イシュマエル(前編)
信仰国家イシュマエルの領内に入るとまわりの空気が一変した。この国では全てが戦闘のために整われている。そんな印象を見るものに与えた。牛馬は痩せこけ、土地は荒れ、男はおらず女ばかりが働いている。そのくせ子供ばかりは多い。子供たちは遊びもせずじっとひとかたまりになって物陰からこっちを見つめている。
彼らもいずれ聖都をめぐる聖戦にかり出されるのだろうか。
「……」
とにかく今は聖都へ急いで向かわなくては。悩みを振り払ってリディアは歩き出す。足にきつく太く布を巻いている。周りの土地を汚さないように。額にもきつく。烙印が見えないように。灰殺しである自分がどのような存在かリディアは承知していた。特にこの信仰国家イシュマエルでは。そして広い街道は避け、細い道を辿って聖都へ向かう。聖都の名は国家の名前と同じイシュマエル。通う人たちはほとんど無く、荒れた道だけがリディアの前に広がっていた。
……。
いっぽうのアシュド・グレイは広く開かれた街道を通って聖都へ向かっていた。貰った果実を食べ食べの優雅な旅である。ここイシュマエルでは貧しかったがアシュド・グレイという存在には優しかった。
アシュドの名を名乗ると早期の未踏世界への救いを求める者が多くいた。長い戦争はこの国家の国民を想像以上に疲弊させていたのだ。
しかし首都マージルに居座る狂信者たちからなる枢機委員会は聖都イシュマエルを守るため今日も若い男子を兵として徴集し、国境へと送り出す。
「いきたくないよぉ! いきたくないよぉ!」
おそらく前線に向かうのだろう、若い兵士達を乗せた幌馬車の中で少年が一人泣き叫んでいた。少年は街道を歩くアシュド・グレイを見つけると、おそらくそれがアシュド・グレイとは知らず一枚の紙を落とした。
自分に向けてのものだと理解し、街道に落ちたそれをアシュドは拾い上げる。
……おそらく買い物のメモだろう。はっきりとした文字でパンなどの日用品の言葉が書かれていた。
これだけの文字が書けると言うことはそれなりの教育を受けているようだ。
そしてここから読み取れることはこれを買わないと困る人が出ると言うことだ。
しかし買ったとしてそれをどこに……? と頭をひねってアシュドは気づく。メモの上に木判で押された意匠。
『首都マージル一番の仕立屋、アイリス』
これを目印にしていけば良さそうだ。アシュドは来た道を引き返し首都へと向かう。少年の叫びは狂したアシュドの心を動かすのに十分であった。
首都マージル。信仰国家イシュマエルのほぼ中央にある川沿いにできたもともとは小さな城塞都市である。実際ここの城塞内には必要最低限の施設しかない。信仰国家イシュマエルにとってあくまでも本来の首都は聖都であるイシュマエルなのだ。ここマージルは一時的に避難しているという体を採っている仮の首都。それでもアシュド・グレイにとってははじめて踏み入れる大都市である。なにしろ城塞の外に大きな街ができているのだ。長い争いは小さな城塞都市を大都市へと変えた。おそらくアイリスという仕立屋も城塞の外にあるだろう。アシュド・グレイはそう決めつけ、街の人間に声をかける。
「アイリスという仕立屋をご存じですか?」
「いや、知らないね」
そんなやりとりを十数遍繰り返し、やっとアシュドはアイリスという仕立屋の場所を知った。そしてそこはもうやっていないとも聞く。何かあったのだろうか。嫌な予感がする。アシュドは急いでそのアイリスという仕立屋のあるという場所へ向かう。
「……」
古く寂れたかつてはそれなりに豪華だったようにみえる二階建ての一軒家。看板にはたしかに『首都マージル一番の仕立屋、アイリス』の意匠がある。
呼び鈴を鳴らし声をかける。一度、二度、三度。返事がない。
「失礼しますよ!」
アシュド・グレイはしばらく考え狂人らしく勝手に家へ入りこむことにした。ドアを開けて中へ。一階は作業場のようだ。人がいるなら上階だろう。二階に上がる。人の香りがする。死にかけの。老人の。アシュドは当たりをつけてドアを開く。
そこに息も絶え絶えな老婆がベッドに横たわっていた。
「おばあさん、大丈夫ですか?」
「……」
返事がない。とりあえず持っていた水を老婆の側にあった空のカップに注ぎ飲ます。ゆっくりと。
ついで種なしパンを水に浸し老婆に与える。それで老婆はようやく声が出せるようになった。
「……あんた……、だれだい……」
「よくぞ聞いてくださいました。僕の名前はアシュド・グレイ。世界を旅する正真正銘の気ぐるいです!」
けたたましくも言うと老婆の顔はわずかにほほえんだ。
「……まあ、かのアシュド・グレイがこんなところにいらっしゃるなんて、なんとありがたい……」
老女はそう言って、聖印を結ぶ。
「ここの人達は歓迎してくれるいい方ばかりですね! 僕は息子さんから紙を預かってここまでやって来ました」
そういうと老女は眉をしかめる。
「息子? ……ああ孫のことかい。買い物を頼んだのだが……どこをふらついているのか帰ってこなく
て、困っていたところだよ。わたしゃ足が悪くてね。階段が上り下りできないのよ」
「そうですか、それは本当に大変ですね」
「ああ大変さ! ……ところで孫とはどこで知り合ったのかい?」
アシュド・グレイは状況を説明した。話を聞くと老婆は涙を流してうなずく。
「あの子もようやく聖戦に参加できるんだねぇ」
「けれどお孫さんがいなくなるとあなたの面倒を見る人がいなくなってしまいます」
「わたしゃ良いんだよ。もう十分に生きた。もう悔いは無いよ。アシュド・グレイ様、最後に良い知らせを持ってきてくれてありがとう、ありがとう……」
再び聖印を結んで何度も何度も礼をする老婆に向かってアシュドはさらに語りかける。
「お孫さんは行きたくないと言っていました、あなたのことを思いやんだのだと思います」
アシュドの言葉に老婆は露骨に眉をしかめる。
「情けない孫だね。わたしの息子達はみんな聖戦で華々しく散ったというのに。あの子と来たら、まったくなさけない、一人娘の夫が悪いよ。なまじ学があるばかりに腰抜けで、その血を引いちまった」
そういう老婆にアシュドは尋ねる。
「失礼ですがその娘さんとその夫は?」
「娘はとうに無くなったよ。嫁の旦那は枢機委員会への反逆罪でまだ牢屋にいるんじゃないかね。まったくこのアイリス家の恥さらしだよ。婿にまでしてやったのに」
「その婿さんはなぜ牢屋に?」
「……ただの仕立屋のくせに、空虚世界論を唱えてこの聖戦を止めさせようとしたのさ」
そう言って老婆は渋い顔をした。
空虚世界論。説明の必要があるだろう。この世界はおおよそ三つの思想に別れている。仮象世界論。実体世界論。そして空虚世界論である。仮象世界論はアシュド・グレイがこの第八十七次仮象幻想世界から未踏世界へ導いてくれるという信仰国家イシュマエルほか多くの土地で信奉されている論。
第二にこの世界は仮象と感じるのはまやかしで、実体として間違いなく屹立すると考え、この世がまやかしなのは神への信心が足りないのだとするザルード帝国が推し進める実在世界論。
そして最後にこの世界はかりそめのまま、アシュド・グレイの存在を信じずどこへも行けず泡のように散るといういわばニヒリズムを採用するのが、空虚世界論である。
空虚世界論者は最も数が少なく、異端の中の異端とされていた。またザルード帝国との非戦を唱え、聖都などくれてやるか分割統治をすれば良いだろうと唱え、信仰国家イシュマエルの存在意義に関わる意見を述べる危険分子とイシュマエルでは考えられていた。
よってここイシュマエルでは空虚世界論を唱えるものは思想犯として捕らえられて収監される存在なのである。