転輪は回る(中編)
「アシュド・グレイ?」
「アシュド・グレイだと?」
「どうしてこんなへんぴなところにアシュド・グレイなんて化け物が?」
人々は口々に口ずさむ。リズムのようなそのざわめきは輪のように広がって、中心に立つアシュドその人はまるで舞台俳優が観衆の様子を確かめるように耳を澄ます。思っていた反響。心浮き立つ反響だ。彼の狂える心が沸き立って、彼は心から絶叫する。自分の名前を。
「そうだ、僕がアシュド・グレイだ! このかりそめの世界を粉々に砕く化物その人だ! おはようございます、みなさん今日も良い日で気持ちいいですね!」
「わわわ、アシュド・グレイ! 本物だ!」
「世界を墜とすものだ!」
「本物のきぐるいだ!」
アシュドの名乗りに広場にいた人々全ては恐れおののいた。そんな群衆を見渡しアシュドは一礼をすると明朗に言う。
「そうですみなさん、僕は本物のきぐるい。そしてこのこの出来損ないで架空でしかないこの世界を墜とすもの。生まれながらに呪われて、生きながらに嫌われる。申し訳ありません。こうして僕は生まれてしまった!」
そうしてアシュドはもう一度ぺこりと優雅に一礼する。
「アシュド・グレイだと? なんだか知らないが世界を墜とすっているなら殺してしまえばいいじゃねえか」
アシュドのことをよく知らない男が言った。すぐに側にいた者が男を制止する。
「馬鹿! 知らないのか? アシュド・グレイを傷つける者は、この世の理から外れて死ぬことすらできず永遠にこの仮象の世界をさまようんだぞ!」
そう、彼の言うとおりだった。アシュド・グレイを傷つけたり殺したりする者はそれ相応の対価を受けなくてはならない。それがこの第八十七次仮象幻想世界に課せられたルールであった。
「……ちっ」
男は諦めて引き下がった。アシュド・グレイはと言えば、そんな周りの様子を気にした様子も無く、しばらく辺りを見回すと、市場の食べ物にその食指を伸ばした。お目当てはチーズを商う屋台。見れば見るほどおいしそうなチーズである。アシュドは屋台に近づき、大声で叫んだ。
「これを商っている人はどなたですかな!」
アシュドの問いに返事は無い。誰もがあっけにとられ返事すら忘れている。しかたなくアシュドは懐から銅貨を取り出した。
「僕はこれが欲しいのです! なにしろ朝早くから走るほど歩いておなかがすいてますからね! お金はこれで足りますか!」
返事は無い。アシュドは少しいらだったように声を荒げる。
「ではこの代価でいただきますよ!」
そう言ってアシュドは代価の割にはチーズを多めに取るとがつがつとほおばり始めた。広場の人はそれを奇異な目で見つめていたが、やがて一人の歯をほとんど無くした乞食姿の老人がアシュドに近づき声を出す。
「おお、アシュド・グレイ、世界を墜とす化物の王。お前さんも食事をするのかね」
「食事もしますし糞もします。それでも僕はアシュド・グレイなのです! 世界を墜とす化物なのです!」
老人の問いにけたたましくまくし立てるアシュド。すると老人はアシュドに言う。
「そうですか。ではの、それにもう少し銅貨を上乗せしたほうがよかろう。その価格ではせっかくのチーズ売りが商売あがったりでしょうから」
「ええ、ええ、いいですとも、何なら財布ごとあなたにお渡ししましょうか! 僕はそれでもいっこうにかまわないのですが!」
アシュドの言葉に老人は慌てて首を横に振る。
「いいやあんたも食事をするならお金は大事。それにアシュド・グレイならば法の外の住人。だれもその身を阻むことはできず、捕らえることもできませぬ。あなたもそれはご存じじゃろう」
「そうですね! ここまでだれも僕を捕まえようとも邪魔しようともしませんでした!」
「そうじゃろう。アシュドと名乗ることはそういう存在になりはてるという意味。誰からも嫌われ、おおっぴらに関わった者は処罰される。しかして当の本人はあらゆる罪から許されてどこでも自由に行き来ができる。ところであなたはどこから来て――それを聞くというのは野暮ですな――どこへ行かれるつもりなのですかな?」
アシュドは財布をしまい老人に向き直る。そしてけたたましい声で言った。
「よくぞ聞いてくださいました。僕が行きたいのはこの惑星の大地のへそ。そこに僕は行ってみたいのです」
アシュドの言葉に老人はニタリと歯の抜けた笑みを返す。
「おお、おお。それでこそあなたがアシュド・グレイである証。世界を壊すアシュド・グレイはそれを為すため大地のへそを目指すという。子どもの頃祖父から聞いた話とおんなじじゃ」
「そして世界を壊したくないと願う惑星の賢者が大地からへそを隠し、かくしてアシュド・グレイは永久にさまよう存在となったという奴ですな! 僕も知ってます!」
「ははは、あなたもその寓話を知っているとは愉快じゃな」
「そうでしょう。大いにお笑いください! 現に僕はこうしてさまよっているのですから!」
「ははは」
「あははは」
二人はしばらく笑っていたが、急に老人は目を鋭くさせ、アシュド・グレイに言った。
「なるほど、なるほど。偽物にしてはよくできておる」
「偽物ではありませんよ! おじいさん!」
アシュドはケラケラ笑ってそう言うが、老人は目を細め、一度鼻を鳴らすと秘密を打ち明けるように声をひそめ、言った。
「ふん、……では一つの真実を話そう。何を隠そうわしこそ真なるアシュド・グレイなのだ」