じっくり素材を吟味して、弱火でコトコト、時間と手間暇と愛情をかけて煮込んだシチュー
家紋武範様主催『知略企画』参加作品。
ホラーです。
残酷な描写があるので、苦手な方はご注意ください。
今日も遅くなってしまった。
いつも家まで送ったあと、シャワーをしっかり浴びているから当然か。
妻になんて言い訳をしよう。
そろそろ残業と言い張るのも限界だ。
最近、私を誘う頻度が増えてきた。
正直、嬉しくないと言えば嘘になる。
だが、妻に残業だからと毎度言い訳するのは疲れる。
だが、それでもあの子に誘われると断れない。
あの潤んだ瞳にせがまれると、どうしても欲情を制御しきれない。
妻には本当に申し訳ないと思っている。
だが、それでも、それでも私は、彼女と愛し合ってしまった。
彼女に誘われ、思わずその手を握ってしまった。
こんな関係がいつまでも続くとは思わない。
だが、もう少しだけ、この一時の甘い時間に浸っていたい。
彼女も本気ではないだろう。
きっと、すぐにこんなうだつの上がらない男には飽きるはずだ。
現に、いつもならすぐに返信を寄越すのに、今日はおやすみのメールに返信がない。
そうしたら、俺はまた今まで通り、妻と仲睦まじく生きていこう。
だから、もう少しだけ。
もう少しだけこのままでいさせてくれ!
私はそう願い、彼女へのメールを削除して、携帯をカバンにしまった。
「ただいま~」
まるでため息を吐くかのように呟く。
いつからだろう。
家に帰るのが憂鬱になったのは。
別に妻に不満はない。
料理もうまいし、家事もきちんと出来る。
パートをしていても、家庭を支える大黒柱だからと私を立ててくれる。
妻として、これ以上の女性と出会うことはないだろう。
だが、なぜだろう。
時折、そんな文句のつけようのない妻に、なんとも言えない嫌気が差すのは。
いつからだろう。
妻が張り切って、気合いを入れた料理を笑顔で食べながら、心の中でため息を吐くようになったのは。
夜の方も誘うのは妻からばかりで、私はそれに、義務的に応じるようになったのは。
「あなた!
おかえりなさい!」
初めの頃は、この声に胸をときめかせたものだ。
自分が愛した女性が自分の帰りを喜んで迎えてくれる。
それがこんなに嬉しいものかと、どれだけ喜んだものか。
だが、時間というものは驚くほどに残酷で、慣れというものは、たやすく喜びやら幸せやらを、平坦なものに変えていく。
「ああ、ただいま」
私は目を伏せて妻にカバンを渡す。
今日の妻は機嫌が良い。
きっと、良い食材が手に入ったのだろう。
きっと、ほっぺたが落ちるぐらいに美味しい夕飯なんだろう。
きっと、私はそれをうまいうまいと言いながら、喉に流し込むのだろう。
「あなた、今日も残業だったの?」
ドクン!
と、私の心臓が弾んだ。
ああ、大丈夫だ。
落ち着け、私。
いつものことじゃないか。
「ああ、まったく、人使いが荒くて困るよ」
私は私の心臓の音が妻に聞かれてやいないかと戦々恐々としながら、いつも通りの笑顔を浮かべる。
もう、張り付いたような笑顔を浮かべるのにも慣れてしまった。
「そう。
いつもお仕事お疲れ様」
ああ。
この優しい笑顔を見るたびに、私はいつも、安堵と後悔を感じる。
部下との蜜事がバレていないことに安堵しながらも、いっそ何もかもをぶちまけて楽になりたいとも思う。
そして、そんな自分にほとほと失望する。
私は、この瞬間を味わいたくなくて、帰宅が憂鬱になったのかもしれない。
「あ~!
うまかった!
今日の料理は特にうまかったな!
特にシチューなんて絶品だったぞ!」
「うふふ、ありがと!
頑張った甲斐があったわ!」
妻が嬉しそうに笑う。
実際、料理は本当に美味しかった。
それこそ、贔屓目なしに料理屋でも出来るんじゃないかと思う。
「いや、ほんとに、いつか店でも出せるんじゃないか!」
私は言ったあとに、しまった!と思った。
これじゃ、自分で店を出して働けと言っていると思われるんじゃないか?
それはつまり、おまえとは晩年、一緒にいないぞと、そう受け取られるのでは?
「……ふふ、そうね。
その時は、あなたにはウェイターでもしてもらおうかしら」
「あ、ああ。
そうだな」
妻の答えに安心して、思わずため息を漏らす。
私の考えすぎだ。
こんな時でも、私はしっかり張り付いた笑顔が出来ている。
大丈夫だ。
大丈夫。
「あ!
そうだ、あなた!」
「な!なんだ!?」
妻が突然、両手をパン!と叩いて、笑顔を向けてくる。
「今日のシチュー、美味しかったでしょ?」
「あ、ああ。
最高だったよ」
その会話、さっきもしなかったか?
「実はね、すごく良いお肉が手に入ったのよ!
処理が大変だったんだけど、加工してしまえば他のお肉と変わらないのね!」
「そ、そうなのか」
なんだ?
いつもはそんなこと言わないのに。
「まだ残ってるから、明日も美味しいの作ってあげるね!」
そう言って、妻は冷蔵庫を開ける。
取り出したのはビニール袋。
「そ、そうか。
それは楽しみだな」
ビニール袋の中は血が溜まっていてよく見えない。
「ここは食べるところが少ないの。
でも、うまく処理してあげるからね」
なんだ?
胸の動悸がおさまらない。
妻が、ビニール袋を持つ手を揺らすと、中身が少しだけ見えた。
「なっ!
お、おまえ、それ……」
なんだか、髪の毛のようなものが……。
「まだ若いから、肉がしまってて食べ応えあるわよね。
あなたも、そこが良かったのかしら?」
「……う、嘘、だろ?
ま、まさか……うっ!」
私は吐いた。
今さっきまで、うまいうまいと言いながら喉に流し込んだシチューを。
じっくりと煮込まれた具材を。
「バレていないとでも思ったの?
まさか、私が本当に毎晩毎晩残業だと言い張るあなたの嘘に気付いてないって?
バカにしないでほしいわね」
「あ……いや……」
妻は笑顔だった。
感情の一切を感じ取れないその笑顔に私は心底恐怖した。
「ふふふ、小鹿みたいにプルプル震えて、あなたはやっぱりかわいいわね」
妻が近付いてくる。
シチューに入れた肉を切った包丁を持って。
「あ……や、やめて……」
私は腰が抜けて、妻の方を向いたまま、ずりずりと手と尻で懸命に後退る。
「かわいい子よね。
目もおっきくて、顔はちっちゃくて、スタイルも良くて、胸も、私よりおっきかったわね」
妻は笑顔を変えない。
まるでピエロのような張り付いた笑顔。
己の感情を相手に感じ取らせない笑顔。
抑えきれない思いを、無理やり押し込めるかのような、笑顔。
やがて、私はソファーにぶつかり、眼前に迫った妻を見上げる。
「ひぃっ!」
妻は一瞬だけ、ものすごく冷たい目で私を見下ろし、またすぐに笑顔に戻った。
「あなたは私の笑顔が好きって言ってくれたわね。
最期に見るのも私の笑顔がいいって。
ほら、よく見て!
私、笑ってるわ!
あなたの好きな笑顔よ!
あはっ!
アハハはははハッ!」
そうして、私の人生は幕を閉じた。
「あはははははは……」
妻は夫の呼吸が止まると、笑顔を消し、すべてを凍てつかせるかのような冷たい眼差しで夫だったものを見下ろした。
「……」
妻はそのまま部屋の片隅にあるクローゼットを開ける。
「ひっ!」
そこには、夫と不倫関係にあった女がいた。
大きな瞳を涙で歪ませ、小鹿のようにプルプルと震えている。
「……あの人もバカよね。
ホントにシチューにあなたの肉が入ってたと思ってたわ」
女性の肌には傷ひとつついていなかった。
「適当に買った肉の塊と私の髪の毛を混ぜただけなのに」
妻はせせら笑いながら、肉の入ったビニール袋を放り投げた。
びしゃっ!という音とともに、ビニール袋の中身が飛び出す。
それは、まるでそこに転がる夫のように、じんわりと血溜まりを広げた。
「あなたは素直に謝ったから、特別に許してあげる。
というか、この人とおんなじ所になんて行かせてやらない。
せいぜい生きなさい。
ただし、このことを口外したらどうなるか、分かるわね?」
妻は今日一番の笑顔を女性に向けた。
「は、はいっ!」
女性はなんとかそれだけ返した。
「うん。
さ、もう行きなさい」
妻が満足そうにそう言うと、女性は一目散に家から出ていった。
「……」
妻は再び感情を無くした顔に戻り、隠して設置してあったカメラのスイッチを切る。
「さて、これであの子も共犯と。
もちろんバレるつもりはないけど、万が一バレた時は隠しておいたこの映像を提出して、心神喪失を装えばいい。
頭おかしいフリは大変だったわ。
ここまで考えるのは時間かかったけど、その分、コレには憂鬱を与えられたかしら」
妻は瞳孔の開いた目でやれやれとため息を吐いた。
「バレなければ、私は夫の生命保険で悠々自適の生活。
夫に倣って、新しい恋を始めるのもありかもね」
妻はいたずらげに笑う。
その笑顔は、まるで少女のように無邪気だった。
「さて、あとはこれをどう処理するかよね」
妻はかつて心から愛していたソレを、面倒事のような顔で見下ろす。
「……さすがに、2日連続でシチューは飽きるわね」
妻は少しだけ考えたあとにそう言うと、鼻唄を歌いながら処理を始めた。