでご楼主の酒の相手をさせられていたから二日酔いで頭がガンガンする、と酒と煙草の臭いをぷんぷんさせ、おくれ毛だかアホ毛だか飛び散らかした総髪をわしゃわしゃ掻きむしっている。


「勇次、おまえに可愛いお客さんが来てるよ」


 お亮があごをくいと上げる。


「可愛い客ぅ?」


 片目を瞑りお亮のあごが指し示す方を見た瞬間、勇次は酔いが一気に吹っ飛んだ。


「りん⁉」


 ばっ、と思わず袖で無精髭を隠す。


 ——なんでりんがここに……?


 何故俺が朱座にいることがわかった? 誰から聞いた? 熊さんか? 直し屋か? どうやってここまで辿り着いた? うわっ浴衣煙草臭っ。髪はしっちゃかめっちゃかだし髭はボーボーだし。てか俺が傾城屋だってことがばれた? てことだよな……と間抜けな発想がぐるぐると頭の中を巡りに巡って蒼褪める。


 りんは勇次の驚きを知ってか知らずか前へ進み出た。


「手拭い、返しに来たべ。あと、これ、お礼……。お口に合うべか?」


 りんの手には手拭いと里芋の煮っ転がしが入った鍋。勇次は手拭いだけ受け取り、


「ちょっ、ちょっと待ってろ。いいか、帰っちゃ駄目だぞ。ここにいろよ」


 と、無精髭を袖で隠したまま大慌てでどたどた中に引っ込んだ。その様子を見たりんが、落ち込んだように(つぶや)く。


「あんだかやぁ……迷惑だったべな……?」


 「カッコつけたいだけさ」とお亮が優しい笑顔を向ける。それから甚吾郎と半十郎にりんの相手を頼むと、弟の後を追った。






 何故よりによってこのような最悪の体調の日に……。なんて間の悪いこと、神が殺生なら仏は無慈悲だ、などと罰当たりなことをたれながら勇次は浴衣を脱いだ。


 (あわせ)に袖を通したところで姉が障子を引いて顔を覗かせる。


「勝手に開けんなよ」


 勇次はいそいそと深紅の帯を締めている。お亮は黒(しま)の小袖を明眸(めいぼう)で下から舐め上げた。


「そんなに洒落(しゃれ)込んで、あの()をどうする気だい?」


 女の勘で見たところ、りんとやらはまだ生娘だ。この馬鹿に下心がないわけがない。


「どうもしねぇよ。帰りにかどわかされでもしたら寝覚めが(わり)ぃから送ってくだけだ」


 姉の意を汲んだのか、勇次は忌ま忌まし気に吐き捨てながら総髪をひっ詰めた。


「あれは石原宿の茶汲み娘だ。昨日、侍に盾突いて斬られそうになってたから助けてやった、それだけだよ」


 それを聞いてもお亮は険しい顔を崩さない。


「わっちはおまえが送ってく方がよっぽど危ないと思うけどね」


 それに……と、姉の険しい顔が鏡に映る。


「忘れるんじゃないよ。わっちらは制外者(にんがいもの)なんだからね」


 制外者——。勇次は髭を剃りながらその言葉を黙って聞いていた。姉の言いたいことはわかっている。制外者は平人と深く交わってはいけない、ということだ。


「ま、いいや。どうせおまえには許嫁(いいなずけ)がいるんだし」


 髭を剃り終え、ことりと剃刀(かみそり)を鏡台に置く。


「姉ちゃん、そのことだけど……」


「あんな純情そうな娘、泣かせるんじゃないよ」


 弟に皆まで言わせず、ぴしゃりと釘を刺す。


「ま、そんな酒臭い息で口説いても落とせやしないだろうけどね」


 お亮は高笑いしながら松葉茶の乗った丸盆を差し出した。勇次は姉を睨みつけ、くそったれがと松葉茶を口に含んだ。爽やかな香りがすーっと五臓六腑に沁み込んでゆく。胃のむかつきと頭痛が少しは和らいだだろうか。


 松葉茶を飲み干し、湯吞み茶碗を丸盆に戻す。それから薄紫の半纏(はんてん)を羽織り、首巻をくるりと巻き付けた。






 2人が裏口に戻ると、りんは甚吾郎と半十郎に挟まれ、きゃっきゃと楽しそうな笑い声を立てていた。


 やっぱり可愛いな、ああ抱きしめたい、口づけたい、やりた……。


「下心丸見えだよ」


 どんっと姉にどつかれ、はっと我に返る。純真無垢な横顔にうっかり見惚れてしまった。


次回は第11話「遊郭見学」です。

勇次がりんに朱座遊郭の中を案内します。


【用語解説】

唐桟とうざん:綿の着物で、朱色・青・茶などの縦縞模様が特徴。江戸時代に通人の間でブレイク。当初、高価で庶民には手が出せなかったが、江戸時代後期には庶民にも手が届くようになってきた。川越産は安価で良品質ということもあり人気だったそう。

あわせ:裏地のついている着物。


【余談】

川越で有名な菓子屋横丁は、江戸時代から菓子職人が集まっていたとの説があります。

ただ、「菓子屋横丁」という呼称は後世のものらしいです。

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